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佐野稔のフィギュアスケート4回転トーク 2014~15ヴァージョン①羽生結弦に何が起きたのか ~グランプリシリーズ前半戦

●不運が重なり、避けられなかったアクシデント

 羽生結弦と閻涵(エン・カン)の衝突は、観客席の最上段に近いテレビ中継の放送席にいた私のところにまで、その激しさが伝わってくるくらい。明らかに“ケガをする”ぶつかり方をしていました。ずいぶんと長くフィギュアスケートに関わってきましたが、あれほどの大激突を目の当たりにしたのは初めてです。

 

 フィギュア大会の「6分間練習」については、誰がリンクのどこを滑らなくちゃいけないとか、ほかの選手と接近したときは左右のどちらに避けなければいけないといった、明確な規定や暗黙の了解はありません。選手同士が互いの気配を感じながら、注意を払ってやるしかないのが実情です。

 

 今回、羽生と閻涵はリンクの同じ対角線上にいて、なおかつ二人とも後ろ向きに滑っていた。当然滑り始める段階で、自分の進行方向には誰もいないことを確認していたはずです。が、ちょうどそれぞれの死角に入ってしまい、互いの存在に気づくことができなかった。衝突の直前、前方へ振り向いたときには、もう手遅れでした。しかも、羽生も閻涵も4回転ジャンプを得意にしています。4回転ジャンプの成功には、かなりのスピードの助走が必要です。その両選手がジャンプへのアプローチのさなか、トップスピードに近い状態で正面衝突してしまった…。こうした不幸な偶然がいくつも重なり、大きなアクシデントになってしまいました。

 

●50年前と変わらない「6分間練習」

 あれほどの甚大なアクシデントは、おそらく何万分の一の確率でしか起こり得ないでしょう。とはいえ、私自身衝突こそありませんが、その寸前でなんとか避けてヒヤリとした経験は、数えきれないほどありました。長さ60m×幅30mのリンクで6人の選手が、本番直前の「6分間練習」を行う形態は、50年前から変わっていないのです。

 

 いまや4回転ジャンプが当たり前になり、私の現役当時と較べて、選手のスピードは格段に上がっています。筋力や体格といった身体能力も高くなりました。その分、我々の時代には寸前で回避して“ニアミス”で済んでいたものが、避け切れずに“ニアミス”では済まなくなってきた。アクシデントにつながるリスクが高まってきているのではないでしょうか。今回のような事故が二度と起こらないよう、何らかの対策が必要な時期なのかもしれません

 

 これはひとつの私見ですが、今シーズンからのルール改正で、選手が名前をコールされてからスタート位置につくまでの時間が、1分から30秒へと短縮されました(各グループの第一滑走者は、これまでと同じ1分間のまま)。たとえば、グランプリ(GP)シリーズのように全12選手が出場する大会なら、30秒×10人分、つまり5分間、進行に余裕ができたわけです。ならば、その余裕のできた時間を直前練習に充てて、現行では前後半6人ずつ2グループで行っている「6分間練習」を、4人組3グループにして3回に分けて行ってみるのはどうでしょう。

 

 競技レベルが向上するなか、本番直前に選手が確認したいことも多く、練習時間は減らしたくない。でも、この方法でしたら、6分間を維持しつつ、去年までのルールより余計に掛かる時間は1分30秒で済みます。同じリンクの上で同時に滑走する選手が6人から4人になれば、事故の起こる可能性を小さくできるように思うのですが…。

 

●危険な氷上、今回のアクシデントを教訓に

 また、今回氷の上に倒れ込んだ羽生のところへ救護スタッフが駆け寄るまで、ずいぶんと時間が掛かった印象を受けました。私も放送席で「何をゆっくりしてるんだ。早く来いよ!」と憤っていたのですが、のちに映像を見返すと、衝突の直後は、羽生と閻涵以外の4選手がまだリンク内に残っていたのです。スケート靴も履いていない救護スタッフが下手に出て来ると、残っていた選手と接触してしまい、いわば二次災害が生じる可能性がありました。そのため、しばらくは様子を見ているほかなかったようなのです。今後は接触事故が起きたときには(たとえば警告音を鳴らすなどして)、ほかの選手に周知、すみやかに退場させて、救急スタッフが負傷した選手のもとへいち早く駆けつけることのできるような体制づくりも考えたいところです。

