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桜宮高校事件から学ぶこと。「体罰を捨て、言葉の力を身につけろ!」(玉木 正之)

大阪の某テレビ局ディレクターから、不祥事を起こした場合の責任者の対処の仕方を教わった。それは、「謝罪・調査・原因究明・解決策」の順序で行われなければならないという(「シャ・チョーさん・ゲン・カイです」と憶えておけばいいらしい)。

今回の桜宮高校「体罰自殺誘発事件」では、橋下徹大阪市長が「謝罪」は一応口にした。が、「調査」「原因究明」を飛ばして、「解決策」を急ぎすぎているようにも思える(それは「対処の手順」を教えてくれた某ディレクター氏も指摘していた)。

桜宮高校の普通科を除く体育科とスポーツ健康科学科の入試中止や、体育教師の総入れ替えといった橋下市長の要望、さらに予算執行中止を伴う処分を示唆していることが、「解決策」かどうかはさておき(あるいは「調査」「原因究明」のための緊急措置と言えるかもしれないが)、今回の事件に関しては、「調査」も「原因究明」も、そして「解決策」も、甚だ困難というほかない。

なぜなら、「調査」したり、「原因究明」に携わったり、「解決策」を考える人物に、スポーツ教育(体育)に関するどれだけの「知識」と「想像力」が備わっているか、大いに疑問に思えるからだ。

クラブの顧問の教師が、いつ、何処で、どの程度の「体罰」(あるいは「暴力」)をふるったのか……。それを詳しく調べるのは「調査」の基本中の基本だろう。が、それだけでは「調査」したことにならない。

教師が、生徒の進学や就職に、どれほどの「影響力」を持っていたのか。そこまで「調査」しないことには、生徒(や保護者)が、本来不当なはずの「体罰」(暴力)を受け入れてしまう素地が浮かびあがってこないはずだ。もちろん、「体罰」が行われたのは何故か……という「原因究明」にもつながらない。

また、体育教育にはスポーツを行う「実践系体育」だけでなく、「理科系体育」(身体の筋肉機能や生理機能をスポーツを通して教える)や、「文化系体育」(スポーツの歴史やルールの変遷史、スポーツと社会の関わりやスポーツクラブの運営や経営等を教える)があることも知っていなければ、「解決策」は編み出せない。

これまでの日本の体育教育は「実践系体育」のみで、「理科系体育」「文化系体育」はまったくといっていいほど教えられてこなかった(特に高校生以下では、「保健体育」という科目名で、男女の性差などを学ぶ機会があるだけだった)。「理科系体育」「文化系体育」という体育教育(スポーツに関する知識)の存在すら知らない体育教師がほとんどだった。

だから、たとえばバスケットボールが、いつ、誰によって、どのようにして創られ、なぜボールを持って3歩以上足を運んではいけないのか、といったこと(それらはすべて説明できること)は、まったく教師が教えることも、生徒や学生が学ぶこともなかった。

そして、ただ試合に勝つことだけを目的に、身体を動かす練習ばかり叩き込まれた。それも戦略や戦術を細かく教えられることは少なく、ただ「先生」に指示されるままに動き、そのような動きができずに試合に敗れたときは、「先生」から叱責され、さらに「体罰」が……と、教える方も、学ぶ方も、「無知の悪循環」に陥っていたと考えられるのだ。

バスケットボールは、19世紀末にアメリカ・マサチューセッツ州YMCAの体育教師だったジェイムズ・ネイスミスという人物が、雪の深い冬でも屋内で「フットボール」を行いたいと考えて作られたボールゲームだ。まず、狭い屋内だからボールは足で蹴らずに手で扱い、ゴールは籠状のバスケットにすると決めた。

そして、オフサイド(ボールの位置よりも前方の敵側)にいる選手へのパスを禁止のルールをなくし、オフサイドでのプレイを解禁するすかわりに、ボールを持ったまた3歩以上歩いてはいけない、と決めたのだった。が、19世紀の多くのスポーツマンと同様、オフサイドは絶対に許されないもの、という考えに縛られていたネイスミスは、この「ルール変更」に気付くのに丸々1年かかったという。

このようなスポーツ・ルールの変遷等は、故・中村敏雄先生の著作『オフサイドはなぜ反則か』などに詳しく面白く書かれているのだが、こういう知識を知っていたからといって試合の勝利につながるものではない。が、こういう知識によってスポーツへの興味が湧く(やる気が出る)子供たちも少なくないはずだし、こういう知識がスポーツの現場にまったく浸透していないからこそ、日本のスポーツ界は、世界のなかでルールの改正等に関わることができない、とも言えるのではないだろうか。

「体罰」も少しは必要……と、まだ口にする人もいるらしい(そのような記事を掲載した週刊誌も存在する)。が、そもそもスポーツにおいて「罰せられる行為」など存在するのだろうか……? 試合での敗戦など、試合でのミスなど、断じて「罰せられる行為」とは言えない。それらは、敗因を話し合い、ミスを分析し、対策を考えなければならないことである。

