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W杯ブラジル大会記念特別企画:ワールドカップのアルケオロジー No.18■旧モデルの最終回はFIFA誕生の国&W杯の生みの親のリメの母国フランスで開催

 前回のアメリカ大会を経て、ワールドカップのビジネスモデルはグローバリズムへの志向を急激に開始する。それを簡単に言えば、アメリカ的な「契約」中心の「市場化」への道を歩みはじめたのだ。
 
 アメリカ大会が終了してから3ヶ月後、筆者は「2002年Wカップ日本招致委員会」への出向を命じられた。停滞していた招致活動だったが、強力なライバルもおらず、「あのアベランジェ会長が支持してくれているんだから、来るんじゃない?」的な暢気な雰囲気が蔓延していた(この「ノー天気」さは、今回のワールドカップでの日本代表のそれに通じる。対ギリシア戦で、相手が一人退場になると、「いつか入るんじゃない?」的なムードが漂って、敢えて挑戦しなくなるのだ。甘い!の一言に尽きる)。
 
 それが一変する事態が起き、招致委員会に梃入れし、「戦う組織」にする必要があったのだ。いったい何が起きたのか?
 
 第一に、93年末に起きた「ドーハの悲劇」。最後のイラク戦でのロスタイムでの同点劇。あれで韓国が「2002年大会の開催地候補」として名乗りを挙げてきた。出場を諦めていた韓国チームだったが、日本の失点で命拾いをし、予定されていなかった大統領が突然テレビに現れて「良くやった。民族の誇りだ」とやった。韓国国民の盛り上がりもハンパではなかった。ここでサッカー協会の鄭会長が、「今だ」と思ったはずだ。韓国にWカップを招致できれば大統領への道も見える、と。
 
 鄭会長の父は現代財閥の創始者で、もともとは北の出身。北朝鮮が飢饉に陥ると、数百頭の牛を連れて板門店から国境を越え、故国に差し入れしたことは有名だ。噂によれば、「南北の統一は鄭家の悲願であり、そのために一族から大統領を出したい」という「鄭家の野望」があるらしい。これにワールドカップ開催が使えると踏んだのかもしれない。
 
(ちなみに、あのイラク戦のTV番組では、ゲスト解説者が田島氏と岡田氏。二人は古河の同期入社だ。田島氏はその後協会の専務理事を経て、現在は副会長。司会進行役の似鳥嬢がノー天気にも、「負けちゃったじゃないですか、岡田さん」と振った。その明るい声で、彼女はこの時、全サッカーファンを敵に回したのだ。W杯はノー天気に語るものではない! ノー天気に「僕たちのサッカー」をしに行くところでもない。国の威信もかけて戦う、露骨なナショナリズムのぶつかり合う場なのだ。これは当為の問題ではなく事実なのだ。ノー天気に振られた岡田氏は、机に突っ伏し、声が出なかった。まさか、4年後にこの雪辱をあの岡田が果たそうとはねえ。ドラマである。閑話休題)。
 
 94年の米国Wカップの直前にFIFAの副会長のアジア枠の選挙が行なわれた。そして、日本から村田招致委員会事務局長が立候補して、あろうことか、鄭会長がその座を得たのだ。これが第2の出来事で、事は風雲急を告げる。韓国は現実的な脅威となったのだ。そんな中の招致委員会の改組である。委員長は岡野俊一郎氏に、そして事務局長は小倉専務理事が就任し、そして、筆者が11月に電通から同事務局への出向を命じられた。
 
 最初のミッションは、「閣議了解」の取得に向けた作業と、立候補の計画書作成だった。立候補を表明した国には「開催規準要求書」(List of Requirements)が送られる。13項目の要求規準にどう応えるか,具体的に示す必要がある。中には「参加国と自国通貨との両替を保証せよ」などがある。これはサッカー協会の力の及ぶ範疇ではない。財務省の保証が不可欠だ。こういった規準をクリアするためには、個々の役所ではなく、まずは閣議で了承してもらう必要がある。国家的なプロジェクトなのだ。
 
