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REMEMBERING HIDEKI IRABU FINAL-PART Ⅱ(伊良部秀輝の最期の記憶・パート2)

(※この記事は9月30日掲載『REMEMBERING HIDEKI IRABU FINAL-PART Ⅱ (Robert Whiting)』を翻訳したものです。)

 

 伊良部は王様のように歓迎されニューヨークに迎えられた。球団オーナーのジョージ・スタインブレナーのプライベート・ジェットでニューヨークにやってきて、ルディ・ジュリアーニ市長からニューヨークへの鍵を贈られた。1997年7月10日、ヤンキースタジアムでのアメリカ・デビュー戦は球団史上に残る印象深いゲームとなった。平日の夜にも関わらず、観客は5 万人を超え、その3分の1は日本人だった。日本では早朝のテレビ中継を3,000万人が視聴する中、伊良部はマウンドに立った。時速150キロ以上の速球と、約140キロで大きく落ちるフォークボールを織り交ぜ、伊良部は10-3でデトロイト・タイガースに勝利し、9つの三振を奪った。

 

 伊良部が7回2アウトを取ったところで交代したときには、耳をつんざくような大喝采を浴びた。歓声は大きく長く続き、カーテンコールに応えるため、伊良部はチームメイトによってフィールドに押し戻された。彼のキャリアの中でクライマックスのひとつだった。

 

 だが、その後はあまりよくない登板が続き、伊良部はしばらくマイナーに送られた。結局、そのシーズンを5勝4敗という残念な成績と7.09点というバツの悪い自責点で終えた。こうした状況は、次のシーズンでも繰り返された。伊良部はサイ・ヤングのようなスタートを切り、シーズン中盤まで8勝4敗で自責点2.47点という素晴らしい成績で、5月にはアメリカンリーグの月間最優秀投手にも選ばれた。シーズン前半の伊良部は、ワールドシリーズ出場確実と思われたヤンキースのなかで、まぎれもなく最高の投手だった。当時のヤンキースは、多くの人がMLB史上最高のチームと評価するほどのチームだった。しかし伊良部は、またもや不可解な破綻を見せ、最終的には13勝8敗、自責点4.06点でそのシーズンを終えている。

 

 次の年、伊良部は最初の4カ月で9勝3敗をマークし、7月には月間最優秀投手にも選ばれた。その間、素晴らしいパフォーマンスを見せた。例えば、デトロイト・タイガースを6-0で下したゲームでは完璧な完封試合を演じ、またヤンキースの最大のライバルであるボストン・レッドソックスに対して完投したゲームでは、12奪三振、13-3で勝利した。ヤンキースのキャッチャー、ホルヘ・ポサダは、「伊良部はおそらくリーグで最高のピッチャーだ」と話した。

 

 しかし、その後の試合では、伊良部はまたつぶれ、結局11勝7敗、自責点4.84点でシーズンを終えた。シーズン最悪のゲームはおそらく8月9日のオークランドでの試合だろう。2回までに8点のリードをもらったにも関わらず、伊良部は5回にノーアウト、ランナー2塁という時点で降板するまでに8安打6失点とたたきのめされ、勝ち星の権利を失った。大量リードをもらって王手をかけながら、勝利をつかむことに失敗した伊良部は、ヤンキースのジョー・トーレ監督を激しく怒らせ、その怒声はオークランド側の観客席まで聞こえるほどだった。

 

 2シーズンを終え、ヤンキースの首脳陣はシーズン末までに伊良部に対する信頼をかなり失くし、プレイオフの先発ローテーションから伊良部を外した。

 

 彼のパフォーマンスは「良い時は、とっても良い子。でも、悪い時は、とっても悪い子」という保育園時代に聞いた古い詩を思い起こさせた。ヤンキースのピッチングコーチ、メル・ストットルマイルは伊良部のフォームを悪い方向へと直した人物と言われているが、彼は「のっているときの彼は、私がこれまで見たなかで最高のピッチャーのひとりだ。だが、悪いときの彼は最悪のピッチャーのひとりだ」と語った。

