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佐野稔のフィギュアスケート4回転トーク 2014~15ヴァージョン③驚きの連続だったNHK杯 GPファイナルは横一線の争いに

●練習不足の影響は否めなかった羽生の滑り

 今回のNHK杯のシングルは、驚かされっ放しの3日間でした。中国杯での衝突アクシデントから3週間。その動向に注目が集まった羽生結弦でしたが、やはり練習不足の感は否めませんでした。本人も大会前の会見で「体力は落ちている」ことを認めていましたが、ショート・プログラム(SP)後半での連続3回転ジャンプのミスは、疲労の困憊が原因だったと思います。フリー前半の3度のジャンプはすべて、あまりにも力が入り過ぎていたように映りました。

 

 自身の出場をめぐる周囲の喧騒に集中を削がれ、平常心ではいられなかったのか。その表情や立ち振る舞いなどから、羽生がこの大会に相当な気合で臨んでいることは、ヒシヒシと伝わってきました。が、いくら世界の頂点に立つ男といえども、気持ちだけではどうにもならないことがある――。それくらい世界トップレベルの争いというのは、過酷で厳しいものなのだと、あらためて思い知らされました。

 

 万全な体調でなくても勝負できるだけの手応えを、約1週間の氷上練習で掴んでいたのかもしれません。ですが、それ以上に「眼の前の勝負から逃げ出すこと」「自分との戦いに敗れること」のほうが、本人にとっては苦しくて許せないことだったのではないでしょうか。また自分が中国杯でフリーのリンクに立ったことが、世界中を巻き込んださまざまな論議を招き、ときにコーチであるブライアン・オーサーを非難の矢面に立たせることになった。その心苦しさから、自分が信頼するブライアンの、あのときの判断は間違っていなかったのだと証明したい。そんなモチベーションもあったでしょう。精密検査の結果、幸い脳には異常がなかった。であれば、どんな痛みがあろうとも、身体が動く限り、彼には‘欠場’の選択肢はなかったのかもしれません。

 

●それでも手にした、グランプリ(GP)ファイナルの出場権

 フリー後半のトリプル・アクセルが、シングル・アクセルになった瞬間、私は正直、羽生のGPファイナル出場に‘赤信号’が灯ったと思いました。ファイナル進出の条件だった3位以内に、自力では入れなくなったことを意味していたからです。ところが、SP2位だったジェレミー・アボット(アメリカ)がミスを連発して沈んだことで、ギリギリでGPファイナルに進むことができた。これも驚きでした。一度掴んだ幸運の切れ端は、握りしめて絶対に放さない。それもまた、世界のトップに立つ選手に必要な資質です。それを生まれ持っているのが、羽生結弦なのです。終わってみれば、ケガを押して中国杯のフリーに出場したことを、正解にしてしまったわけです。

 

 ただ、今シーズンの羽生の演技や発言を見聞きしていると、「五輪金メダリスト」「世界チャンピオン」にふさわしい選手であろう、理想のスケーターになろうとするあまり、それが脅迫観念になって、必要以上に自分で自分を縛りつけている気がしてなりません。たしかに彼は世界の頂点に立ちました。けど、今年の12月7日でようやく20歳になる若者なのです。王者の義務などに拘るより、まだまだ挑戦者でいい。昨シーズンだってスタートは、絶対王者パトリック・チャン(カナダ)に立ち向かう挑戦者だったはずです。羽生陣営の目標は、2018年平昌(ピョンチャン)五輪での金メダルです。過去オリンピックの男子シングルで、2大会続けて金メダルを獲得した選手はいません。ですから、世界初の五輪連覇という新たな目標に挑戦するチャレンジャー。そんな風に捉えて、自分のことをもっと自由に解き放ってやって欲しいのです。

 

 NHK杯ではSP、フリーのいずれも、直前の6分間練習では、ひじょうに良い状態のジャンプを跳んでいました。技術面での感覚はすでに戻っているようです。今から12月11日に開幕するGPファイナルまでの2週間は、中国杯からNHK杯までの3週間とは比較にならないくらい、濃い中身の練習ができるはずです。そのことがスタミナの回復と、自信の裏付けにつながります。何より、いまの羽生は悔しさで満ち満ちています。GPファイナルでは、あの‘凄い’羽生結弦が見られるのではないか。ついそんな期待をしたくなります。

