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日ハム大谷選手の『投打二刀流』は現代プロ野球では無理!(玉木 正之)

北海道日本ハム・ファイターズに入団した大谷祥平選手がバッター(遊撃手?)とピッチャーの「二刀流」で、プロに挑むという。が、結論から言えば、それは現代プロ野球で常識的に考えて、無理。ファイターズ得意のPR戦術……というならば、納得できるのだが……。

かつて日本のプロ野球で、打者としても投手としても活躍し、好成績を残した選手は、ほんのわずかしかいない。

●巨人の沢村栄治投手の好敵手といわれた大阪タイガースの景浦将(1936〜43:通算5年:打者=通算2割7分1厘、25本塁打、首位打者、打点王各1回/投手=通算27勝9敗、最優秀防御率1回)

●打撃の神様と言われ、V9巨人の名監督として有名な川上哲治(1938〜58:通算18年:打者=通算3割1分3厘、2351安打、181本塁打、首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回/投手=通算4年:11勝9敗)

●中日ドラゴンズの初代ヒーローで監督にもなった西沢道夫(1937〜58:通算20年:打者=通算2割8分6厘、1717安打、212本塁打、首位打者、打点王各1回/投手=通算9年:通算60勝65敗、ノーヒットノーラン1回)

●選手時代は近鉄で活躍、長嶋巨人監督のヘッドコーチも務めた関根潤三(1950〜65:通算16年:打者=通算2割7分9厘、1137安打、59本塁打/投手=通算65勝94敗、防御率3.43、投手でも打者でもオールスター出場)

……と、4人を数えあげる程度なのだ。

アメリカ大リーグには、ベーブ・ルース(1914〜35:通算22年)という最強の「二刀流選手」がいる。彼はヤンキース(1920〜34)の大ホームラン・バッターとして、ホームラン王10回、打点王5回、首位打者1回を獲得し、通算714本塁打(ハンク・アーロンについで2位)を記録した大打者だが、ヤンキースに移籍する前は、ボストン・レッドソックス(1914〜19)で打者・投手の二刀流で活躍。本塁打王2回、打点王1回を獲得すると同時に、通算89勝46敗(ヤンキース時代にも5勝)で、最優秀防御率にも1度輝き、2度にわたって(1916、18)ワールドシリーズでも登板し、3勝0敗、防御率0.87の好成績を残した。

とはいえ、日米の記録とも、ひとことで言えば、「大昔」の大記録。つまり、多くの選手の実力レベルが、今日と較べてかなり低く、少数の突出した実力の持ち主が大活躍をする、言わば「神話の時代」のベースボールでの出来事だったのだ。

もっとも、正式に打者としても投手としても活躍……という二刀流の選手こそ少ないが、「打者としても好成績を残した投手」なら、さらに何人か数えあげることができる。

1950年、日本のプロ野球で初の完全試合を記録した藤本英雄は、26勝14敗の成績を残しながら、2割8分5厘の高打率も記録。シーズン7本塁打という「投手のシーズン最多本塁打記録」も残している。

通算310勝の記録を持つ別所毅彦は、南海時代の1948年、26勝10敗で最多勝を獲得したうえ、打率3割4分を記録(150打数51安打)。巨人に移籍したあとの1950年も、22勝11敗の投手成績で、打率3割3分8厘(151打数51安打)と、プロ野球史上空前絶後の記録といえる「20勝&3割」を2度も記録した。

別所の通算打撃成績は、現役17年間で通算500安打、35本塁打、打率2割5分4厘。大投手別所は、レギュラー打者並の打撃成績も残したのだ。

通算400投手の金田正一も、打棒を誇った投手の一人で、2試合連続本塁打を2度(1962年、64年)、サヨナラ本塁打も2度(55年、59年)記録し、投手で通算36本塁打、そのうえ代打本塁打(62年)まで記録している。しかも、投手にもかかわらず、敬遠四球を7度も与えられているのだから、カネヤンがいかに打者として怖れられていたかがわかる。

他には、ジャイアンツのエース堀内恒夫が1967年10月10日の対広島戦で、ノーヒットノーランを達成すると同時に、投手として史上初の3打席連続本塁打まで記録。1971年のオールスター戦では、阪神タイガースのエース江夏豊が、9打者連続三振という有名な超人的離れ業をやってのけたが、そのとき彼は、自ら決勝となる2ラン・ホーマーも放っているのだ。

このようなピッチャーのバッターとしての活躍に対して、最初に真っ向から反論したのは、元祖フォークボール投手・中日ドラゴンズの大エース杉下茂(1949〜61)だったと言われている。彼は、「投手は打たなくてもいい」と公言。打席に立つときも、バットを肩に担いで、まったく打つ気を見せず、堂々と三振を繰り返した……といわれている。

ただし彼は、「投手は打たなくてもいい」という言葉のあとに、こう付け加えている。「投手は30勝すればいいんだ」……その言葉通り、杉下はシーズン30勝を2度記録(52、54年)。11シーズン(1949〜61年)というけっして長くない野球人生で通算215勝123敗という記録を残した。