 立候補時の政権は細川政権だったので、その時点の与党の実力者である小沢一郎氏に「招致議員連盟」の組織などを依頼していた。それが、今は亡き社会党党首の村山富市氏による「歴史的な裏切り」によって日本新党は下野し、自民党が復権していた。招致活動のボタンを掛け直す必要があったのだ。94年の年末に宮沢元首相が議連の会長を受諾してくれ、明けて95年の3月の正式立候補締め切りに間に合う3月の初旬、めでたく閣議了承が取れた。
 
 もう一つの「開催準備計画書」は、提出の仕様が未定だった。FIFA当局からは「これまでと変らないから、フランス大会のものを参考に準備を進めておくように」との指示があった。それが94年の年末に送られてきた仕様書を見てビックリした。全く話が違うではないか! それまでの指導書的なものとは違って、完全にビジネス契約書のフォーマットになっているのだ。いくつかの疑問点があったので。FIFAに問い合わせたら、「詳しくはここに尋ねるように」と指示された先を見て、全てが分かった。そこはイーグルというコンサルタントの会社であり、設立者はアメリカ大会の組織委員会の財務担当副会長だったのである。背景を簡単に説明しよう。
 
 1994年のアメリカ大会では、FIFAは米国の組織委員会に徹底的に「してやられた!」のだった。はっきり言って「ビジネス・スキルのレベル」が違い、全くと言っていいほどに太刀打ちができなかったのだ。そこで、その相手を雇い、「二度とやられないように、アドバイスを頼んだ」のだ(泥棒に戸締まりの仕方を聞くのが有効なように…)。
 

 そのFIFAのビジネス・スキルの程度を推し量るエピソードがある。アメリカ国内で事業をし、利益を出したのだから当然事業税がかかる。そこで米国の徴税を行なうIRS(The Internal Revenue Service=アメリカ合衆国内国歳入庁)はFIFAに申告を求めた。驚くことに、これまでワールドカップでは事業税を一度も払ったことがなかった。そこでFIFAは、これを拒否した(この一事で、FIFAがプレモダンな存在だったことが分かるだろう)。余りにも堂々とした拒否だったので、IRSは「公益団体」としての特例免罪措置があるのだろうと思ったが、一応裏をとるべく調べた。すると、あろうことか、スイスでも公益法人どころか法人登録さえなされていなかったという事実が分かった(!)。そこでスイス政府を通じて事業税の申告を促したのだ。
 
 ここで、FIFAの無防備を誹るのは簡単だが、筆者は、むしろ「契約」社会の埒外にいたFIFAという存在に感動さえした。むしろ、それは「公共性」を担った組織のあるベキ姿ではないか、と。
 
 もっとも、アベランジェ政権誕生以降、特に80年代以降は、利益を追求する事業体に変ってしまっていたから、確かにその時点で法人登録をすべきであった。そして、1904年にパリで誕生したFIFAという組織は、90年を経てついに正式にビジネス社会に参入するべく「法人登記」をスイス国内法に照らして行ない、モダンな組織になりグローバルなビジネスに対応する体裁を整えたのだ(ただし、「公益法人」としてではあったが)。
 
 その後、招致活動に関わり、筆者は勝利を確信して運命の投票日を迎えた、と言いたいところだが、実はちょっと違っていたことを告白しよう。「勝つ自信」はあった。どころか、100%韓国に勝てると思っていた(根拠は長くなるので割愛する)。しかし、心の中のどこかで「このまま勝っていいのか?」という思いがあった。あのまま勝つと、日本に長く続いていた「バブル崩壊の後遺症」から抜ける道も開けていただろう。が、我々日本人はそれに値するほどの苦労と努力をしただろうか? このまま、また日本の一人勝ちになっていいのか?それは余りにも「ムシがいい」のではないか、と。
 
