REMEMBERING HIDEKI IRABU FINAL-PART Ⅲ(伊良部秀輝の最期の記憶・パート3)
(※この記事は10月2日掲載『REMEMBERING HIDEKI IRABU FINAL-PART Ⅲ (Robert Whiting)』を翻訳したものです。)
伊良部という苗字は母親に由来する。彼女の苗字であり、ヒデキの継父とは事実婚の関係だった。ヒデキは彼の実の父がアメリカのどこかで生きていることに気づいてはいたが、伊良部という苗字を名乗る継父の一郎を、本当の父とみなしていた。一郎はヒデキを実の子として育て、伊良部の野球への思いを応援し、身体と利き腕の強化のための厳しいエクササイズの日課を設けた。例えば、棒に結んだゴムチューブを引っ張りながら投球動作を繰り返すことで、腕と背筋を鍛える練習などが含まれていた。
学生時代、ヒデキは毎日5時半に起き、一日も欠かさずエクササイズとランニングを行った。継父がニューヨーク・タイムズの記者に語っている。「私は、たくさんの厳しいトレーニングを繰り返せる彼の能力に驚きました。ヒデキは、普通の子どもなら放棄してしまうようなことも粘り強く頑張り続けることができました。私は、彼が非凡な選手に成長するかもしれないと思いました。」
ヒデキは代理人のダン野村と同じように「ハーフ」として成長した。そして、「あいのこ」「混血」といった無礼な言葉を投げかける者に対しては、誰にでも「バカヤロウ」といった乱暴な言葉を返したり、時にはケンカになることもあった。
だが、ヒデキは、「異質」なことで仲間はずれにされること以上に悩んだのは、貧しい環境で育ち、食べるものが十分にないことだったという。そして、野球の有名校にスカウトされてよかったことのひとつはチームの寮に住み、一日に3回食堂で満腹になるまで食べられることだったと言う。
もう一つ良かったのは、退役軍人でアラスカに住む、実の父に会えたことだった。祖父が自分と同じ誕生日で、彼もまたプロの野球選手だったと知ることは、野球で夢を実現するのが運命だという感覚をヒデキに与えた。しかし、通訳者がいないと同じDNAをもつ人と会話すらできないことはもどかしく、イライラさせられ、強いて言えば、結果的に二人の関係は実を結ばなかった。
メジャー引退後、ヒデキは日本に戻り、阪神タイガースでプレイし、少し活躍した。2003年には13勝し、タイガースのリーグ優勝にも貢献した。次の年はあまり活躍できず、引退して妻と二人の娘を連れて南カリフォルニアに転居した。トーランスに住む日系アメリカ人のビジネスマンに助けられ、レストランチェーンを運営し、ほどほどの成功を収めた。
友人のひとりは、「ヒデキの周りには大勢の人がいたが、すべての人が、ヒデキのためになったわけではなかった。でも、ビジネスパートナーはヒデキに親身だったし、ヒデキもお金に関してはかなり締まり屋だった。引退した選手の多くが巻き込まれる金銭トラブルも、伊良部にはなかった」という。
ヒデキは、そのうちビジネスに飽きてきた。そして、アクション俳優としてハリウッド映画に進出することを口にするようになった。が、結局、それは実現しなかった。
2009年、ヒデキは独立リーグのゴールデン・ベースボール・リーグで球界復帰に挑んだ。そしてロングビーチ・アラマダと契約し、5勝3敗、自責点3.58 点をマークした。その年の8月には、日本に新設された独立リーグのチームのひとつ、高知ファイティング・ドッグスに入るよう引き合わされもした。が、故障のため出場までは至らなかった。
その後、彼は少年野球のコーチになった。だが、知人によれば、若者がきつい練習に懸命に取り組んでいる姿を見ることに、彼は悩んでいたという。「そんな練習は無駄だから意味がない。俺のように生まれつき才能があるか、そうでないかであって、練習量がいくら多くても、得られるものは何もないんだ」と、ヒデキは話していたという。
トラブルは続いた。ヒデキは酒が好きだった。友人たちを誘ってナイトクラブに繰り出し、大勢のホステスに囲まれて夜を過ごした。彼はロサンゼルスと東京、大阪を行き来したが、ホノルルも含めた各地に飲み友だちがいた。街にいるときはいつでも、夜の酒や女性、カラオケなどの予定を入れるのに都合の合う友人を探して電話をかけていた。だが、それをやりすぎる傾向があった。2009年、大阪のパブで事件が起きた。報道によれば、ビールを20杯飲み、しだいに彼は手に負えなくなり、店の経営者がクレジットカードでの支払いを断ったとき、「俺が誰か知っているのか? 世界的に有名な伊良部だ。こんな店くらい簡単に買収できるんだぞ」と脅し、やってきた警官に脅迫の疑いで逮捕された。
