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いま改めて考える「スポーツ」と「教育」と「体罰」(玉木 正之)

この原稿は、4月8日にテンプル大学日本校麻布学舎で開かれた「日本の体罰」に関するパネル・ディスカッションでの冒頭スピーチのために作成したものです。

パネリストは、スタンフォード大学准教授で京都大学「白眉センター」http://www.hakubi.kyoto-u.ac.jp/ の助教としても活動しておられるアーロン・ミラー氏と、日本の野球について『菊とバット』や『和をもって日本となす』など数多くの著作があるロバート・ホワイティング氏と小生の3人。

ミラー氏は、近々アメリカで『Discourses of Discipline ~ An Anthropology of Corporal Punishment in Japa's Schools and Sports』という日本の体罰に関する興味深い研究をまとめた一冊を上梓される予定です。

マスコミ的には、早くも「過去のもの」になりつつある(東京五輪招致に影響するため?)「体罰問題」ですが、絶対に風化させてはならない「大問題」として、News-Logにも小生の基本的考えを発表しておきたいと思います。

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日本のスポーツ界と学校体育が、いま「体罰」という「暴力問題」で大きく揺れています。この問題について、文部科学省の下村博文大臣は、「日本のスポーツ史上最大の危機」と捉え、「スポーツの指導から暴力を根絶する」と宣言しました。

しかし、その言葉通りに体罰という名の暴力が根絶されるかどうか、少々疑わしいと言わざるを得ません。なぜなら、そこには日本のスポーツ界や体育教育界に根ざす、はなはだ難しい問題が横たわっていると思われるからです。

では、日本のスポーツ界や体育教育の世界に、なぜ「体罰」がなぜ存在するのでしょう? 私は、次の4つの理由が考えられると思います。

一つは、西洋からの輸入文化であるスポーツに対する日本人の無理解。

二つ目は、その無理解と大学の縦社会のなかから生まれた「体育会」という組織の存在。

三つ目は、第二次世界大戦における主に陸軍での上官の暴力の蔓延と、それが戦後社会、とくにスポーツの世界に浸透したこと。

四つ目は、80年代から90年代にかけて、日本の主に公立中学校が学級崩壊という荒んだ状況に見舞われ、それを力で抑えようとした各都道府県の教育委員会が、体育大学の体育会系で育った体育教師を学校に導入したことです。

順番に説明しましょう。まず、スポーツに対する、日本人の無理解についてです。

今年になって、大阪桜宮高校のバスケットボール部や女子柔道のオリンピック選手に対する「体罰問題」がマスコミで大きく取りあげられたとき、私は、それらの事件対する感想を求めに来たテレビ局の取材クルーや、電話をかけてきた記者に対して逆に質問を投げかけ、ちょっとしたアンケートを試みました。

それは、2つの質問でした。一つは「あなたはバレーボールというスポーツを知ってますか?」そして、もう一つは「あなたはバレーボールのバレーとは、どういう意味か知っていますか?」

その結果、全員が「バレーボールを知ってる」と答えましたが、バレーという言葉の意味を知ってる人は、たった一人もいませんでした。

この点を強調しておきますが、今年の2月と3月に出逢ったマスコミ関係者約20人にプラスして、居酒屋やパーティで出逢った友人など10人以上、合計約30人くらいの小生の周辺の日本人……おそらく、真っ当な大人のなかに「バレーボール」のバレーという意味を知っている人物は一人もいなかったのです。

なかには、踊るようにボールを空中に舞わせるからと、チャイコフスキーの『白鳥の湖』などを表す言葉だと答えた人もいました。たしかに、日本語では「volley ball」ではなく「ballet ball」と発音します。

また、バレーボールのバレーの意味を「谷(Valley)」と答えた人もいました。

選手と選手の間の「谷間」にボールを落とさないようにするボールゲームというわけです。これは、ある朝のテレビ番組の有名な司会者が、本番中に私の質問に答えたものでした。

その有名な司会者は冗談半分でそう答えたのか、本当にそう思っていたのかははっきりしませんが、大学のバレーボール部出身の新聞記者おなかにも「谷」と答えた人が一人いました。

また、1週間後にそのテレビ番組に一緒に出演した下村文科大臣に楽屋で同じ質問をしてみると、彼もバレーボールのバレーという言葉の意味を知りませんでした。

そのとき同じ番組出た柔道の元金メダリストで、国会議員になった女性も(あえて名前は言いませんが)知りませんでした。

元バレーボールの選手としてインターハイ(全国高校選手権)に出場したことのあるNHKのディレクターも、バレーの意味を知りませんでした。

つまり、ほとんどの日本人がバレーボールのバレーが「VOLLEY」のことであり、テニスのボレーやサッカーのボレーシュートと同じ言葉であることを知らないのです。そして、知らなくても平気なのです。それは、ある意味で当然のことと言えるかもしれません。