 そして負けた。「共同開催」という結果は、招致活動の敗北である。そのことことは否定しようがない。「結果をどのように生産的なものに仕上げるか」に関与する資格は筆者にはない、と感じた。サッカー協会も電通も同様に考えたようだ。出向が解けて帰社した筆者を待ち構えていたのは「配置換え」だった。こうして筆者のサッカー担当の業務は終焉した。周りの気遣いとは別に、サッカー担当を外れること自体には何の抵抗も感じていなかった(誤解のないように付け加えておくが、「日韓の共同開催」に筆者は反対ではない。むしろ歴史的には大いに意味があると肯定的に捉えている。が、決定の過程には未だに納得していない)。
 
 日韓共同開催に決してから一ヶ月後に、FIFAがビジネス志向、特に「市場志向」を強めている象徴的な出来事が起きた。「ワールドカップのTV放送権の入札」である。従来、ワールドカップや五輪などのTV放送権の配分は、公共放送連合(ITC=International Television Broadcasting Consocium)が仕切っていた。TV放送が啓蒙のためであり、報道だと考えられていた名残だった。放送に関しての全てを任せていたのだ。ITCはFIFAのエージェントとして放送権の金額と各国の負担分を決めていた。つまりが、それは発注側と受注側の「双方代理」と言って、「市場社会」では許されないことだった(つまり「談合組織」だった)。
 
 それが84年のロス五輪で事態が変った。五輪の放送は「報道」ではなく「エンタメ」になったのだ。それなら相当の放送権料を払わなければならない。それでもFIFAは入札に向かわなかった。それは良心や確信ではなく、単に不必要だったからだ。五輪と違って、サッカーにはプロがあり、W杯以外にも収入はあった。むしろW杯はサッカービジネスのショーケースとして機能していたのだ。それなら放送権利料よりも露出が優先される道理だろう。
 
 ちなみに入札前のフランス大会のTV放送権料は全世界で200億円。欧州が45%、南米が45%、アジアが10%という負担の割合も決まっていた。そしてアジアの90%をNHKが負担し、残りの10%が韓国のMBCだった(アジアでは日本と韓国以外、放送権料を負担していなかったのだ!)。立派な談合だ。が、ここから放送権を支払わずに放送している国の多さが分かるはずだ。アフリカで放送権料を払っていた国はないし、中国は2006年までビタ一文も払っていない(2010年の南ア大会で、初めて支払った額は100億円! さすが中国ではないか)。つまり、「払えるところが負担して、世界の人達に見せてあげよう」というロジックが優先していた実に牧歌的な時代だったのだ。これを公共的な役割と言う。市場の反対側の論理がまかり通っていたのだ。
 
 そこに市場が持ち込まれたのは、実は日韓の招致争いが関わっている。これも説明しよう。
 

 前述したように、米国開催と日本開催はアベランジェ会長の戦略であった。これに対し、欧州側はいつか権力を奪回すべく時を待っていた。米国大会後、アベランジェ会長は心臓を患い入院した。寄る年波もあり、入院先から「勇退」を示唆したのだ。世界のサッカービジネスは「ポスト・アベランジェ」に動いた。ところが、アベランジェ会長は手術後の経過も良く、体調が回復すると、心変わりして「勇退」を取り消した。それまでは、「日本開催」がアベランジェの花道だと考えられていたが、そうなると話が変る。欧州は「アンチ・アベランジェ」の旗幟を明らかにし、韓国側に着いた。そして95年の夏、UEFAはFIFAにVisionという名の公開質問状を出し、その中で2つの問題を指摘した。一つは会長の任期制。他の一つが「マーケティング」だった。
 
 実は元ISLの社長クラウス・ヘンペルはホルストの後を継いだアディダスのマルムス会長との折り合いが悪く、ISLを去っていた。ところが退職金(=手切れ金)を資本にしてISLの競合となる会社を同じスイスのルツエルン市に設立した。ISL/adidasにとっては「いい面の皮」である。そして、それがUEFAにチャンピオンズリーグを提案して実現し、現在もそれを仕切っているTEAMという会社なのだ。ここでFIFA-ISLとUEFA-TEAMという図式が明確になった。
 
