サッカー日本代表を復活させるには……まず「思い」を断て!
日本代表チームが我々の代表であるかぎり、日本代表チームの敗北は、また、我々の敗北でもあるはずだ。
もちろん彼らが「我々以上の力」を発揮して、素晴らしいプレイをブラジルの地で見せてくれるのが、いちばん望ましい日本代表チームの姿と言える。たとえば、フィギュアスケートの日本代表選手である浅田真央が、ソチ五輪で見せてくれた活躍のように……。スポーツの素晴らしさ、スポーツが多くの人々をを感動させるのは、優勝や順位ではないのだから……。
「我々の代表」たるサッカーの日本代表チームは、残念ながら「我々以上の力」を発揮してはくれなかった。我々の暮らす日本社会……世界の中で物質的豊かさに恵まれた社会にありがちな「精神的弱さ」を露呈してしまった。
そのことについては、広瀬一郎氏が、犀利な考察とともに述べたので繰り返さないが、彼の触れなかった点――すなわち、メディアの使った言葉の「意味のなさ」について書いておきたい。
「絶対に負けられない闘い」などという空疎な言葉については、もはや批判する気にもなれないし、その言葉が単なる視聴率獲得用の煽り文句であることくらい、誰もが心得ていると思えるので、取りあげる必要はないだろう。
もちろん「絶対に負けられない」などと言いながら、負けてしまった結果、その言葉を使ったメディアが、次に何の行動も起こさなかった――その言葉が裏切られたことに対する、その言葉に見合った責任の追及を行わなかったことは、やはり咎められるべきことで、「絶対に負けられない」などという言葉を、言葉の使用に敏感であるべきメディアは、軽々しく使うべきでない、ということは言っておきたい。
が、それ以上に問題だったのは、対コロンビア戦の試合中にアナウンサーが何度か口にした「勝利に対する強い思い」という言葉である。「思い」などという、どうとでも取れる曖昧なボンヤリした感情を示す言葉は、「強い」などという形容詞を付けたところで、全然「強く」ならない。これほど「強さ」のない弱々しい不明瞭な言葉もあるまい。
どうして「勝利に対する強い意志」とか「餓え」「渇望」「執念」「執着」……という言葉を使わないのか!? いや、使えないのか!?
「思い」などという言葉を使っている限り、日本人はそれほど勝利を望んでいないのだ、ということを言葉で証明しているようなものだ(成田に帰国した日本代表チームを、温かく迎えた人々の様子を見ると、なるほどこの国の社会は、W杯での勝利にそれほど執着していなかったのだなあ……とも思えるが……)。
もともと「思い(おもひ)」という言葉は、「愛情」「愛(いと)おしみ」「思慕」「恋情」「憂い」「心配」「気がかり」「物思い」を表す言葉で、「思う(おもふ)」は「愛する」「愛おしむ」「悩む」といった気持ちを表す言葉だった(だから成田空港に迎えに行ったのは「強い思い」を胸に秘めた女性ばっかりだったのか……)。
それが、近年では、いろいろな物事に対して感情を動かす、その心の動き全般すべてに用いられるようになり、最近では、日本語として使われる語彙が貧困になった影響も受けてか、あらゆる「感情」表現のすべてを、「思い」の一言で表してしまうようにもなってしまった。
ニュース番組でもバラエティ番組でも、テレビやラジオでは、今や「思い」の氾濫で、新聞や雑誌にまで溢れかえるようになった。いや、一国の総理大臣までが次のような演説をしたことがある。
「国民のみなさまに現在の私の『思い』を正直にお伝えを申し上げたく、まさに調査の限界を痛感する『思い』でございます。今回の件に関して、そのような私腹を自分が肥やしたという『思い』は一切ないと。不正な利得を得たという『思い』も一切ないものでございますので、この連立政権の歩みを止める訳にはいかん、その『思い』のもとで、苦しくても、身を、職を、今投げ出さずに続けさせて頂きたい。その『思い』を決意として持っているところでございます。私としては、今、この、政治の遅滞を許すことはならないという『思い』のもとで、知らないはずはないだろうという『思い』があると『思い』ます。事実は事実ですから事実を正直に申し上げ、わかっていることはすべて、自分の『思い』として申し上げているつもりです。説明責任というもの、私としては、いくらでも正直にお話し申しあげているつもりでありますが、なかなか、わかったと言っていただけないのではないかと、そのことは大変つらい『思い』がございます……」
今も憶えておられる方が多いと思うが、御母堂から多額の政治資金を受け取っていたことに対する息子の――いや、一国の総理大臣だった人物の記者会見での弁明の一節なのだが、これほどの語彙の貧困もあるまい。漢字を読めない首相が嗤われたこともあったが、こちらの首相の語彙の貧困がそれほど話題にならなかったほうが大問題といえるかもしれない。なぜなら、日本社会に深く浸透している表現力の退化に、多くの人が気づいていないのだから……。
上の演説は下のようにいい改めることが可能だろう。
「国民のみなさまに現在の私の『事情』を正直にお伝えを申し上げたく、まさに調査の限界を痛感『しております』。今回の件に関して、そのような私腹を自分が肥やしたという『自覚』は一切ないと。不正な利得を得たという『うしろめたさ』も一切ないものでございますので、この連立政権の歩みを止める訳にはいかん、その『大義』のもとで、苦しくても、身を、職を、今投げ出さずに続けさせて頂きたい。その『覚悟』を決意として持っているところでございます。私としては、今、この、政治の遅滞を許すことはならないという『道義』のもとで、知らないはずはないだろうという『疑念』があると『も想像し』ます。事実は事実ですから事実を正直に申し上げ、わかっていることはすべて、自分の『言葉』として申し上げているつもりです。説明責任というもの、私としては、いくらでも正直にお話し申しあげているつもりでありますが、なかなか、わかったと言っていただけないのではないかと、そのことは大変つらい『無力感』がございます……」
一国の首相が、この程度の表現を「手抜き」して、誰もがボンヤリとわかったように感じられる「思い」という曖昧な言葉を連発し、言葉の使用に敏感であるべきメディアがそrを咎めないどころか、自らその曖昧な言葉を使用し、連発しているのが、現在の日本社会の現状と言えそうだ。
日本代表の不様な闘いぷりに対する批判も、きちんと行わないといけないが、メディアが日本代表を勝利へと導きたいと思うのなら、まず「隗より初めよ」。おのれの言葉遣いから糺すべきだろう。
(註:この文章は、何年も前から、メディアが「思い」という言葉の連発に走っていることを批判している、ジャズ・ピアニストの山下洋輔、音楽家の天田透、両氏の主張を参考にさせていただきました。)
(玉木正之)
写真:フォートキシモト