 彼は完封に向かって巡航していても、突然、日本ではほとんどヒットされることすらなかった時速158キロの速球で、ホームランを1、2発打たれ、沈んでしまった。それは伊良部の自信をくじいたように見え、彼は最後の手段として、速球ではなくコーナーにカーブを投げ込むようになった。その投球は結果的に四球の連続になることもあり、あっと言う間にノーアウト満塁のピンチを迎えていることに気づき、彼の自信はさらに激しく揺らいだ。

 

 彼のヨーヨーのように動く浮き沈みの激しい調子は、ヤンキースの首脳陣を当惑させた。ある人は、伊良部はメジャーリーグの高いレベルのゲームに適応できず、特に即座の完璧を求める厳しいオーナーであるジョージ・スタインブレナーが率いるヤンキースのような強豪チームには適応できていないのだろう……と推測した。またある人たちは、伊良部の精神的安定度に疑問をもった。だが、伊良部は、アトランタ・ブレーブスのエースであるジョン・スモルツを真似て、スポーツ心理カウンセラーを受診するよう提案されても、それを拒絶した。

 

 伊良部の日常の振る舞いも、ピッチングと同様に不安定だった。彼も率直に認めていたように、いつも気性をコントロールするのに苦労していた。かつて、千葉ロッテ・マリーンズ時代に結果が悪かったとき、伊良部は怒ってダグアウトを蹴り、脚の親指を骨折した。

 

 アメリカでも、激しい気性は何度も現れた。負け試合が続いたとき、伊良部はブーイングをするファンに向かって唾を吐いた。投球内容がひどかった試合後、ヤンキースタジアムのクラブハウスのドアを拳で叩き壊した。初めて本格的に参加したヤンキースの春季キャンプでは、酔っぱらって大暴れし、新婚の妻、京淑(きょんす)さん(ロッテとサンディエゴとの間でトラブルになっていた頃に結婚した千葉出身の女性)をうかつにも殴ってしまい、タンパのホテルの部屋を、文字通り破壊してしまった。フィラデルフィアでは、4回にKOされると、伊良部は平常心を失い、ビジターチームのロッカールームに多大な損害を及ぼした。

 

 伊良部は大量のビールを飲み、1日に2箱の煙草を吸った。それは彼の体調を悪化させた。2度目の春季キャンプまでに、体重110キロまで太り、ひどいコンディションだった。タンパでのオープン戦のあるゲームで1塁ベースカバーを怠ったとき、ヤンキースのスタインブレナー・オーナーは集まったリポーターたちに対して伊良部のことを「太ったヒキガエル」と呼び、スポーツメディアの見出しになった。その言葉はその後、ニューヨークでのスポーツに関する伝説のひとつになった。伊良部はこれらの事件について後日、精神的な落ち込みが原因だったと話しているが……。伊良部はさらに、オーナーの侮辱を受けてとても落ち込み、次の試合のためのヤンキースのプライベート飛行機に乗り込むことを拒否した。代理人の野村は事態を収拾させ、クライアントであるヤンキース球団をなだめるため、ニューヨークに飛ばなければならなかった。

 

 当時、伊良部はメディア、特に彼をどこまでも追いかけ回す日本のメディアとよく喧嘩になった。伊良部は、パドレスとのトレード問題で伊良部を悪役とみなした何人かの記者と媒体を、ブラックリストに載せていた。そのなかには、伊良部がナショナルリーグのチームとの契約を拒否した本当の理由について、彼の母親が北朝鮮出身であり、サンディエゴは過去に北朝鮮半島にひどい軍事攻撃を行ったアメリカ海軍の主要基地があったからだ、と書いた記者も含まれていた。

 

 そして、彼は他の記者をいじめることを楽しんでいるように見えた。伊良部は、記者たちを虫けらに喩えたり、“金魚のフン”と呼んだりした。伊良部は、ある時は日本人カメラマンのビデオカメラを壊したり、ある時はブルペンでカメラマンに向かって投げ、ボールが太腿に当たってひどいミミズ腫れになったときには不敵な笑みを浮かべるなど、日本のスポーツ紙でさらにネガティブな見出しになる原因をつくった。