 その後、TEAMは欧州選手権のマーケティングにも成功し、各国チームの出場ギャラがW杯よりも高くなっていた。この成功を背景にUEFAはFIFAの怠慢を責めた。これに対応したアベランジェ政権が「W杯の放送権の入札」を決めた。「最大の価値を持つワールドカップのマーケティング努力が不十分だ」と詰問したのだ。そして、事前の談合によって「絶対いける」と踏んでいた額を提示したITCが入札で負けた。相手はプレミアリーグの独占放送権の取得で気を良くしていたマードックのBskyBだと思っていたところが、突然キルヒという会社が2大会で2300億円というとんでもない金額をオファーしたのだ。
 
 世界がこの結果に仰天し、「キルヒ、who?」と大騒ぎになった。これまでサッカーの世界で聞いたことがない名前だった。筆者も慌てて調べたら、ドイツのテレビ局で、戦後アメリカの番組をテレビ局に販売していた会社で、業績が『伸びたので自前のテレビ局を作った、ことが分かった(日本で言えば、東北新社がテレビ局を作ったようなものだ)。
 
 前述したように、80年代の末から、欧州では民放テレビ局が相次いで誕生しつつあった。その一つがキルヒだった。ところがドイツ国内のライバルのベルテルスマンに水をあけられていた。そして起死回生の賭に打って出た。それがW杯の放送権の取得だったのだ。結果的にはこれが裏目に出て、キルヒは2002年の大会を前に経営破綻を起こした(1996年時点のこの決定で、筆者は2006年の開催はドイツに決まったと解した。そして事実そうなった)。
 
 その後、ISLはキルヒに着き、同じ頃に経営破綻を起こして消滅した。電通の株の持ち分は大分減っていたので、ほとんど損害は無かったはずだ(ISLがいたずらな拡大主義に走るのに対し、それを諌めた電通がISL側からの株買い戻しに応じたのだ。事実上のMBOだった。ISLはスポーツ・バブルに踊り破綻したので、それに乗らなかった電通は賢明だった)。
 
 フランス大会に話を戻す。我が友岡田武史は、加茂監督の外地における更迭で突然の監督就任となった。それからはフランス大会のアジア予選突破は、筆者にとって他人事ではなくなった(岡田氏にしたらいい迷惑だろうが、個人的な思い入れだから仕方がない)。
 
 10月26日に国立で引き分けた時には、「これで終わりだな」と感じ、帰宅する気にもならず一杯ひっかけようと六本木に出た。タクシーを降りてから、一応ねぎらいの言葉を携帯電話の留守電に残しておこうと電話をしたら、何と御多忙中のはずの本人が出た。そして、「すみませんでした。勝てませんでした」と言ったのだ。「そんなことを言うなよ。君は良くやったよ」と言った途端、不覚にも路上で涙を流してしまった(岡田は泣かせ上手である)。
 
 翌週の最終戦はアウェーの韓国戦だから、誰が勝利を予想したろうか。筆者は中学のサッカー部のOB戦に出て、試合を見ないようにした。が、後輩の中に小型TVを持ち込んだ奴がいた。そして、名波の先取点で盛り上がり、2−0の勝利で更に盛り上がっていた。そしてジョホールバルである。筆者は対イランで勝てっこないと踏んだが、友人が一生の頼みだから一緒に行ってくれ、というので行きましたよ(この友人は、渡航直前にパスポートの残り期間が一ヶ月を切っておりマレーシアには入国できないことを知り、断念した)。
 
 岡田ジャパンの末期を看取る覚悟で行ったのに、勝っちゃったのだ(スマン、岡田)。ジョホールバルからシンガポールに帰る道は、バスと徒歩の日本人だらけ。深夜に数千人の日本人が青いユニフォームのレプリカを着て、日の丸の旗を持って意気揚々と引き上げていくあの道は、かつて「シンガポールの虎」山下奉文が自転車部隊でシンガポールに攻め入った道だったのである。奇観と言わずして何と言おうか。ともかく日本の初出場が決まったその場に居合わせた幸せを神(と不幸な友人)に感謝したのだった。
 