バレーの言葉の意味など知らなくても、バレーボールがどんなふうにプレイされるスポーツであるかをわかっていれば、去年のロンドン・オリンピックで日本の女子チームが銅メダルを獲得したことを大いに喜ぶことができます。

1964年の東京オリンピックや、1976年のモントリオール大会で金メダルを獲得したことも、さらに日本の男子バレーボール・チームが1972年のミュンヘン・オリンピックで金メダルに輝いたことも、別に「バレー」という言葉の意味とは無関係とも言えます。

ほとんどの日本人は、バレーボールを中学や高校時代に体育の授業で経験したはずですが、そのとき「バレー」という言葉が本来はどのような意味の英語で、どのように日本語的に訛ったのかといったことは、いっさい学びません。

また、バレーボールが19世紀末のアメリカで生まれたボールゲームだとは教えられないまま、ソビエト連邦時代のロシアか、東ヨーロッパで生まれたスポーツだと思っている人も大勢います。

それは私と同世代の高齢者に多く、東京オリンピックで日本の女子チームが優勝して以来、長い間、日本の強敵がソビエトと東ヨーロッパの国々で、アメリカを初めとする西側諸国にバレーボールの強い国が現れなかったから、ともいえます。

つまり多くの日本人は、バレーボールをプレイしたことがあり、どうなればどっちのチームが勝ち、どんな方法や作戦で闘い、どのようなボールゲームであるかということは知っていても、バレーという言葉の意味やバレーボールというスポーツの生まれた経緯や、その歴史などはまったく知識として持っていないのです。

学校の体育の時間にバレーボールを教える体育の先生が、そういったことを知っているかどうかは調べたことがありませんが、はなはだ疑わしいことですし、先生が生徒に教えてくれることはほとんどありません。

それに、生徒が疑問に思って「バレーボールってどういう意味ですか?」と先生に質問することもないのです。

それは、おそらく日本の体育の先生にとっては喜ぶべきことと言えるでしょうが、そのような質問を口にする生徒はいないのではなく、禁じられているという言い方をしたほうがいいかもしれません。

というのは、私の中学高校時代の体育の授業もそうでしたが、体育の先生が常に口癖のように繰り返し口にしていた言葉で、いまも私が憶えている言葉があります。それは、「理屈を言うな。身体を動かせ」というものでした。

理屈を言わず、身体を動かして、そして、試合に勝つ。そう教える体育の教師は、バレーボールとはいつ、どこで、創られて、どのようなスポーツなのかといった「理屈」はいっさい教えてくれません。

同様に、ベースボールはいつ、どこで、どのようにして誕生したボールゲームなのか、バスケットボールについても、サッカーやラグビーについても、体育の先生は、どのようにプレイするのかといったルールや身体の動きは教えてくれますが、そのスポーツに関する知識は教えてくれません。

ちなみに、ヨーロッパや多くの国々でフットボールと呼ばれているボールゲームが、なぜアメリカや日本ではサッカーと呼ばれているのか、サッカーとはどういう意味なのかということを知っている日本人は、ほぼ皆無といえるでしょう。

その回答を知りたい人がおられればウィキペディアを見ていただくことにして、ここでは時間を節約して先に進むことにしますが……。

サッカーと言う言葉だけでなく、スポーツにはほんの少し考えただけでも答えのわからない疑問が数え切れないほど存在します。

たとえば、テニスのスコアでゼロのことをなえラブというのか。15、30のあとのポイントの数え方がなぜ45ではなく、40なのか。また、野球で左投手のことをどうして「南の手のひら=サウスポー」と呼ぶのか……。

サッカーやラグビーではオフサイド……つまり基本的にボールよりも前で自由にプレイすることを禁じるルールが存在しますが、なぜオフサイドが反則とされるようになったのか。反対にバスケットボールではオフサイドのルールは存在しませんが、なぜボールを持って3歩以上動いてはいけないのか……。

……などなど、日本の体育の授業では、それらの疑問に対する回答はいっさい教えてくれません。理屈は抜きにして、体育の先生は「つべこべ言わずにルールを守れ!」としか言いません。