 伊良部はアメリカのメディアにも反論した。例えば、伊良部を“ビッグ・ボーイ(大きな子ども)”と書いたニューヨーク・デイリー紙のコラムニスト、マイク・ルピカや、伊良部の過去を詳細に調べ、ハーフと言う複雑な出自について暴露記事を書いたニューヨーク・タイムズ紙の記者なども、そのなかに含まれた。伊良部は沖縄出身の母親とアメリカ人の軍人で、のちにアメリカに帰国してしまった父親との間に生まれた。その後は母親の手で育てられたが、育ての父は荒くれ者で大阪の低所得者層の地域で育った。子ども時代には、少し西洋系に見える外見をバカにされることもあった。ロッテ時代のある晩、彼は酒の力を借りてスポーツライター数人に、自分にはいつかアメリカに渡って有名な野球選手になる夢があり、実の父親が、助けにはならなくとも、気づいてくれることを望むと打ち明けた。しかし、その言葉が日本のメディアで報道されたことは、伊良部をかなりいらだたせた。その後、伊良部は口を閉ざし、出自に関するさらなる質問に答えることを拒否した。それはプライバシーの侵害であり、他人には関係のない、ただ彼自身の問題だと考えたからだ。だから、ニューヨーク・タイムズがその記事を掲載したとき、伊良部は書いた記者をブラックリストに書き加えたのだった。

 

 伊良部の癇癪は、鬱病の発作と交互に起こった。そういうときは、遠征中にホテルの部屋の引きこもり、人体の構造のイラストを描くという、お気に入りの趣味に浸って気持ちを落ち着かせたりした。イラスト描きは彼の特技でもあり、世間から離れて自分のなかに閉じこもる行為でもあった。登板予定のない試合中は、しばしばブルペンで投げ込む彼を見ることができたが、いつも不機嫌そうな顔つきをしていた。

 

 彼の興奮した行動や態度は、それまでになかった様々な日本人像を生みだした。マンハッタンのミッドタウンにある有名なオバタという日本食レストランのある従業員は、「本当に困っている。伊良部によって日本人のイメージが悪くなった」と言った。日本国内では、批評家たちが伊良部の尊厳のなさを非難し、また、ダン野村の母親である野村沙知代も、持ち前の独断的な言葉遣いで「伊良部は日本の恥だ」と、全国ネットのテレビで断言した。

 

 伊良部を擁護する人々は、気性の荒さは共用のロッカーを蹴った経験のあるポサダやジーターほどではなく、また、他の選手、例えば、カルロス・ザンブラーノのような選手に比べたら、はるかに闘争的な気質が低いことは確かだと話した。が、伊良部は日本からやってきた新人であり、日米両球界の権力者たちとのトラブルが大々的に報道される結果となったことで、彼の行動はメディア、特に日本のメディアからあれこれ詮索されるようになった。

 

 報道などで伝え聞くところによれば、ヤンキースのチーム内で、彼は好感を持たれていた。言葉の壁はあったが、いつも笑顔だったし、英語で覚えた下品な発言でチームメイトを笑わせたりしたという。入団当初、彼はヤンキースの一員として、目前で起こった乱闘にも参加した。が、その時彼は利き手の右手をタオルで覆って保護していた。そこで、そんなことをして乱闘に参加するのは、笑われる行為か? とチームメイトに尋ねた。尋ねられたチームメイトは、そんなことはないと断言し、伊良部はそれを聞いて安心したのだった。

 彼はまた、大きな寛容さも持ち合わせていた。多くのチャリティ団体を支援したり、ヤンキースの球団フロントのスタッフや通訳のジョージ・ローズ(伊良部は尊敬の念をもって彼を“センパイ”と呼んでいた――この呼び方はヤンキースの他の選手も真似をした)には高価な贈り物をした。伊良部は彼が初めて手にしたワールドシリーズ出場のボーナスから、ローズの大学院通学用の学生ローンを完済したり、ヤンキースのワールドシリーズ出場記念のペンダントを複製するための特別な許可を得たりした。高価で、通常は家族にのみ与えることができる特別の品だったが、伊良部は当時、ヤンキースの幹部で球団の弁護人になっていたアフターマンにもプレゼントした。彼女は、「イラブは思いやりのある人でした。私の家でバーベキューをしたとき、梅酒のボトルを持ってきてくれました。私が梅酒好きなこと、そしてなかなか手に入らないことを知っていたので、リトル・トーキョー中を探しまわってくれたのです。彼は周囲の人々に対してはとても思いやりがあったのに、そんな一面は全く報道されず、別のことばかりがニュースになりました」と振り返った。