 フランス大会の決勝戦は、初優勝を狙う地元フランス対常連にして最強国のブラジル。フランスはFIFA発祥の地(1904年にパリで設立された)であり、ワールドカップの生みの親ジュール・リメの母国だ(リメの自伝的映画が今年日本でも公開される。フランスでは好評らしい)。一方のブラジルは、全ての大会に出場している唯一の国であり、ジュール・リメ杯の永久保持国にして最多優勝を誇る、まさにサッカー大国だ。両国のプライドをかけた歴史に残る名勝負が期待された。ただし、ヨハン・クライフは決勝の前に以下のようなコメントをしている。

「ブラジルは強いし、勝つかもしれない。が、私はザガロ監督のブラジル代表の優勝を望まない。なぜなら、世界があのサッカーを真似るからだ」と。美しいサッカーを追求し、74年の西ドイツ大会では決勝で地元西ドイツの前に涙を飲んだが、優勝チームよりも大きな衝撃と影響を世界のサッカー界に残したクライフらしいコメントだった。
 
 クライフの予言が的中したわけではないが、決勝はフランスの完勝だった。ジダンがコーナーから完璧なヘディングを2発も決め、プティが利き足の左でトドメを指した。それまでジダンのヘディングシュートなど見たことがなかったので、世界が仰天しただろう(誰よりも仰天したのは、ブラジルの守備陣だったろう。ジダンを全くのフリーにして、完璧なヘディングを2発も決められたのだから)。
 

 大会までフランスのメディアはエメ・ジャケ監督を酷評していた。まるで2010年の南ア大会直前の岡田ジャパンに対するものと同じだ(岡田ジャパンは直前の半年だったが、エメはほぼ4年間も批判に曝された)。もっとも、結果に対するメディアの対応は180°違った。批判の急先鋒だったレキップ誌は、フランスが優勝した翌日に公式に謝罪を表明したのだ。間違いは誰にもある。だが、間違えた時に反省しないと同じ過ちを繰り返す。これは幼少時に誰もが教わる簡単な原理だ。つまり子供でも分かる理屈だが、実際はこれがなかなか難しい。
 
 日本のメディアは、岡田ジャパンの評価を180°変えたが、変えたという事実を認めない。だから反省しない。「なぜ、判断を謝ったのか?」を分析しない。自己客観化、あるいは自己相対化が冷静な判断の原点だ。それが自分達に欠如していることを、日本のメディアは大衆に曝したのだ。自己客観化ができないから、自分達の醜態に気づいていない。
 
 今回のブラジル大会に望むザック・ジャパンへのメディアの対応は、相手がイタリア人監督であることにプラスして、前回の自らの過ちが心に残っていたのか、これまではどのメディアも痛烈な批判が鳴りを潜めている。気恥ずかしいのだろうか。これを学習効果と見るか? 違う。むしろ誤りを恐れる怯懦(きょうだ)だと筆者は考えている。繰り返すが、人間である以上、過ちは犯す。問題はその時の対処なのだ。過ちを恐れて無難に流れることを学習効果とは言わないのだ。

 フランス大会は、ワールドカップらしい大会だった。批判を恐れずに言えば、次の2002年の大会以降、「らしさ」は失われてしまった。日本も韓国も「サッカー文化」の周辺地域だから、2002年の日韓共同開催が「らしさ」に欠けるのは仕方がない。が、2006年のドイツ大会でも「らしさ」は復活しなかった。そして、2010年は南ア開催だったので、最初から「らしさ」の復活は望み得なかった。
 
「ワールドカップらしさ」を言葉で説明するのは難しい。逆に、「らしくなさ」を象徴する例を2つあげよう。
 
 筆者は2004年に新装なったオールド・トラッフォードでマンUのゲームを見た。フルコースのランチ付きで5万5千円(!)のボックス席。試合は0−1で、ホームのマンUがリードされていた。終了5分前に観客の一部が帰り始めたのだ!「ええっ!」何が起きたのか、隣の男に聞いたら、「帰りの道が込むので、危険を避けるために子連れの客は早めに帰るんだよ」だってさ!
 
