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スポーツ教養講座/スポーツと文学(1) 古典に描かれた競技は個人種目中心!?

 この原稿は、日本経済新聞夕刊に10月2日~30日まで毎週木曜5回にわたって連載した『スポーツと文学』の第1回です。小生のHPでも公開しましたが、さたに少々手を加え、本欄でも「スポーツ教養講座」として、順次新たに発表することにしました。

 

 スポーツの奥深さに接していただくため、以前本欄に発表した『スポーツと美術』とともに、お楽しみください。

 

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 欧米から我が国へ「スポーツ」が伝播(でんぱ)したのは文明開化の明治十年前後だった。が、それ以前の日本にも「身体文化」は存在した。

 

『日本書紀』の垂仁(すいにん)記には、当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の格闘が記され、それは相撲や柔道の原型とされている。

 

 皇極(こうぎょく)記には、中大兄皇子と中臣鎌子が「打毱(ちょうきゅう)」に興じながら蘇我入鹿を討つべく(いわゆる大化の改新の計画を)密談する描写がある。打毬は、後の蹴鞠(けまり)とは別の球戯。「今日のポロまたはホッケー風の競技」(小学館版『日本書紀』註釈)とされ、高松塚古墳の壁画に描かれた男女の持つ細長い棒も打毬(ホッケー)のスティックと考えられる。

 

 日本の「国」の歴史を漢・隋・唐や聖徳太子から書き起こし、平氏滅亡までを描いた橋本治の大河小説『双調平家物語』には、この打毬の様子が想像力豊かに描かれている。

 

 本家の『平家物語』では、南都の僧が打毬から発展した「毬打(ぎっちょう)の玉を平相国(へいしょうごく)の頭と名づけて「打て」「踏め」などと弄び、それに激怒した清盛が東大寺焼き討ちを命じたという記述がある。

 

 この毬打というチームプレー的な競技に対して、平安貴族の間で流行したのが個人プレー中心の蹴鞠だった。その情景は、『源氏物語』若菜の条にも、生き生きと描かれている。

 

 澁澤龍彦『唐草物語』のなかの一編『空飛ぶ大納言』には「ひとたび蹴りはじめると、妖魔にでも取り憑かれたかのごとく病みつきになって」しまう蹴鞠の魔力が、御堂関白道長から数えて五代目の後裔・大納言成通(なりみち)卿の妙技を通して描かれている。

 

 大きな食卓の上に沓(くつ)をはいたままのぼり、足をあげて何度も鞠を蹴っても、沓にあたる鞠の音だけが聞えて、食卓にぶつかる沓の音は少しも聞こえなかった。並んで座らせた侍の肩の上を順々に、沓をはいて鞠を蹴りながら渡り、法師のところは肩ではなく頭を踏んで通ったが、法師は「頭に笠をかぶった時と、まあ似たような感じ」だったと答えたという。

 

 そんな蹴鞠の名人が、一千日間、一日も欠かさず鞠を蹴ってやろうと願を立て、満願となった日に、夢のなかで三人の童子と出逢う。彼らは鞠の精で、「飛翔願望」のシンボルである鞠とともに空を飛びたいと切望する成通に、実際に軽々と空を飛んでいた子供の頃の姿を見せる……。

 

 この幻想譚は、現代日本のサッカー事情につながる。世界の一流国に伍する闘いをなかなかできない日本サッカーだが、フリースタイル・フットボール(一人で行うリフティング競技)では、成通卿の末裔とも言うべき日本の若者が、見事に世界一となった(2012年)。

 

 明治初期、陸上、水泳、テニス、野球、サッカー、ラグビー、ゴルフ……等々、あらゆるスポーツが伝来したなかで、瞬く間に抜群の人気を得たのは野球だった(その様子は正岡子規が多くの歌に詠み、夏目漱石が『吾輩は猫である』のなかで、やや否定的に活写している)。

 

 種子島に鉄砲が伝来して以来、わずか半世紀後に戦国時代(市民戦争)を終えた日本では、「ヤアヤア我こそは……」と名乗りをあげて闘うイメージがいつまでも強く残り、投打の対決という個人プレー中心の野球が最も理解しやすかったのだろう。

 

 Jリーグ発足以来サッカー人気が急上昇したとはいえ、チームプレーの毬打が消え、個人プレーの蹴鞠を伝統文化として残した日本人は、今も個人プレーに魅力を感じ、力を発揮するのかもしれない。

 

(玉木正之)

写真:DAILY NOBORDER編集部