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スポーツ教養講座/スポーツと文学(5)「人間ドラマ」礼讃の気風…しかし競技そのものを描いた名作も多い

 野球が大好きだった正岡子規は、野球に関する俳句や和歌を数多く残した。

 

 恋知らぬ猫のふりなり球遊び

 夏草やベースボールの人遠し

 今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸のうち騒ぐかな

 打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ちくる人の手の中に

 久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

 若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如くものあらじ

 

 それから約一世紀後、俵万智は次の一首を詠んだ。

 

 日本を離れて七日セ・リーグの首位争いがひょいと気になる

 

 子規の歌が、ボールゲームの具体的愉しさを描写したのに対し、後者から目に浮かぶのは、スポーツ新聞の順位表でしかない。現代の情報化社会というのは、スポーツそのものの姿を消し、結果のデータのみが残すものなのか?

 

 自らボートの選手として、第二次大戦前の1932年に開催されたロサンゼルス・オリンピック大会に出場した田中英光は、その経験をもとに、陸上女子選手との恋愛小説『オリンポスの果実』を手記の形で書いた。

 

 が、そこにもスポーツの詳しい描写はほとんど存在しない。

「ボオトを漕ぐ苦しさについて、ぼくは、敢(あえ)て書こうとは思いません。漕いだものには書かなくても判り、漕がないものには書いても判らぬだろう」……

 

 日本のスポーツ小説やスポーツ・ノンフィクションの多くは、スポーツそのものの愉しさや素晴らしさを描く以上に、「人間ドラマ」と称して選手の「人生ドラマ」に注目する。そのきっかけを作ってしまったのは、スポーツマン自身の書いた、スポーツの書かれていない小説『オリンポスの果実』がきっかけとなったのかもしれない。

 

 一方、アメリカの野球小説には、野球そのものの面白さを描いた作品が多い。

 

 J.サーバー「消えたピンチヒッター」には、メジャーに1試合だけ実在した身長1メートル以下の打者が登場。監督は満塁のチャンスで四球押し出しの決勝点を狙う。が、投手の投げた超スローボールを、この打者がちょこんと打ったことから、抱腹絶倒の大騒動となる(モデルとなったのはエディ・ゲーデルというセントルイス・ブラウンズの選手。身長109センチ。1951年に1試合だけ出場し、四球で出塁。翌日すぐにコミッショナーによって、出場が禁止される。背番号は1/8)。

 

 W.L.シュラムの「馬が野球をやらない理由」では、走攻守ともに抜群で、ドジャーズで大活躍する「馬」が登場。ところがある日、地方球場の横に競馬場があるのを発見した「馬」は、自分が野球をやっていていいのか悪いのか、大いに悩み始める。自分は競馬をするべきなのではないか……と。

 

 R.クーバー『ユニバーサル野球協会』は、自ら作った野球ゲームに熱中するあまり、現実と虚構の区別がつかなくなる男を描き、G.プリンプトン『遠くから来た大リーガー』では、ヒマラヤでの修行で時速270キロの剛速球を身に付け、メジャーで大活躍しながら急に消え去る「客人譚(まれびとたん)」が神話のように描かれる。

 

 いや、日本にもそんなメジャー級の作品がないわけではない。

 五味康祐『一刀齋は背番号6』は、奈良の山奥から出てきた一刀流17代の末裔が、プロ野球のジャイアンツで大活躍。実在の女優を相手に「色道修行」にも挑もうとする破天荒な物語。

 

 野球ではないが、池波正太郎『緑のオリンピア』では、試合に悩む三段跳び選手の前に、彼にしか見えない妖精が現れ、スポーツの素晴らしさと、スポーツマンの心理を描く。

 

 虫明亜呂無は『風よりつらき』で、不運にも全盛期に戦死した大投手沢村栄治の物語を、妻(女)の目を通して鮮やかに描いた。「栄治は野球がさかんになれば、ますます、この世に復活し、やがては永遠の生命をかちえるにちがいない。でも、女は恋をしたときしか生きていない」

 

 さらに井上ひさしの野球小説(『下駄の上の卵』『ナイン』等)、倉橋由美子の陸上競技小説(『一〇〇メートル』)、岡本かの子の水泳小説(『渾沌未分』)、安部公房のボクシング小説(『時の崖』)、新田次郎の山岳小説(『槍ヶ岳開山』他)……等々、本連載で紹介した作品のほかにも、日本文学には数多くの見事な「スポーツ小説」が存在する。

 

 が、昨今はスポーツがテーマとなると何故かフィクションよりもノン・フィクションが注目されるようになった。

 

 市川崑は半世紀前に映画『東京オリンピック』を撮るにあたって谷川俊太郎らとシナリオを作り、その冒頭で、こんなことを書いた。

「人々は『事実は小説より奇なり』(註)という言葉を全く無邪気に受け入れ、信じ、ほんとうでないと、或いはほんとうらしくないと鼻もひっかけない精神状態である。/ほんとうにほんとうでないと面白くないという精神状態は、本当は異常なのだ。精神が衰弱している状態だ。/現在の我々に欠けているものはつくりものを尊ぶ気風である。我々一人々々の心の奥にデンとあぐらをかいている『尊いのはほんもので、つくったものはまやかしだ』という信仰をこっぱみじんに砕かなければならない。/なぜなら、オリンピックは、人類の持っているゆめのあらわれなのだから」

 

 そして市川崑監督の創った映画『東京オリンピック』は日本人のすべてが観たと言われるほどの大ヒットをしたのだが、同時に「記録映画か、芸術映画か」という大論争を引き起こした。

 

 しかし、このシナリオがもっと世間に知られていたなら、名作スポーツ映画に対する「記録か芸術か」などという愚かな論争も起こらなかっただろう。

 この市川らの警句は今も生きている。

 

(註:シナリオ文中にある「事実は小説より奇なり」という言葉は、1956年4月から1967年3月まで、NHKで放送された大人気テレビ番組で、毎週火曜日午後7時半になると司会者の高橋圭三が現れ、「事実は小説より奇なりと申しまして、世の中には不思議なことが沢山……」と挨拶し、当時の人々は、この言葉を無批判的に受け入れていた。)

 

(玉木正之)

PHOTO by Wikimedia Commons