●日本男子にニュー・ヒーロー誕生

 もちろん今大会最大の驚きは、村上大介の初優勝です。失礼ながら、完全にノーマーク。まったく予想していませんでした。たしかにSPでは素晴らしい演技をしましたが、2分50秒でジャンプも3度で済むSPは、案外勢いで乗り切れるものなのです。ところが、4分30秒のフリーになると、そうはいきません。実際これまでの村上は、フリーで失速することがよくありました。本当の実力がないと、SPとフリーで揃えて高得点を出すことはできないのです。今大会の村上はSP、フリーいずれも自己最高得点を叩き出し、見事その難題を乗り越えました。恐れ入りました。またひとり、日本の男子フィギュア界の、看板を張れる選手が誕生しました。

 

 幼少期を過ごしたアメリカから移り、日本での競技生活を選んだ当時の村上は、ジャンプの降り方が、とても不安定な選手でした。一定のキャリアの持ち主ですが、一昨年のNHK杯で右肩を脱臼して以来、低迷が続いていました。ところが、今大会の村上は完璧な4回転サルコゥを、自在に操ってみせました。そんな真似ができるのは、世界でもごく一握りの選手だけです。そこが彼の最大のストロングポイントです(じつは村上はトゥ・ループが苦手だから、サルコゥをやっているとの噂もあるのですが・笑)。今大会の内容でしたら、仮にGPファイナルに出場していたとしても、互角に渡り合えたでしょう。ただでさえ層の厚さを誇る日本男子ですが、これでますます競争は激しく、全体のレベルはさらに高まっていきそうです。

 

●無良を襲った最終滑走者の魔物

 スケートカナダでの優勝に続き、このNHK杯でもSPでは自己最高得点をマークと、無良崇人の演技にはすっかり落ち着きが出てきました。昨シーズンまでは安定感のなさが課題にあげられていた選手だけに、大きな成長と言えます。ただ、今大会ではSP1位で迎えるフリーの難しさに、ハマり込んでしまった印象です。スケートカナダではSP2位からの逆転優勝で、無良が最終グループの最終滑走者としてフリーのリンクに上がるのは、今回が初めてでした。

 

 場内の雰囲気。「6.0」採点時代から続く、不思議と厳しいジャッジの視線。優勝するには何点必要だとか、何点以下だとメダル圏外といった数字が、嫌でもハッキリ分かってしまう…。じつは最終グループの最終滑走者には、経験したものでしか分からない独特の重圧があるのです。GPシリーズにおいてフリーの滑走順を、抽選ではなくSPでの得点順に決めているのは、そうした重圧がもたらす波乱の面白さによって、観る人の興味を惹きつけようとしている側面があります。そういった‘最終滑走者の魔物’に襲われた無良は、村上とセルゲイ・ボロノフ(ロシア)に逆転を許す結果になりました。とはいえ、GPファイナルの出場権は確保したのです。今回の苦い経験を、この先の財産にして欲しいと思います。

 

●いまの日本女子は、かつての日本男子!?

 世界の頂点を日本人同士で争う男子に対して、女子のほうは残念ながら日本人選手のいないGPファイナルになってしまいました。じつに14シーズンぶりのことだそうです。以前にも話しましたが、村上佳菜子にしても、宮原知子にしても、本当によく頑張っています。ただ、今シーズンの村上を見ていると、高校も大学も、スケートのコーチも、浅田真央と同じ。直系の後輩だからなのか、日本の女子フィギュアをまるで自分がひとりで背負っていかなくてはいけないかのような責任感に苦しんでいる。宮原についてはスケートカナダとNHK杯、今シーズンのGPシリーズで表彰台に2度立ちましたし、今回の加藤利緒菜もシニアGPデビュー戦で5位に食い込んだのですから、本来なら大健闘です。ですが、GPファイナルの出場権を得た女子6選手のうち、じつに4選手がロシア勢、残る2枠がアメリカ勢。このふたつ大国の狭間に、日本の女子は埋もれてしまったかのようです。

 

