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スポーツ教養講座/スポーツと文学(3)肉体は思想を宿す~20世紀に覆された「精神優位」の思想

 身体よりも霊魂の存在を尊ぶキリスト教や、「我思う、故に我あり」(デカルト)「人間は考える葦(あし)」(パスカル)といった17世紀フランス哲学者たちの思想を経て、西洋近代の心身二元論と精神至上主義は確立された。

 

 そこへ19世紀末になってドイツの哲学者ニーチェが現れ、「肉体は一つの大きな理性である」と宣言。身体が単なる情動的存在でなく、精神的思考に直結する存在だと主張した。

 

 20世紀ポストモダン(近代後)の思想家メルロ・ポンティは、「私とは私の身体のことである」と、デカルトやパスカルの思想を覆(くつがえ)し、ダンサーで振付師のベジャールも、次の言葉を残した。「肉体! それは二十世紀の最も重要な発見! 二十世紀は肉体を自ら示すことを決意した世紀である」(『ベジャール自伝―他者の人生のなかでの一瞬』)

 

 このような身体観が今日のスポーツの隆盛を支え、文学では強い肉体を通して強い精神を描くハードボイルド小説に現れた。

 

 ヘミングウェイの名作『老人と海』は、一人の老漁師がカリブ海で小船に乗り、カジキマグロと格闘する様を描く。綱の先の餌に食らいついた巨大なカジキは、大暴れして老人を引倒し、老人は目の下を切り、血を流す。背中に回した綱は血が滲むまで筋肉に食い込み、両手は痺れる。しかし老人は負けない。

 

「ヤツがどんなに立派で素晴らしくても殺す。人間がどんなことをやれるかを、やつにわからせるんだ」

 

 老人は相棒の少年の不在を何度も嘆きながらも、メジャーリーグの名選手の活躍を思い出して心を奮い立たせ、身体の疲れと痛みに耐え、カジキを銛で刺し、船に結(ゆわ)い付け、二昼夜も続いた死闘に勝つ。しかし鮫の群れに襲われ、再び闘うものの、せっかくの獲物を頭と骨を残して、すべて食われてしまう。

 

 疲れ切って帰港した老人は呟く。「負けてしまえば気楽なもの。こんなに気楽だとは思わなかった。さて何に負けたのか?」そして老人は、ライオン(強さの象徴?)の夢を見る。

 

 スポーツを「身体を用いた挑戦」と捉えるなら、この小説はスポーツの栄光と挫折のすべてを見事に描き尽くした作品と言える。

 

 かつては東洋でも、釈迦や孔子が肉体よりも精神の優位を説いた。が、三島由紀夫は小説『鏡子の家』でボディビルに挑む青年に「詩人の頭と闘牛士の肉体をもちたい」と語らせた。三島自身の願望であるこの言葉は、精神(詩人)と同時に肉体(闘牛士)も、一つの思想(美意識)を主張している。

 

 村上龍は『コインロッカー・ベイビーズ』で棒高跳び選手、『走れ!タカハシ』で野球選手、『テニスボーイの憂鬱』でテニスを趣味にするバブル成金など、小説に多くのスポーツ選手を登場させ、現代人の姿を描いた。

 

 そして『ニューヨーク・シティ・マラソン』では、男娼の殺人事件が起こるような街に暮らす若い売春婦に、フルマラソンを走らせた。マラソンで自分に勝ったら2千ドルやる、と客に言われ、娼婦はロスへの移住を夢見て練習に励み、レースに挑戦する。最初は否定的だった友人の娼婦や同棲相手の男娼も、声援を送る。結果、夢は叶わなかったが、汚れた町に、スポーツの清々しさが漂う。これは老人の逞しい肉体や闘牛士の美しい肉体以上に美しい現代の物語と言えよう。

 

 村上龍はテニス愛好家。そして、現代の作家として人気の高い村上春樹も、自らフル・マラソンを走る。そして、そんな健康的な生活では小説が書けなくならないか? と問われるという。

 

 が、村上春樹は、小説を書くのは不健康な作業と認めたうえで、そのような危険な毒素に対抗できる「自前の免疫システムを作り上げなくてはならない」と書く(『走ることについて語るときに僕の語ること』)。

 

 ソクラテスの次の言葉が思い出される。「我々の魂に属するものも肉体に属するものも、素早く動くもののほうが遅鈍で物静かなものより美しく見える。従って思慮の徳とは物静かさではなく、思慮ある生活が物静かでもないはずである」

 

 現代作家はスポーツとともに、思索の方法も古典ギリシャに還ったようだ。

 

(玉木正之)

※写真はイメージです。