さらに「走れ!」「ダッシュ!」「グラウンド3周!」「腕立て伏せ!」「スクワット!」「腹筋!」……などと生徒に命令しますが、そのような肉体訓練もなぜそれが必要で、何のために行うのか、という「理屈」の説明はなく、そこには、身体を鍛えることはいいことであるという前提があるだけです。

このような体育教育の積み重ねの結果、強いスポーツ選手に育った日本のスポーツマンや、スポーツの指導者や、関係者は、スポーツの理論……ルールの成り立ちや、科学的な練習方法や、チームの運営などについて、深く考えることがうとくなります。

その結果、国際的なスポーツ団体のスポーツ・ルールを改正する会議や、イベント運営に関する会議などで、日本のスポーツ関係者はほとんど建設的な発言をすることができないような状態が続き、国際的なスポーツ団体の理事などの要職に就くこともできなくなっているのが実状です。

それと同時に、理屈抜きの体育教育……言葉での説明を不要のものと考える体育は、体罰の一歩手前の状態、体罰を生み出す温床とも言えるでしょう。

「理屈を言うな、身体で覚えろ」……という言葉が、スポーツに対する理解を否定し、体罰を肯定する出発点になっているとも思えます。

そのようなスポーツに対する無理解のなかで、バレーボールのバレーの意味や、サッカーという言葉の意味を知らないこと以上に、最も大きな問題は「スポーツ」という意味に対する無理解です。

「スポーツとは何か?」と訊かれて、答えられる日本人は大学で「スポーツ学」や「スポーツの歴史」を教えている教授以外、ほとんど存在しないといっていいでしょう。

スポーツは、古代ギリシアや近代イギリスで生まれ、すなわち社会のリーダーを選挙で選ぶ民主主義と深い関係があり、戦争や闘いによって王様や独裁者が暴力的に支配者となる社会では生まれないし、発展しない、という程度の常識が広まってほしいと私は考えます……が、せめてスポーツと体育とは別の種類のものであり、その言葉の混同だけでも改めてほしいと思っています。

日本では「Health Sports day」と英語で呼ぶ国民の祝日を「体育の日」と呼んでいます。「National Sports Festival」も「国民体育大会」です。「gymnasium」は「体育館」で、「Athletic meet」は「体育大会」です。そして英語では「Nippon Sport Science University」と呼ばれている大学は、「日本体育大学」「日体大」のことです。

参考までに、日本女子体育大学の英語名も紹介しておきますが、こちらは「Japan Women's College of Physical Education」で、日本ではスポーツウーマンの方がスポーツマンよりも世界で活躍しているのは、この正直さが原因かもしれません。

それはともかく、日本ではフィジカル・エデュケーションとスポーツの混同が著しと言わざるを得ません。

ここで体育とスポーツの違いを述べることは省略しますが、明治時代に最初「PLAY」や「GAME」を意味する「遊技」が、そのうち「EXERCIZE」を意味する「運動」と訳されるようになり、やがて「体育」という訳語が定着した背景には、おそらく日清、日露の戦争を経て、軍国主義が台頭してきた歴史が関係していることでしょう。

楽しくスポーツをプレイするのではなく、身体を鍛えて強い兵隊を作ることがスポーツを利用した体育の目的となったのです。

そして、大学のなかのスポーツ・クラブも「体育会」と呼ばれるようになり、日本の軍隊、主に陸軍のなかの上下関係、すなわち上官の暴力による支配が体育会内部の上下関係、先輩と後輩の関係にも蔓延するようになり、暴力が「体罰」として定着するようになったと私は考えています。

第二次世界大戦後の新しい教育を推進したマッカーサー将軍とGHQは、学校教育から軍事教練を排除し、さらに柔道、剣道、薙刀、銃剣術などの武術も排除し、スポーツを持ち込もうとしました。

大学教育の教養課程のなかにもスポーツを取り入れ、数多くの体育教師を作るために、筆記試験は少々点数が低くてもスポーツを教えることのできる教師を育てました。

マッカーサー将軍とGHQの幹部は、戦後日本の民主主義を育てるためには、非暴力主義のなかで生まれたスポーツというもの……つまりルールを自分たちで創り、そのルールをみんなで守るということを通して、民主主義を浸透させることができると考えたわけです。

その考え自体は間違ったものではありませんでしたが、日本の大学で教えられるスポーツは、みんなで意見を出し合う民主主義的なスポーツではなく、上意下達で先生や先輩から言われる命令は、どんな理不尽なことでも受け入れなければならず、その命令に反すれば体罰を伴う軍隊的な「体育会系組織による体育」だったのです。