 鈴木明子、安藤美姫が引退、浅田真央が休養と、女子はちょうど世代交代の端境期を迎えています。もちろん、こうした時期はないに越したことはありませんが、今から7~8年くらい前、トリノ五輪あたりの頃を思い出してください。荒川静香、村主章枝、中野友加里、安藤、浅田…、錚々たるメンバーが顔を揃え、日本のフィギュアと言えば女子のこと。男子など‘オマケ’扱いでした。あのとき誰が、現在の男子フィギュアの隆盛を想像できたでしょうか。いまの女子にも同じことが当てはまります。11月のロシア杯で本郷理華が、ロシア勢のGPシリーズ連続優勝に待ったをかけたように、その萌芽はすでにあります。彼女の優勝はGPシリーズには出ていない、ほかのシニア、あるいはジュニアの選手たちに、ものすごい刺激になっているはずです。とりわけ10代の女子アスリートにとって、4年の月日はひじょうに長い。平昌五輪までに日本女子が、ロシアの黄金世代に取って替わっても、不思議ではありません。

●男女とも横一線、大混戦のGPファイナル

 NHK杯の結果、今シーズンのGPファイナルに出場する男女12選手が決まり、男子は羽生、無良、町田樹と、6人中3人が日本人選手となりました。一昨年の高橋大輔、去年の羽生に続く、GPファイナル日本勢3年連続優勝、あるいは、日本選手3人で表彰台独占…といった快挙を、ぜひ実現してもらいたいのですが、実力的には6選手横一線ではないでしょうか。

 

 今年のフィギュアシーズンが開幕する前、私は羽生とハビエル・フェルナンデス(スペイン)、この同門のライバルが鎬を削り合うなか、それに続く3番手に誰が名乗りをあげるのか。そういった展開のシーズンになるのではないかと予想していました。ところが、羽生の負傷により、様相が変わってきました。また、今シーズンはマキシム・コフトゥン(ロシア)の調子が、このすごく良い。欧州王者に輝きながら、代表枠の都合でソチ五輪に出られなかった屈辱を、うまく発奮材料にしたようです。GPシリーズ2大会にダブル優勝してファイナル進出を決めたのは、男子ではコフトゥンひとりだけですから。一層混戦の度合いが深まっています。

 

 そのなかで、あえて本命と言われれば、やはり羽生の名前をあげます。これは予想ではなく願望。中国杯、NHK杯での彼の姿を見ていたら、やはり「なんとか報われて欲しい」と思いますから。先ほど男子フィギュアには五輪で2連覇した選手はいないと言いましたが、じつは五輪で金メダルを獲得した、次のシーズンのGPファイナルで優勝した選手も、まだいないのです。多くの金メダリストが欠場や休養を選び、無理はしないですからね。ぜひ羽生には、五輪で優勝した直後のシーズンでGPファイナルを制する、世界で初めてのスケーターを目指してもらいたい。NHK杯では回避した演技後半の4回転ジャンプを、どこに構成していくのか。勝負を分ける重要なポイントになるはずです。

 

 男子同様、女子のほうも実力伯仲。ロシア対アメリカの対抗戦のような構図になりましたが、誰が勝ってもおかしくありません。そのなかで私が注目しているのは、エリザベータ・トゥクタミシェワ(ロシア)です。彼女は14歳のとき、シニアデビューとなった2011年のスケートカナダでいきなり優勝。鮮烈な輝きを放つ新星でした。ところが、その後体重の増加に苦しみ、ソチ五輪では代表漏れ。巷では「もう終わった」とまで言われていた選手です。それが、今シーズン彼女は‘完全復活’してみせた。いったい何があったのか。

 

 いまロシア女子を教えているコーチのほとんどが、若手の指導者たちなのですが、唯一トゥクタミシェワを指導しているアレクセイ・ミーシンコーチだけが今年で73歳。高齢のおじいちゃん先生なのです。私の師である都築章一郎先生と親交がある関係で、私も以前からよく知る人物なのですが、一度どん底まで落ちた選手を見捨てることなく、こうして再び表舞台に立つ日が来るまで粘り強く、よくぞ待ち続けることができたものだと、深い感銘を受けるのです。「これぞ指導者の鑑」と言いたくなります。トゥクタミシェワ復活の裏側で、いったいミーシン先生がどんなアプローチをしてきたのか。ものすごく興味が湧きます。

 

 今回のGPファイナルに出場する選手は、10代後半から20代前半までの比較的近い年代の選手が集まりました。この12選手のなかで、次の五輪までの4年間フィギュア界をリードしていくのは、はたして誰なのか。最初に飛び出すのは誰なのか。そんな見どころの大会となるでしょう。

 

(佐野稔)

PHOTO by David W. Carmichael [CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons