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REMEMBERING HIDEKI IRABU FINAL-PART I(伊良部秀輝の最期の記憶・パート1)

(※この記事は9月28日掲載『REMEMBERING HIDEKI IRABU FINAL-PART I (Robert Whiting)』を翻訳したものです。)

 

 かつて世界最高のピッチャーのひとりと認められた伊良部秀輝が亡くなった。死因は自殺とされている。

 

 彼の人生はトラブルの連続だった。日本人とアメリカ人のハーフという人種問題に苦しんだこと、父親のことを知らずに育ったこと、日本とアメリカのプロ野球の慣習を拒否し物議をかもしたこと、晩年はアルコール中毒やその他の困難と戦ったこと・・・・・・。しかし、彼はまた、日米球界の関係、特に選手の権利に関して歴史的な影響を残した(選手の権利は、伊良部以前の時代の日本球界にはほとんど存在していなかった)。このことだけとっても、彼は記憶に値する人物と言える。

 

 日本からアメリカに渡った伊良部秀輝の道は、ことのほか曲がりくねったものだった。選手を所有物のように扱う横暴な球団幹部たちがつくった障壁に悩まされた。意思の弱い選手だったら諦めてしまったかもしれない。かつて伊良部の代理人だったジーン・アフターマンは話す。「伊良部は行きたい方向に進むために、地獄のような道を通りぬけなければならなかった。でも、彼は一度たりとも諦めようとはしなかった。彼のおかげで、日本の同一世代のすべての選手が恩恵を受けたのだ」

 

 伊良部は身長193cm、体重100kg。最速の球速は時速159 kmだった。この速球と、鋭く変化するフォークとの組み合わせが、伊良部を日本で最高のピッチャーにした。千葉ロッテマリーンズ時代、27歳になるまでに、伊良部は2度、防御率と奪三振でリーグタイトルを獲得している。伊良部が絶頂期にあった1995年、マリーンズを率いたアメリカ人のボビー・バレンタイン監督は伊良部をノーラン・ライアンになぞらえ、アメリカでプレイすることを真剣に考えるように勧めた。

 

 メジャーリーグに移籍し、世界トップクラスのピッチャーの中で自分の力を試すことは伊良部の長年の夢だった。しかし、アメリカでは6年なのに、日本では選手登録期間が10年を超えないとフリーエージェント(FA)権を取得できないという、日本の厳しいプロ野球協約に伊良部は縛られていた。彼はメジャーリーグのチームとのトレードの可能性を探ってロッテ球団と話しあい、最初はいくつかの疑問点もあったが、やがてトレードというアイデアは悪くないと考えるようになった。ロッテは、選手トレードを毎年定例化することと他の協力関係を求めたサンディエゴ・パドレスとの提携の合意を正式に進めた。マリーンズは打者不足だったので、球団フロントは伊良部をサンディエゴに送れば、アメリカのホームラン打者とトレードできるのではないかと考えたのだ。

 だが、当時、伊良部は伝統あるニューヨーク・ヤンキースでだけプレイする意向だと表明し、ヤンキースとも意気投合していた。そこで、伊良部は著名な代理人、ダン野村を雇った。野村は、野茂英雄がメジャーリーグに移籍する際、「任意引退」という不透明な抜け道を利用するよう助言したことで、日本プロ野球機構に衝撃を与えた人物だった。「任意引退」の抜け道は、その後、恥をかかされた恰好になった球団オーナーらによって、間もなく廃止された。

 

 ロッテの「社長代行」だった重光昭夫は、伊良部の無礼な振る舞いが気に入らなかった。重光は日本生まれの韓国人で、父親の重光武雄はソウルを本拠とするロッテ製菓とアジア全土でビジネスを展開するロッテ・ホテル・グループの創業者だった。重光は、選手に平気で完全なる服従を強いた。江戸時代の徳川家の大名たちのように球界を支配し、日本の大半の球団オーナーと同様、選手を自分の所有物のように扱かった。選手には代理人との契約を認めず、びくびくして言いなりになっている選手組合には、球団が主張する契約条件を押しつけた。

 

 重光は伊良部に対し、1997年シーズンは出場させないと脅した。伊良部と野村は、ロッテ球団が所有する伊良部の保有権は全世界的に有効である、とする球団側の主張について、アメリカの法廷で争うことをほのめかして対抗したとき、重光の腹心の部下たちは重光に代わって非道な方法を考案した。

 

 それは、もしも伊良部がロッテの意向に従うことに同意するというフロント幹部による手書きの「親書」に署名するなら、ロッテは伊良部のヤンキース移籍に向けて最善を尽くすという口約束で、そんな異様な譲歩案が極秘のうちに伊良部に提示された。

 

 ある幹部は伊良部に、署名は形式的なことであり、ただ27歳の“奴隷選手”の移籍を望まないロッテの“将軍”をなだめるために必要なだけだと説明した。そして、その親書は決して公になることはないと言われた伊良部は、自分と野村の意に反してはいたが、その書類に署名したのだった。

 重光はそれ以降、伊良部にヤンキースに行くよう命じ、その見返りとして、その年39本の本塁打を放ってオールスター戦にも出場したセシル・フィルダー外野手の獲得を求め、さらに突然の解雇に対してフィルダー選手に1000万ドルの給与の半分をヤンキースが支払うという条項も付け加えた。

 

 そこで、伊良部と野村は突然翌年1月の会議に呼ばれ、重光から次のような通告を受けた。伊良部の希望をかなえるために我々は最大限の努力をしたが、ヤンキースが非協力的だったので、パドレスに伊良部の独占交渉権を譲渡する代わりに二番手の選手2名とトレードするという選択をした。それ以外には伊良部をメジャーに送る方法がなかった……。そして重光は、「君は、もはやロッテ球団の選手ではない」と告げ、会議を打ち切った。

 

 伊良部は重光の詭弁に衝撃を受け、契約金250万ドル、3年間450万ドルというパドレスとの契約を断固として拒否し、ヤンキース移籍という自分の希望を繰り返した。伊良部は報道陣に対し、パドレスの球団幹部ラリー・ルチアーノから、もし契約書にサインしないなら自分には1年間の浪人しか選択肢がないと言われたことを明かした。伊良部は「奴隷トレード」の渦中に巻き込まれたのだ。

 

 すると重光は、伊良部の署名入りの「親書」を報道陣に公開した。「この親書は、伊良部がメジャーリーグのチームならどのチームでも喜んで入団するということを示している」と重光は言明し、「私は伊良部が自分中心の振る舞いを改めることを望む」と話した。

 

 行き詰った状況を打開するため、1998年2月に「メジャーリーグ最高経営会議」の特別会議がサンディエゴで開かれた。会議は「親書」の出所と、ヤンキース球団のトレード担当による口約束に関する伊良部の宣誓供述書を無視して、パドレスを支持する裁定を下した。口約束の存在に関して、ロッテは異議を唱える必要すらなかった。最高経営会議は、1967年に日米球界のコミッショナー間で結ばれた2国間でのトレードを特に妨げないとする選手協約を引用した声明文を公表した。日本人選手の保有権に関して問題があることは、アメリカ側もそれを認めていたが、それは日本側が考える問題だと言った。そしてパドレスは、独占交渉権を保持した。

 

 もし伊良部が異なるタイプの人間だったら、その時点でパドレスと契約を交わしていたかもしれない。サンディエゴは美しくいい街だ。天候も穏やかで、ゴルフコースもたくさんある。だが、伊良部は東京湾のように狭く繊細な性格だった。伊良部の考えでは、親書にサインするか否か最後通牒を出したロッテと同じくらい、パドレスが伊良部を軽く見ていると感じていた。また、彼は最高経営会議の思い通りになるつもりも毛頭なかった。さらに、他の選手が将来、自分と同じような状況に絶対に陥らないようにしなければ……という責任も感じ始めていた。

 当時、野村と一緒に代理人をしていたジーン・アフターマンは、「伊良部はサンディエゴとは絶対に契約しないだろう。彼が自ら選んだクラブと契約するときは、トレードなしという条項、つまりサンディエゴにトレードされないという条項が盛り込まれるはずだ。それは選手たちのためでなく、まるで肉片のように選手を自分の所有物として扱う球団の選手保有制度に一撃を加えるためだ」と話した。

 

 交渉は行き詰まり、迷路のように入り組んでいたため、伊良部は一時的に、まだ伊良部を日本球界に留める保有権をもつロッテへの復帰も考えた(これはサンディエゴがもつ「交渉権」に対抗する権利の行使とも言えた)。日本でFA権を取得するには累計9年の選手登録期間が条件だった。伊良部は、計算上では1997年シーズン半ばのある時点で、正式にそのFA権が認められるはずだった。

 

 しかし、ロッテはそんな空想に終止符を打った。マリーンズ広報担当の堀本祐司は、ロッテが伊良部を再雇用する条件について告知した。まず伊良部は自身の言動一般について、特にマリーンズのビジネス慣行を「奴隷貿易」と表現したひどい中傷について謝罪しなければならなかった。広報担当者は、その発言が「マリナーズの名誉を著しく傷つけた」と説明した。

 

 だが堀本は、それで全てではないと言った。堀本は長年、日本プロ野球界の特徴だった選手保有権の保持を示しながら、日米のコミッショナーとメジャーリーグの全球団、そして重光オーナー自身に対して、アメリカへの移籍を断念し、生涯を通じて2度と移籍に挑戦しないと誓う声明文を提出するよう伊良部に求めた。それに対してアフターマンは、次のように皮肉った。「その要求は、伊良部を日米両国で最高齢の保留選手(FAを認められない選手)に縛り付けることにほかならない。良い点は、伊良部が“ハラキリ”を要求されなかったことだけだ」

 

 伊良部がパドレス入りを拒否したことによって、侮辱された形となったサンディエゴでの報道と同様に、日本のスポーツ・メディアも(それは、日本のプロ野球の所有者でもある)伊良部を身勝手で恩知らずだと表現する主に批判的な報道を繰り返した。が、それにもかかわらず、伊良部と野村は意思を曲げることを拒否した。二人はメジャーリーグの選手会に助けを求めた。選手会の幹部たちは、伊良部がつぶされた、と考えていたからだ。同選手会の雄弁なジーン・オルツァ弁護士は、人種差別的意識が最高会議の判断に何らかの影響を及ぼしたとほのめかしながら話した。「もし、伊良部が金髪で青い瞳のジョン・スミスという名前だったら、今回のことは一切起こらなかったと、私は心から信じる」

 

 オルツァを後押しするように、選手会が法的手段に訴えると脅しながら圧力をかけた。こうして翌年の春には、メジャーの最高会議は態度を翻し、選手の承諾なしにアメリカの球団とのトレードや独占権の譲渡、または選手契約を禁止する新たな規約をつくることで、サンディエゴとロッテが行ったような取引が将来的に発生することを凍結した。

 

 同時に、ロッテの試みにすっかり反感を抱いていたサンディエゴは、ニューヨーク・ヤンキースとの間で伊良部とヤンキースの3選手との交換トレードに応じた。

 こうして、伊良部はアメリカ行きの希望をかなえた。だが、もっと重要なのは、彼がロッテからサンディエゴへのトレードを拒否したことで選手の権利を守った勝者として歴史に名を残したことだ。そのことはメディアの注目も引きつけた。その後、伊良部を欲しがった他のメジャーリーグの数チームによる、ロッテとサンディエゴの業務提携という名の裏取引に対する批判が、日米双方の球界で、現在導入されているポスティング・システムの創設につながった(伊良部のケースの後、ヤンキースでのプレイを望み、広島カープ退団を希望したアルフォンゾ・ソリアーノのケースなども起きている)。

 

 ポスティング・システムとはまだFA権を取得していない選手がアメリカへの移籍を希望した場合に所属球団が行う入札制度で、最も高値を付けたMLBのチームが選手との交渉権を得る。このポスティング・システムを使ってMLBに移籍した日本選手の中にはイチローや松坂大輔がいる。松坂との交渉権は5100万ドルという史上最高額を入札したボストン・レッドソックスが落札し、松坂はその後、レッドソックスと6年間5000万ドルの契約を交わした。

 

 もし、ポスティング・システムが伊良部の時代にもあったとしたら、彼は熾烈な競売の対象となっていただろう。が、伊良部がヤンキースに移籍したとき、かなり低額の4年間1280万ドルで契約した。

 

 野村は、「イチロー、松井秀樹、松坂らは皆、伊良部秀輝に対して多大な恩義があります」と話す。「伊良部に最後まであきらめないガッツと意思がありました。そのおかげで、他の選手は、有利な契約を交わすことができるようになったのです。野茂の移籍は伊良部が体験したことに比べたら、たやすいことでした。野茂のケースでは、アメリカ移籍の際に選手の任意引退を認めるという我々に有利な明文化された規定がありました。その規定は後に修正されてしまいましたが……。秀輝は、まったく“見事な強打者”でした。彼の前には、前例となるルールがなく、道義的規準で正しいか正しくないかの判断を下さなければなりませんでした。秀輝は、歴史的に何が問題なのか、そして彼を支えているものが何かについて、十分に理解していました。私は秀輝が、こう言ったのを覚えています。“僕がもし今、諦めたら、海外チームへのトレードを断る権利を誰もが失ってしまうだろう”。そのとき私は、秀輝をとても誇りに思いました」

 

(パート2へ続く)

 

(原文・ロバート・ホワイティング/訳・星野恭子)

PHOTO from  YouTube (BAL@NYY: Yankees great O’Neill remembers Irabu)