それを「つべこべ言わずに練習をやれ!」などと理屈抜きに叱咤するようでは、もはやスポーツの指導とは言えないだろう。もちろん「気合いが入ってない!」などという理由で「体罰」をふるうような問題であるはずはなく、「気合いが入ってなかった」なら、何故「気合いが入らなかった」のか、その原因を考え、究明するべきだろう。そうして、スポーツにおいて、教えること、学ぶこと、考えること、それを言葉で表現すること……の多さと面白さに気付いたなら、体罰などやってる暇などないはずである。

私自身、自分の子供を叩いたことは何度かある。しかし、それを「体罰」などと考えたことはない。親の言うことを聞かない子供にハラが立って、思わず手が出てしまったまでのことである。確かに子供は、言っても聞かないときがある。が、叩いて、一時的に子供が「がんばる」ようになっても、「レベルの低い」次元の話でしかない。
それを「体罰」だの「教育」だのと称し、「愛情を込めて」行えば良い、などと言うようになると、「体罰(暴力)」がエスカレートするだけだ。そのようなエスカレートした「体罰(暴力)」が揮われる場面は、高校野球や大学野球やプロ野球の練習の現場で、私も、これまでに何度も見たことがある。

それを目撃した多くの新聞記者は(そして私も)、それを告発しなかった。その「体罰」は、果たして、「何」に有効だったのか? そんな「体罰」の存在がエスカレートし、今回の「自殺誘発」にまで至るほどの暴力としか言い様のない何十発もの殴打につながったのではないか? そう思うと、激しい「体罰」の現場に何度か立ち合った経験があり、そのことを告発しなかったスポーツ記者の一人として、それが当時は日常化した現実だったにしても、心に痛みを感じないわけにはいかない。

ここで最後に、日本サッカー協会副会長である田嶋幸三氏の著作『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(光文社新書/2007年)を引用しておきたい。

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Jリーグが発足した当時、人気は一気に高まり、チーム数も14に増えました。ところが、日本人が率いているチームは、なんと全体の2割にしか達しなかったのです。その理由はいったい何か。

「日本人監督は、自分のチームの選手たちを自身の『論理』と『言葉』によって説得しプレーさせる力が足りない」私たちの眼には、そう映っていました。とくに外国から招聘された綺羅星のようなスター選手たち——ジーコ(鹿島アントラーズ)、リネカー(名古屋グランパス)、リトバルスキー(ジェフ市原)……——が、彼らの鍛え抜かれた論理で意見してきたとき、日本人監督はまったくお手上げの状態でした。

たとえば、外国人選手たちは「なぜこの練習をするのか?」と聞いてくる。彼らにとっては、練習には理由があるのが当たり前。ところが、日本人監督は説明ができないし、外国人選手から責められていると感じてしまう。それもそのはずです。それまでの日本サッカー界では、部長がいて、課長がいて、という日本的な年功序列体質と同様だったのですから。
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この文章は、新たに東京都知事となったノンフィクション作家の猪瀬直樹氏も、『言葉の力「作家」の視点で国をつくる』(中公新書クラレ)のなかで、引用している。そして、猪瀬氏は、その著作のなかでの引用後、次のように書いている。

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日本人も、海外のクラブチームでプレーすることが多くなった。世界が見えてきたからこそ、日本人の言語技術の課題も見えてきた。このような田嶋さんの話には、学ぶところが多かった。実際にサッカーの日本代表は2011年のアジアカップで優勝し、成果が現れてきたのである。

言語技術というと、国語教科だけで子供たちを教えていけばいいとイメージされがちだが、そうではないと田嶋さんは考えている。体育、理科、社会、算数と、すべての教科に、あらゆる場面で言語技術を鍛えていくことが大切なのだ。
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「体育」を通しても、「言語技術」を鍛えるは大いに可能であり、重要なことであり、鍛えられた「言語技術」によって「体育」を教えるなら、競技(スポーツ)の技量や実力も大いに向上するはずだ。そして、それは「体罰」以上に多様で多くの教育効果を発揮するはずだ。

「言葉の力」を身につけようとする教育、「言葉の力」による教育は、「体罰」の正反対の遥か遠くに位置する。そして『どんなライフスタイルを築くにしろヴィジョンを生み出すにしろ、その思想を鍛え上げ、磨きあげていくとしたら、われわれの「言葉の力」である』と猪瀬氏は書く。

ライフスタイルとも関係なく、ヴィジョンも持たない、ただ「体罰」のみで「言葉の力」を持たないスポーツなど、やらないほうがマシというものだろう。

(玉木正之のホームページCamerata di Tamakiの「ナンヤラカンヤラ」+NLオリジナル)