 

 とはいえ、ヤンキースは2000年までには既に彼のあらゆる不安定さにうんざりし、彼をモントリオール・エクスポズにトレードで移籍させてしまった。そのことで、かつて伊良部を監督したことのあるボビー・バレンタインは次のような発言をした。「おそらく伊良部は(メジャーリーグでのキャリアを)再スタートするのに最も悪いチームに入ってしまった。彼が必要としたのはもっと保護された環境だった。彼には‘疑い深い’雰囲気ではなく、‘助けてくれる’雰囲気が必要だったのだ」と。

 

 モントリオールに移籍した彼は肘と膝の手術を受け、勝ち星をあげたが、それは2シーズンでわずかに2試合だけだった。ほとんどマイナーリーグで過ごし、例えば、登板前夜に酩酊し、出場停止処分を受けたこともあった。その後、テキサス・レンジャースに移籍した。テキサスでは、わずかな期間だったが、リリーフピッチャーとして輝かしい魅力を放った。だが、その後、血栓症を患って入院し、彼のメジャーでのキャリアは終わった。

 

 大きく報道はされなかったが、彼のメジャー時代のハイライトのひとつは、ついに実の父親と会えたことだった。映画『フィールド・オブ・ドリームス』に出演したレイ・ライオッタのファンだという父親は、ある日、ヤンキースの春季キャンプに彼の息子であるヒデキの妻へのプレゼントと、2人の娘たちへのぬいぐるみを携えて、ふらりと現れた。彼は、伊良部のヤンキースでの活躍を耳にして連絡を取ろうと決意したのだった。父親は伊良部が想像していたようなジョン・ウェイン似ではなかった。身長約173㎝のきゃしゃな体つきで、アラスカに住み、公務員として働いていた。が、ヒデキは父親によって知らされた事実に興味をそそられた。父の父親(祖父)は体格がよく、セミプロの野球チームでプレイしたことがあり、さらに誕生日はヒデキと全く同じ日だという。そういうエピソードはヒデキをとても喜ばせた。

 

 ヒデキの父は通訳を介して、どのようにヒデキの母、カズエ(和江)と出会ったのか説明した。彼は米国軍人で、沖縄に駐在していた。ある日、通りを歩いていると、女性が男に襲われていることに気づき、二人の間に割って入り彼女を助けた。彼とカズエはそのようにして始まった付き合いは約1年つづき、結果として彼女は妊娠した。その頃には彼はアメリカに戻される予定になっていたので、彼女に結婚を申し込み、彼女と赤ん坊を一緒に連れていこうとした。だが、カズエは断った。彼女は彼との関係に厳しく対応し、一人で子どもを育てることに決めた。そうして彼は日本を発ち、アメリカに戻って公務員としてのキャリアをスタートさせた。しかし、いつも日本に残してきたカズエと子どもを思っていたこと、そしてきちんと父親にならなかったことで罪の意識にさいなまれてきたことをヒデキに話した。彼は自分ができるどんな方法でもいいから償いたいと言った。父と息子はある種の交流をスタートさせた。父はキャンプ地で1週間を過ごし、その後も数回会った。が、言葉の壁のせいで、二人の関係を発展させるのは難しかった。通訳を介しての会話は満足できるものではなかった。ヒデキは父と会ったことを公にすることはなかったし、そのことを知る友人たちには秘密にしてくれるよう頼んでいた。

 

 二人を知るある知人が話してくれた。「ヒデキの父はいい人だった。私は、日本に帰国する伊良部を見送りにやってきた彼とロサンゼルスの空港で会ったのだが、彼はたった一人でひっそりと立っていた。そののちヒデキは私に、父のことが好きだったと話してくれた。なぜなら、父は伊良部に金の無心をしない数少ない人間のひとりだったからだという。多くの人が、ヒデキの人生に少しずつ立ち入ろうとした。例えば、友人の振りをしたり、なかには父の振りをした人もいたが、彼らはみな、ただ伊良部の金が目当てだった。でも、本当の父親はそういう人間たちとは全く違っていたのだ、と」。

 

(パート3へつづく)

 

(原文・ロバート・ホワイティング/訳・星野恭子)

PHOTO from  YouTube (BAL@NYY: Yankees great O’Neill remembers Irabu)