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F1復帰のホンダに必要なのは「技術」よりも「寿司職人」だ!(玉木 正之)

祝! ホンダF1復帰! そこに期待することは…?

「ホンダがF1に復帰!」そのニュースを聞いて、私の意識は20年以上前に舞い戻った。そのころ、私は、F1の魅力に完全に取り憑かれていた。いや、「F1文化の魅力に……」と言い直すべきだろう。

プロスト、セナ、マンセル、それに中嶋悟や、ホンダのエンジンが大活躍していたころのことだ。フジテレビが放送するグランプリ・シリーズを毎回興奮して見ながら、この華やかなビッグ・イベントには、テレビに映し出されない、もっと大きな「背景」があるに違いない、と感じた私は、なんとかナマで取材したい……と熱望した。

そのころ、ラジオのトーク番組で、F1の実況中継をしていた古舘伊知郎さんと御一緒する機会があった(古舘さんは、プロレスやF1の実況アナウンスをしている時のほうが面白かった……と、いま思うのは私だけでしょうか)。そのとき、私はF1に関して、次のようなアドヴァイスを受けた。

「F1を初めて見るなら、絶対に最初はヨーロッパで見ることをオススメしますよ。鈴鹿やアメリカで見るのとは全然印象が違いますから。最初にF1をヨーロッパで見ると、完全の圧倒されて、ハマッてしまいますから……」

そのアドヴァイスに従い、私は鈴鹿へ足を運ぶことを何度か我慢した。そして1991年7月、フランスでのテレビの仕事が入ったのを利用して、ブルゴーニュ州のマニクールに新しくオープンしたサーキットで初めて行われたフランス・グランプリを取材することができた。

取材の申請などをモーター・スポーツに詳しいカメラマンに依頼すると、当時F1に参戦していたミナルディ・チームに所属していた日本人GMのS氏の協力を得ることができ、ミナルディ・チームに帯同する形で、取材をする許可が下りた。

そこで、まず地図で指定されたミナルディ・チームの宿舎へと、パリから5時間くらいレンタカーを走らせた。……と言っても、そもそも小生はクルマの免許すら持っていないので、カメラマンの運転するプジョーの助手席に座っただけだった。そんなクルマと無縁な小生にF1の取材が可能か、と自問した結果は、江川の投球を打てるわけがないのにプロ野球の取材ができたのだから問題ない……というものだった。

ミナルディ・チームの宿舎に到着して驚いた。なんと、そこは16世紀に建てられたルネサンス様式の古城だった。所有者はパリの某保険会社の社長。その広い敷地に建つ歴史的建造物を、ミナルディ・チームは、グランプリの期間中借りていたのだ。

入口のゲートからクルマで3〜4分。子馬ほどの大きさの(と言うのはちょっとオーバーだが)ドーベルマンが2匹放し飼いにされた庭や森を抜けて、6本の尖塔のあるハムレットの舞台のようなお城に到着。そこがF1チームのスタッフと家族、それに我々のようなゲストの宿舎だった。

古城だから、けっして暮らしやすくはなかった(シャワーのお湯も、出たりでなかったり……)。が、趣(おもむき)はバツグン。「ハムレットの父親に逢えそうだ」と小生が冗談を口にすると、スタッフの一人から「昨晩、それらしき姿が出たそうだ」という答えが返ってきた。

丸い尖塔の5階にあるが小生の寝室で、そこへ向かう暗い階段をミシミシと音を立てて昇るときは、ちょいと背筋がぶるっとした。しかし、窓の外に広がる光景を見ると、そんな不安も消えた。一面の葡萄畑の南の方向の遠くの地平線には、セザンヌが愛して描いたプロヴァンスの岩山と思しき山々が見える。

丸い部屋の反対側の窓からは、葡萄畑の間を縫って滔々と流れるロワール川が見えた。その河岸に建つ巨大な原子力発電所も……。

翌日からのF1の取材は、古城の宿舎に対する驚き以上のものがあった。

予選のサーキットには、F1エンジンの鋭い金属音が響くなか、ふとその音が途切れると、ショパンやドビュッシーやラヴェルのピアノの音色が、どこからともなく聴こえてきた。誰が演出しているのかは知らないが、翌日の予選2日目のBGMは、パッヘルベルのカノン、アルビノーニのアダージョ、ヴィヴァルディの『四季』など、室内楽のバロック音楽で統一されていた。

そして決勝の当日。10万人以上の観客(そのほとんどがキャンピングカーでやって来て、広大な駐車場で毎晩バーベキュー・パーティを開いていた)が押しかけるなか、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』のファンファーレ(映画『2001年宇宙の旅』でも使われたアレです)で、各入口がオープンされ、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』が勇ましく流れ(映画『地獄の黙示録』のヘリコプターによる奇襲のBGMで流れたヤツです)、それが何度か繰り返されたあと、7機のミラージュ戦闘機によるアクロバット飛行が行われ、その間にミッテラン大統領(当時)がヘリコプターで降り立ち、開会式が始まった。

大統領の簡単な挨拶が終わり、F1のマシンがコース上に勢揃いすると、『ラ・マルセイエーズ』(フランス国歌)が高らかに演奏され、観客席が一緒になって大合唱。それに続いてイタリア第2の国歌と言われるヴェルディ作曲オペラ『ナブッコ』の合唱曲『行け、わが想いよ金色の翼に乗って』が演奏され(映画『ゴッド・ファーザーPart3』でドンがシチリアに帰ったときや、トリノ冬季五輪の閉会式でも流れた音楽です)、フェラーリの旗を振ってる観客が大合唱(それはF1に大きく貢献してるイタリアへのオマージュだと、ミナルディ・チームのスタッフは言っていた)。