1945年8月15日の日本の敗戦からわずか3か月後の11月23日に、GHQは神宮球場でプロ野球の東西対抗戦を行うことを許可しています。

そのとき、戦争に生き残って試合に出場した別所毅彦投手はGHQの幹部に“What is democracy?”と訊いたということが、鈴木明氏の本に書かれています。その答えは、“Democracy is Baseball”だったそうです。

しかし、今も日本の高校野球を見ればわかるように、少なくとも日本の学校で行われている野球は、プレイしている選手が自分の考えで動く民主主義的なスポーツではなく、監督のサインという絶対的な命令通りに動く体育でしかないのです。

最近の事情はよく知りませんが、15年くらい前までの高校野球に対する取材経験で語るなら、私自身も、監督の生徒に対する激しい「体罰」……殴る蹴る、ボールを身体に当てるなどの暴力を何度も目撃しました。それらの監督のなかには、テレビや新聞によって「名監督」と評価されていた人物もいました。

このような学校でのスポーツや体育教育における「体罰」は、戦争と軍隊の記憶が遠ざかるとともに薄れることはなかったようです。よく言われることですが、体罰を通してスポーツを学んだ者は、やはり体罰でしか教えることができないからです。

そうして体罰によるスポーツ教育、体育教育が延々と受け継がれるなか、その体罰がエスカレートすると同時に、1980年代から1990年代にかけてイジメや学級崩壊という言葉が広がるのと足並みを揃えるようにして、体罰は体育以外の一般の教育現場にも広がってしまいます。

主として中学生による暴力的な反抗で教育現場が荒んだとき、それを「力」で抑えようとした学校が、体育の先生……もっと正確に言うなら体育会系出身の体罰で育った先生を多く採用しました。その結果、体罰という名の暴力は急激にエスカレートし激しさを増します。

大阪桜宮高校のバスケットボール部の顧問が、キャプテンを何十発も殴ったという信じられない暴力のエスカレートも、柔道の指導者が女子の五輪候補選手の首を絞め、その女子選手が嫌う虫の屍骸を顔に近づけたなどという、まったく信じられない行為に及んだのも、80〜90年代の学級崩壊と体罰容認という考え方の招いた結果ではないか、と私は推測しています。

そして現在、体罰という名の酷い暴力が表沙汰となり、スポーツと体育の現場から、それを一切取り除こうという声も出るようになりました。

長い間、体罰が日常化していた社会のなかで、いますぐ体罰をすべてなくすことは難しいという人もいます。体罰を禁止したら、確実に日本のスポーツはレベルが下がると自分の無知をさらけ出すような意見を恥ずかしげもなく堂々とテレビで口にした元スポーツマンもいます。

しかし、現状は体罰という名の暴力がエスカレートして限界を超えた結果、多くの日本人がやっとスポーツの正しい方向性に気付いたと言えるかもしれません。一種の弁証法的な帰結です。

たとえはよくないかもしれませんが、私は3年前に煙草をやめました。それまでは、1日にロングピースを何箱も吸う愛煙家でしたがピタリとやめました。理由は簡単で、脳出血を起こして1か月ほど入院したからです。

その間に、常習性をもたらすニコチンの成分は血液のなかから消え、煙草を吸いたいとは思わなくなりました。だから、煙草をやめようと思っているけどやめられない人には、私はこう言うことにしています。「煙草をもっと吸いなさい。いっぱい吸って脳出血を起こしたら、やめることができますから」。

幸い私は大きな後遺症もなく、今は元気に仕事に復帰しています。日本の体育の世界、スポーツの世界も今は、脳出血を起こして入院しているような状態です。

いま中学生や高校生のバスケットボールの試合は、非常に静かななかで行われているそうです。というのは、体育教師の「ばかやろー!」「やめてしまえー!」といった怒鳴り声が消えたからです。「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」ということわざがありますが、いまはそんな状態のようです(※編集部注:熱いものを食べてやけどした人が、今度は冷たい食べものも吹いて冷まして食べるように用心深くなるという意味)。

さて、日本のスポーツや体育がどんな指導法に落ち着くのか……。体罰はもちろん完全になくし、スポーツという素晴らしい文化に対する理解を深めないといけないと思います。

しかし、一言付け加えておきますと、私は脳出血したあと、3か月後くらいから、お酒は飲むようになりました。もちろん、「煙草は絶対にダメだけど、お酒は少しくらいならいいから……」という医者の言葉に喜んで従った結果です。

私の「体罰」に関する冒頭スピーチは、このへんで一旦止めておきましょう。ご静聴ありがとうございました。

(テンプル大学「体罰に関するパネル・ディスカッション」より)
写真提供:フォート・キシモト