彼の人生最後の年、報道によれば、彼はうつ病を患っていたという。孤独になることに文句を言い、以前より友達も少なくなっていた。ある知人に、「朝起きたとき、どうしていいか途方にくれる」と話したこともあるという。日刊スポーツによれば、阪神タイガースの元監督の星野仙一氏に、早朝ロサンゼルスから電話をかけ、いきなり泣き出したこともあったという。「日本に復帰したい」と星野に話し、コーチの口を探すのに力になってくれるよう頼んだ。しかし、仕事はすぐには見つからなかった。
2011年、日本の雑誌の取材を受け、「日本に戻りたい。英語は話せないし、俺はよそ者なんだ」と話している。しかし、彼の妻はロサンゼルスに居続けたかった。二人の子どもを「国際派」に育てたかったからだ。ヒデキは家庭内で一人だけ、英語が話せなかった。
ヒデキと妻の京淑(きょんす)さんは1998年に結婚した。お見合い結婚のようなものだった。京淑さんは千葉ロッテマリーンズの本拠地である千葉の出身だった。彼女は日本のパスポートをもっていたが、北朝鮮の生まれだった。父親は地元の千葉銀行と強いコネクションをもつパチンコチェーンのオーナーで、実家は裕福だった。京淑さんが窓口係として働いていた銀行で、ロッテとも強いコネクションを持っていた。情報元によれば、ヒデキと京淑さんの結婚はロッテと千葉銀行のお膳立てによるものだったという。ヒデキがまだ、ロッテとサンディエゴとの争いの裁定を待っていた頃のことだ。
京淑さんは「真面目」で「良妻」と描写された。夫が玄米など適正な食事を食べているか常に気を遣っていた。しかし、子どもが生まれてからは、良い母親になることに夢中になった。ロサンゼルス在住の朝鮮人や朝鮮系日本人の団体との付き合いに時間を割くようになった。
伊良部家のある友人は話す。「京淑さんは本当に伊良部の世話をよくしました。彼女は伊良部がしたいようにさせました。もし、彼が友人と飲みに行きたければ、彼女は、ただ、『いいわ、何時に帰るの?』と尋ねるだけだったそうです。伊良部の引退後も、他の妻たちがしばしばするように、再就職についてあれこれ干渉して伊良部を悩ませることもなかったようです。彼女の実家はとても裕福だったので、伊良部の金は必要なかったし、着飾って他の妻たちを感心させようとすることもなかった。よほどの理由がなければ離婚することもなかったはずですが……」
2011年3月、ヒデキはロサンゼルスで飲酒運転の罪で逮捕され、カウンセリング受講の判決を受けた。報道によれば、京淑さんはヒデキの常軌を逸した行動にうんざりしていたし、飲酒を問題視していた。そして、2011年春、彼女は2人の子どもを連れて家を出たのだった。
ヒデキは酒を止め、生活を立て直すよう努めた。だが、ある隣人は、カリフォルニアのランチョ・パロス・ヴェルデにある家の周りを茫然として歩き回るヒデキの姿を見かけたと話している。また、ヒデキは中年の危機に陥っていると話す人たちもいたし、それ以上の問題を抱えていると話す人たちもいた。
ヒデキの日本人ジャーナリストとの最後のインタビューが7月中旬に行われ、数週間後、記事が日本で有名な雑誌である『週刊新潮』に掲載された。ヒデキは禁酒の結果、20㎏も痩せていた。が、記事の中で自分は病気だと語っていた。しかし、彼も雑誌の記者も、病気について詳しく調べてはいなかった。記事では離婚間近であり、ヒデキが一人ぼっちになることに不平をこぼしていると書かれていた。
ヒデキは複雑な男だった。一緒にいて楽しい男だったし、カラオケが好きだった。自分の短気さや、自分や他人の奇行について明るく笑い飛ばすような男だった。(ヒデキにとって、歯医者に行くことは本当に恐怖であり、治療には麻酔が必要だった)。彼はとても気前がよかった。長年の知人は、こう話す。「彼はスタッフや友人たちをよく夕食に誘い、楽しく過ごせるよう気遣った。『ちゃんと食べているか?』とよく尋ねたり、『これ、食べてみたら?』とすすめたりして、全員が満足するまで店にいた。それに対して、野茂英雄は友人と外食するとき、誰よりも早く食べ終わり、他の人が食べ終わろうとなかろうと、時間が来れば店をあとにした。そういう意味では、ヒデキは本当に、本当に優しい男だった」
ヒデキは背中と肩に竜の刺青を入れていて、その刺青が彼に力を与えてくれると信じていた。それは、彼自身が描いた絵で、「竜神さま」と呼び、崇めていた。家の中のあちこちにも陶器や大理石製の竜の像を置き、龍を崇めていた。もし、ヒデキの嫌う人物が災難に遭えば、ヒデキは、「竜神さまのおかげだ」と、友人に話した。
