横綱の立ち合い変化は是か非か〜鶴竜が目指す「横綱相撲」とは〜(荒井太郎)
「これでやっと気が晴れた」
難産の末、昇進9場所目にして悲願の横綱初優勝を果たした鶴竜は、千秋楽翌日の一夜明け会見で重圧から解放された心境をそう語った。しかし、会見では立ち合い不成立で2度も変化をした14日目の稀勢の里についての質問が集中。本来なら祝福ムードが漂う席のはずが、ひたすら釈明に終始せざるを得なかった。
立ち合いで右に飛んだが鶴竜の手つきが不十分でやり直し。2度目の立ち合いで今度は左に変わり裏の裏をかいたはずだったが、稀勢の里に捕まって左四つに組み止められた。万事休すと思われたが、相手の拙攻にも助けられ右を巻き替えてもろ差しになると土俵際、スルリと体を入れ替えて寄り倒し。実質的にはこの一番が、賜盃のゆくえを決定づける大きな一番だった。だからこそ、何としてでも勝ちたかった。
「言い訳に聞こえるかもしれませんが」と前置きした上で、注文相撲を選択した真意を「受け止めて立つというのは出来なかった」と率直に語った。
場所中は古傷の左肩痛が再発。過去13勝28敗と圧倒的に分が悪い稀勢の里の突進をまともに受ける体調になく「勝たなくてはいけない」と、横綱のプライドを捨ててまでも勝負に徹したのだった。
横綱昇進以降、ここまでの道のりは苦しいものだった。新横綱場所は勝ち星が2桁にすら届かず、9勝どまり。その後も優勝争いに絡むことなく、昨年9月場所には初顔の逸ノ城に敗れ、41年ぶりとなる新入幕力士への金星配給という不名誉な記録も残した。さらに今年3月場所からは左肩の負傷で2場所連続全休と、試練は容赦なく襲いかかった。
横綱審議委員会では日馬富士とともに、厳しい意見が飛び交うこともあった。世間からも“弱い横綱”というレッテルを貼られていることは否めないだろう。ここ一番で見せる立ち合い変化も、そういった見方に拍車をかけているようにも思える。しかし、横綱勝率.726は年6場所制となった昭和33年以降に昇進した過去の横綱と比較しても遜色ない数字であり、栃ノ海、朝潮、琴櫻、隆の里、旭富士らを上回っている。
平成15年1月場所で優勝22回の貴乃花が引退。同場所後に横綱に推挙された朝青龍は25回目の優勝を果たした直後に角界を去ると、その後は白鵬が次々と記録を塗り替え、聖域と言われた“大鵬超え”を果たした今、優勝回数は35回を数える。
ここ20年ばかりは優勝20回超の大横綱たちが、間断なく角界の頂点に君臨し続けている。相撲史を俯瞰してみれば、むしろ今が例外的な時代だということに気づかされる。朝青龍や白鵬の独走に慣らされてしまった我々は、いつしか横綱に設定するハードルを無意識のうちに高くしてはいないだろうか。
新横綱場所で9勝に終わった日馬富士に対し、当時の横審が引退勧告をチラつかせたのもいい例だ。すっかりヒールとなってしまった鶴竜が千秋楽の土俵上で、不本意ながら耳にすることになった“照ノ富士コール”も、昨今の例外的な現象によって形成された世論がその背景にあるような気がしてならない。
“土俵の鬼”横綱初代若乃花の10回の優勝を紐解くと、優勝を大きく左右する一番では格下相手に対しても臆面もなく立ち合い変化で勝ちにいく相撲が少なくない。例えば、横綱昇進が懸かっていた昭和33年1月場所、千秋楽の小結若前田戦に勝てば優勝の一番は、いきなり右に変わって上手からの出し投げであっさりと退け、2度目の賜盃と綱を手にした。35年9月場所14日目は、星の差1つで追いすがる大関柏戸を立ち合いで右に変わって上手投げ。この瞬間に自身最後の優勝が決まった。
こうした相撲にも当時のファンや好角家はおおらかだったのか、非難の声を浴びせることはなかった。元横綱3代目若乃花の花田虎上氏は「『横綱は変化するな』というのは、体の小さい者は横綱になるなと言っているようなもの」と話し「そういうムードはマスコミが作り出していると思う」と指摘する。
会見の最後に鶴竜は語気を強めて、キッパリとこう言い切った。
「1つ言えるのは、人に認められたくて相撲を取っているわけではない。自分は自分の相撲人生を生きていく」。
年6場所制となって横綱に昇進したのは初代若乃花から鶴竜まで27人いるが、そのうち優勝回数が10回に満たない横綱は、現役の日馬富士、鶴竜を含めて16人。大半の横綱は大横綱の脇で仇花のように散っていったが、おのおのの時代に放った一瞬の輝きはファンの記憶に永遠に刻まれている。鶴竜が白鵬になれないのは言わずもがな。卓越したテクニックと時に飛び道具も辞さない第71代横綱は、今回の優勝を機になお一層、自分の相撲を貫く決意を強くしたに違いない。それが鶴竜にとっての横綱相撲なのだから。
〈文:荒井太郎(相撲ジャーナリスト)〉