そして一斉にF1マシンのエグゾースト・ノートが轟然と響き渡り、レースが開始されたのだった。

いや、音楽だけではない。お世話になったミナルディ・チームのスタッフ達は、全員ミッソーニのファッショナブルな制服とスニーカーに身を包んでいた。コックが作ってくれたペペロンチーノとパルメザンチーズは、じつに見事な味わいだった。

フェラーリのテントで食ったボンゴレのパスタも最高の味わいだったし、ピザ職人が目の前でピザを焼いて振る舞っていたが、その味がこれまた最高! おまけに赤ワインはバローロで、コーヒーメーカーのスイッチを入れるとコクのあるエスプレッソが出てきた。エスプレッソの味わいは、ミナルディも同じだったが、イギリスのウィリアムス・チームのテントでは、ボーン・チャイナでダージリンを振る舞っていた。

それら味わいは、間近で聴いたフェラーリV12(当時)のエンジン・テストの音とともに(当時のミナルディはフェラーリ・エンジンを搭載していたのだ!)、20年以上経った今も舌と耳の記憶に焼き付いている。

ちなみに、フェラーリの本社(創業者エンツォ・フェラーリの出身地)は、トスカーナと並ぶイタリア料理やワインの中心地エミリア・ロマーニャ州の州都モデナ。そこはバルサミコの生産の中心でもあり、大オペラ歌手ルチアーノ・パヴァロッティとミレッラ・フレーニの出身地でもある。だからフェラーリ・エンジンのエグゾースト・ノートは、ハイノート(高音)で美しい?……閑話休題。

私がマニクール・サーキットを訪れた当時は、もちろんホンダもF1に参戦していた。ホンダのエンジンは、もちろん評判が良かった。最高のエンジンだと、誰もが口を揃えた。しかし、悪評(というほどの悪い評判でもないが)も耳に入った。

というのは、ホンダの連中には「遊び心」がないというのだ。F1グランプリでは、時折いろんな余興が行われ、各チーム・スタッフのほとんど全員が参加して楽しむ。例えば、サーキットを使った自転車レースや、50ccバイクでのレース。サーキットを使ったマラソン大会やリレー大会もあれば、女装コンテスト(スタッフの男性がレースクイーンに扮する)などもやったことがあるという。

が、ホンダのスタッフは誰も出てこない、というのだ。「出てこないからいけないとはいわないけど、面白くはないね……」とミナルディ・チームのコックさんが口にした言葉を今も憶えている。その太ったコックさんは、普段はいつもジャガイモの皮を剥いていたが、レースが始まるとピットインしてくるマシンの真ん前に立ち、ジャッキアップする役割を果たしていた。

ホンダはエンジンは素晴らしいけど、F1文化の一員ではない……ミナルディ・チームのコックさんの言葉は、そんなふうにも聞こえた。勉強ができてスポーツも万能だが、学校の授業が終わると一緒に遊ぶことなくサッサと塾へ通う優等生……といったところか。

ホンダの広報の人と話したときに、他チームのスタッフの「声」を伝えると、広報氏は、「そこまで意識が回りませんよね……。私も、ヨーロッパ出張3週間目で、ヘトヘトで早く日本へ帰りたいと思ってるくらいですから……」と苦笑いした。

「こんな楽しい仕事をしてるのに、何をバカなことを……」と言いかけて、私はその言葉を呑み込んだ。彼は、缶コーヒーを飲みながら、学生食堂に出ているようなケチャップべとべとのナポリタン・スパゲッティを食べていた。

その彼が、「我が社も、今後,F1とどう取り組めばいいか、いろいろ考えているところなんですよ……」と言ったので、私は、こう答えた。

「銀座の寿司職人を雇って、ホンダのブースで寿司を振る舞ったら、どうですか? 広いスペースがあるから、流し素麺なんてのをやるのもいい。エンジンの開発や製作に何百億円もかけるなら、寿司や素麺に年間2千万円くらいかけても、安いものでしょう」

広報氏は苦笑いするばかりだったが、私の言葉に苦笑いして驚かなかったのは、私の言ってる意味を理解してくれていたにちがいない(だけど、会社は、そういうことに予算を取ってくれないのだ?)……と、私は勝手に理解した(そう思わないと、あまりにも寂しいですからね)。

とにかく、そのときの私のF1体験は、じつに素晴らしいものだった。古舘伊知郎さんのアドヴァイスは間違っていなかった、と確信し、それから3〜4年間は鈴鹿にも足を運び、ヨーロッパの古城の宿舎と四日市のビジネスホテルの違いも体感した。

その後、F1の仕事は佐藤琢磨さんにインタヴューしたくらいで、レース場には足を運んでいない(マカオ・グランプリを見に行って、女性レーシング・ドライヴァーの井原慶子さんにインタヴューする仕事はしたが……)。

あれから20年ほどを経た現在、F1の「舞台裏」がどのような変わっているのか、あるいは変わっていないのか、詳しいことは知らないが、来年からホンダの再戦が決まったことを心から喜び、激励の拍手を送ると同時に、今度こそ、素晴らしいエンジンの製作と同時に、寿司と流し素麺を是非とも実現してほしい、と思った。


Jenson Button driving for Honda F1 at the 2008 Chinese Grand Prix
photo by Tim Wang from Beijing, China
source=http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jenson_Button_2008_China.jpg?uselang=ja

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