さらに杉下の名誉のために書いておくべきは、彼が、通算2割1分9厘、6本塁打、214安打、103打点という打撃成績も残していることだ。オールド・ベースボール・ファンのあいだでは、「打撃を放棄した投手の元祖」として有名な杉下も、そこそこの打撃成績を残しているのだ。

このような「かなりバッティングのいいピッチャー」や「そこそこバッティングも悪くないピッチャー」までが、完全に消え去ってしまうのは、1975年のパシフィック・リーグの指名打者制度の導入から(アメリカ・メジャーのアメリカン・リーグは1973年から)のことで、片方のリーグだけとはいえ「投手が打席に立たない野球」がルール化された結果、「投手は打たなくてもいい」という考えが、一気に広まった。

たとえば1980年10月11日の巨人vs阪神戦で、ともにバッティングに自信のある西本聖、山本和行の両投手が先発。互いに相手投手からホームランを放つというプロ野球史上8度目となる珍記録をつくったのだが、そのときベンチでは、ホームランを称賛するより、それを打たれたことに対する非難の声のほうが高かったという。

また翌81年6月23日、同じく阪神の山本和投手が、対広島戦で川口投手から満塁ホーマーを放ったが、その直後のマウンドで、彼が広島の4番打者山本浩二に満塁ホーマーを打ち返されると、マスコミも、「投手は打たなくていいから、打者を抑えろ」という論評一色になったという。

そんななかで、パ・リーグ西武ライオンズの左腕のエース工藤公康が、シーズン中は打席に立たないのに1985年の日本シリーズで巨人相手に1勝2セーヴの成績を残すと同時に、第5戦の延長12回、自らのバットでサヨナラ・ヒットを放つ活躍をしたこともあった。が、偶然の素晴らしい出来事として称賛されるに止まり、打者との二刀流や、打者転向などの話題は一切出なかった。

また逆に、外野手のイチローが1996年のオールスター戦でピッチャーとしてマウンドに上がり、巨人の主砲松井秀喜と対決しかかったこともあった。が、このときは、オールスター戦といえど素人の投手がマウンドに上がるべきでない、と怒り心頭に発したセ・リーグ野村克也監督の指示で、ピンチヒッターに投手の高津臣吾が告げられ、高津はショートゴロに終わり、140kmの速球を投げるピッチャー・イチローも、余興の域を出ることはなかった。

その野村監督は阪神の監督時代、1998年の秋季キャンプで強肩の外野手新庄剛に、投手としての練習を指示。外野手と投手の二刀流でやらせる、とマスコミに発表し、翌春のオープン戦に登板して巨人を相手に1イニング3者凡退に終わらせるなど、数試合に登板したが左膝をケガした(との理由で)投手は断念。とはいえ、この試みは、どんな投球でもストライクゾーン近くなら強振しようとする新庄に、投手の投球するときの心理を少しでも学ばせようとしたのが、本来の野村監督ネライだったという。

そんなこんなで、それ以来(というほど、時間軸の区切りをはっきり断定できるものではないが)昨今は、ピッチャーのバッターとしての活躍の話題をトンと聞かなくなった。昔に較べて全体的に(あらゆる選手の)レベルの高くなった今日の野球で、投手がタマに打者としてまぐれ当たりの打球を飛ばすことはあっても、本格的「二刀流」など無理と考えざるを得ない。ましてやファイターズが、打者としての大谷を、守備では大型遊撃手として……というのも、単なる「夢」の域を出るものではないだろう。

たしかに甲子園でも大阪桐蔭のエース藤浪晋太郎から(阪神にドラフト1位で入団)ホームランを放ち、通算56本塁打という成績の大谷は、コントロールに少々難のある投手よりも、打者で実力を伸ばすほうがいい、という声も高い。が、その場合でも、守備位置は、守備の負担が比較的軽い(打者に専念しやすい)一塁手、三塁手、外野手あたりが無難なところだろう。

野球選手というものは、基本的に誰もがピッチャーに憧れるもので、マウンドの上に立ち、お山の大将として攻撃的にゲームをつくれる主役はピッチャーであり、バッターはピッチャーに対して対応する存在にすぎない、と考えている。ユニフォームを脱いだ長嶋茂雄氏にインタヴューしたときも、「生まれ変わったら、江川君(卓氏・元巨人のエース)のような投手になって、バッターが打てないどころか、キャッチャーも捕れないような投球をしてみたい」と、喜々として話されたのが印象的だった。

だから、大谷選手も投手を捨てきれない気持ちがあるかもしれないが、それならそれで投手に専念するべきだろう。また、少しでもバッターに進みたいという気持ちがあるのなら、投手の魅力に後ろ髪を引かれることなくバッターに専念するべきである。

野球の国際試合もDH制で「投手とは打席に立たないもの」という考えが常識となった現在、二刀流をめざすのは、自分のプロとしての適正を見極めるための「お試し期間」の短期間(数週間程度?)だけにしておくべきだろう。甲子園でノーヒットノーランを記録した王貞治投手も、そのようなごく短期間を経て打者に専念することを決め、やがて大ホームラン王になった。シーズンが幕を開けても二刀流を続ける……というのは、現代野球では所詮無理なことのように思えるが……。

【NLオリジナル&『週刊朝日』1/4・11合併号&玉木正之・著『プロ野球データバンク』】