2011年7月27日の朝、ある知人がヒデキの家に立ち寄り、そこで、陰惨なシーンを発見してしまう。伊良部秀樹が、車庫にかけたロープで首を吊っていたのだ。死後3日経っていた。ひどい臭いだったと、その知人は話した。
代理人であり旧知の友人でもあるダン野村氏には、ヒデキが亡くなったことが信じられなかった。「伊良部とは1カ月ほど前にロサンゼルスで話して、伊良部が亡くなった週末に夕食の約束をしていたんだ。僕たちはそのとき、昔の懐かしく楽しい日々について、そして彼がいかに野球界を変えたかについて話し合った。僕には伊良部は陽気そうに見えたし、酒も止めて健康そうに見えた。率直にいって、僕には彼の自殺する理由が分からない。伊良部は、奥さんが復縁に合意してくれて、夏休みの終わりにもう一度、話をすることになっていると言っていた。伊良部は人生を楽しんでいるように見えたし、金銭トラブルもなかったし、快適な家も持っていた。それに、アメリカの永住権の再申請もしていた。僕は、彼をコーチとして独立リーグに紹介していたし、彼のために講演会の仕事もいくつか請けようとしていたところだった。伊良部が『人々は俺が話さなければならないことに興味をもつと思うか?』と聞くので、僕は『もちろんさ』と答えた。伊良部にはヤンキースでの経験や、ロッテとサンディエゴ・パドレスとの一件など、話すためのエピソードがいろいろあったし、彼も話したがっているように思えた。だから、あらゆることが僕を当惑させた。事故だったのではないか。彼は一人で酒を飲んでいて、それがきっかけで自分が何をしているかわからないまま、こんなことになったのだと僕は信じている。そうでなければ、僕にはまったく理解できないからだ。伊良部はとても緻密で、規律正しく、計画を立てて行動する男だった。もし、本当に自殺するつもりだったなら、彼は家を掃除し、遺書を残しているはずだ。しかし、彼は、そうしなかった……」
ヒデキの古い友人である、ジーン・アフターマンは別の見方をしていた。彼女はヤンキースタジアムの最上階にある自分のオフィスの電話を通してこう話した。「野球選手だったときが一番、ヒデキが楽に生きられたときだったでしょう。ピッチャーマウンドでは落ち着いていました。でも、野球以外のことは彼には辛いことばかりだった。ハーフだったこと、父親を知らずに育ったこと、日本プロ野球機構の独裁的な規約に翻弄されたこと、ロッテとサンディエゴ・パドレスの幹部たちと争ったこと、酒やたばこへの欲求と戦ったこと……などなど。野球がもうできなくなったことと、一人ぼっちになったことが重なり、伊良部はそれに耐えられなかったのかもしれないと私は思います。彼は闘志にあふれた人でしたが、それらと戦うことは彼の力を越えていたのでしょう」
伊良部秀樹は記憶されるに値する伝説を残した。ピーク時の彼は、歴史上のどんな投手にも劣ることはなかった。なかでも1998年の実績は誇るべきものだった。シーズンの途中まで彼は史上最高のチームのなかで最高のピッチャーだった。また、ニューヨークでは、彼は磁石を使った最初のメジャーリーガーになった。試合の前に彼は50個もの円型の磁石を背中や肩、おでこなどに張り付けた。その後、磁石の腕輪も身につけるようになったが、それは現在、メジャーリーガーたちの間でも流行するようになった。
そして、選手の権利について、彼がいろいろ努力したことこそ、さらに重要なことと言えるだろう。ロッテとパドレスとの交換トレードを拒否したことで、この先、どの選手も彼が経験したようなトレードに巻き込まれることはなくなった。そんなトラブルは、もう発生しない。「ヒデキは、自分のおかげで歴史が変わったという意見に支えられていた」とアフターマンは言う。
ダン野村は、「僕は伊良部の代理人だったことを誇りに思う。彼は亡くなったと言われても、僕には信じられない。人々が思っている以上に、伊良部は多くのことを成し遂げた。彼はメディアの餌食となり、本当に傷つけられた。僕は伊良部が貢献したことについて、多くの人々が感謝するようになってほしいと願っている。メディアは、伊良部を称賛する記事を書くべきだと思う。なぜなら、伊良部が野球選手だった頃、彼について書くことでメディアは多くの収益をあげたのだから。しかも、そのほとんどは伊良部を批判する記事だったのだから……。メディアはそのお礼に、彼の伝説に対して何らかの貢献をすべきだと思う。そして、ポスティング・システムは、伊良部に敬意を表して、イラブ・システムと改名すべきだと、僕は思う。」
(原文・ロバート・ホワイティング/訳・星野恭子)
PHOTO from YouTube (BAL@NYY: Yankees great O’Neill remembers Irabu)