 

 競技当事者の判断ではなく、ドクターの診断に委ねて、強制的にでも演技を棄権させるべきではないか。そうした意見もあります。私たちはフィギュアの競技に関する知識や経験はあっても、医学の専門家ではありません。天然芝の上ではなく、コンクリートのように硬い氷の上で行われるスポーツだからこそ、どのように選手の安全を守っていくのか。外部の意見にも耳を傾け、フィギュア界全体で考えなくてはいけない大きな課題です。

●何があそこまで羽生を駆り立てたのか

 その是非とは別に、羽生は再びリンクに立つことを選びました。鬼気迫る表情で転倒をくり返しながら、演技後半にはトリプル・アクセルからの3連続ジャンプを決めてみせた。その瞬間、私は思わず言葉を失ってしまいました。あれほどまで羽生を駆り立てた理由は、いったい何だったのでしょうか。

 

 今回会場となった上海オリエンタルスポーツセンターの客席で目についたのが、中国語で羽生宛てのメッセージが書かれた、数多くの横断幕やバナーです。もちろん日本から観戦に来ていたファンもたくさんいたのですが、国籍とは関係なく羽生のことを応援する人がこんなにも増えていたのかと、正直驚かされました。もはや「日本の羽生」ではなく「世界の羽生」であることを、あらためて実感しました。その契機がソチ五輪だったことは、言うまでもありません。

 

「金メダリストに恥じないスケーターでありたい」

 口癖のように羽生は話しています。彼にとって今シーズン初の公式戦。世界中のファンが注目するなか、あのまま終わるわけにはいかなかった。ましてや前日のショート・プログラム(SP)ではミスを連発していました。羽生と私は、同じ仙台の都築章一郎先生に師事した兄弟弟子のような間柄なのですが、それもあってか、じつはSPを終えた羽生が「明日は絶対にやりますから」と、わざわざ私のところまで話しに来てくれていたのです。翌日のフリーに向けての相当な決意がうかがえました。

 

 羽生結弦は金メダリストになるべくしてなった。そのバックボーンに「東日本大震災」があります。羽生本人も折にふれて話していますが、彼は大震災の影響で練習拠点を失い、フィギュアスケートを奪われかけています。はたして自分はフィギュアを続けてよいのか。そんな葛藤のなかから、ようやく見出したフィギュアをする意味、「もう絶対にフィギュアを失いたくない」といったフィギュアに対する飢餓感が、スケーター・羽生結弦の根幹の部分を形づくっている。私はそんな気がしてならないのです。そうしたフィギュアへの強い想い、金メダリストとしての責任感、そこにアスリートとしての意地や本能とがあいまって、フリーの舞台へ羽生を向かわせた。そう言えるのではないでしょうか。

 

●見据えているのは、2018年平昌五輪

 結果的に中国杯では全貌を観ることはできませんでしたが、4回転ジャンプを演技後半に持っていったSPと、4回転ジャンプを3度組み込んだフリー。その構成からうかがえる羽生陣営の狙いは、間違いなく次の2018年平昌(ピョンチャン)オリンピックでの金メダルです。昨シーズンは失敗の目立った4回転サルコゥも(着氷後に転倒はしたものの)しっかり回り切っていましたし、公式練習ではフリー後半の4回転トゥループからのコンビネーションジャンプを成功させている姿がありました。

 

 精密検査の結果、全治2~3週間の負傷とあって、11月28日に始まるNHK杯の出場は微妙になりました。羽生本人はその先にある12月のGPファイナル(バルセロナ)への出場に強いこだわりがあるようですが、今シーズンは4年後の金メダルに向けた第一歩です。起きてしまったアクシデントを悔いて感情的になるあまり、早計な判断を下すのは危険です。これまでも眼の前の目標をひとつひとつクリアしてきた羽生のことですから、2018年から逆算して、いまクリアすべき最優先事項は何なのか。きっと的確な結論が出せるはずです。心身のコンディションが充分回復したときに、また「世界の羽生」の演技を、思う存分見せつけて欲しいと思います。

 

(佐野稔)

PHOTO by David W. Carmichael [CC-BY-SA-1.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/1.0)], via Wikimedia Commons