 聞いて再び「ええっ!」ではないか! 繰り返すが、「かのオールド・トラッフォードで、ホームのマンUが0−1でリードされている」という情況下での想像もしない出来事ではないか。サッカーのスタジアムは危険に決まっているだろう。子供にもそれを叩き込んでおかないのかい!
 
 もう一つはその2年後のドイツのワールドカップ。行かれた方は体験しているだろうが、どの会場も施設が新しく、特に音響設備は充実しており、ゲーム開始前から大音響でノリのいい音楽を流していた。実はフーリガン問題が深刻化していた頃は、会場内での音は厳しく制限されていたので、筆者には違和感があった。だが,何試合か観ているうちに「ゲームの前からノリのいい音楽で煽る行為」の意図が分かった。
 
 かつて、サッカースタジアムでの「興奮」は必要悪であり、コントロールができないものと認識されていた。が、今や「興奮」は人工的に演出として作り出され、コントロールされるようになっているのだ。抑制しようとすると、臨界点で爆発するリスクがある。むしろ演出として作り上げた「興奮」は、コントロールされ、爆発を免れるのだ。これが「ディズニーランド化現象」と呼ばれるものの一片だ。
 
 フーリガン問題に悩まされていた英国では、ついに「施設」と「運営方法」に対して一定の規準を満たさないと興行を許さないと政府がリーグに勧告を出した。そして、イングランドのスタジアムから立ち見席が無くなり、座席は全て1席ずつ独立したものになった。客席への誘導路も入場ゲートも整理された。さらに、ゲーム当日のセキュリティーも確保された。
 
 観客には嬉しい改善だが、これら全てにコストがかかる。それまで何とか赤字を出さないギリギリで経営していたクラブは、一挙に財政が悪化した。そしてリーグが、財政の強弱によって二分されたのだ。それは、選手の待遇にもろに反映され、競技力の格差を生み、リーグ全体のゲームという商品の劣化が起きた。これに対して財務が強いチームが反発し、団結して協会に提訴しできたのがプレミアリーグだ。1992年のことだった(Jリーグ誕生の1年前だ)。
 
 「らしさ」とは、牧歌的でアナログで、自然で人口の匂いがしない、人間の歓喜や悲哀がむき出しになり、時には危険もあるが,お互いが言葉は違えど、どこかで同志的な感覚を持った人達が、世界中から4年に一度集まる集会から生じる雰囲気だった(「同志」的なものには、「反権力」という共通項もあったが)。今やそれらはノスタルジーでしかないのだろう。
 
「管理」されたスタジアムは、綺麗になり、安全になった。ワールドカップは確かに世界一のエンタテイメントになった。それはそれで寿(ことほ)ぐべきことなのだろう。が、失われたものがあるのも確かなのだ。それらは、失われたら二度と戻らないことなのだろう、と思う。筆者らはただ、それを懐かしく思うだけであり、文句を言う筋合いはない。
 
 2006年のWカップでは現地で「喪失された、らしさ」が二度と復活しないことに気づかされた。そのせいか、2010年も2014年もWカップの現地に赴く気力がなくなった。もっともこれは筆者の単なる老いのせいかもしれない(きっとそうだろう)。
 
 以上で「Wカップのアルケオロジー」の連載は終了する。アルカイックな「らしさ」をお分かり頂けたら幸いだ。21世紀のワールドカップをアルケオロジー(考古学)として語るには、まだ早いと思う。
 
(広瀬一郎)
ジョホールバルの歓喜。2007年11月16日にマレーシアのジョホールバルで開かれた日本対イランのスコアボード
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