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日本サッカーW杯惨敗……から考える日本サッカーの未来戦術

「ナゼ、できない?」
 サッカーの日本代表へのそんな疑問に対する回答は、恐らくサッカーではない(本当のことを言うと、そこまで含めてサッカーなのだが……)。
 
 それは、言葉にすると陳腐になるが、「国民性」の問題だろう。
「厳しい人格的能力は、厳しい環境で育って身に付く」――曖昧さを身上にした緩い社会(正確には共同体)で育つ子に、厳しさを求めるのはムリだ。
 
 それにしても、大久保は分かっているなあ。今日(25日コロンビア戦)のゲーム後のインタビューで、ついに「勇気の無さ」を指摘した。「僕たちには、勇気がなかった」と。その通り。
 
 単純化するのは危険だが、「リスク・マネジメント」の問題だと思う。サッカーは勇気を持ってリスクを犯さないと勝てないゲームだ。攻撃以外にもリスクを感じる能力は必要だ。
 
 例えば、第2戦の対ギリシア戦。相手が退場して、「何となく有利になった」感が漂った。この時に、誰かが「ヤバい!」と気づくこと。途中で「おかしいな」と気づいたらどう対処するか?「リスク・マネジメント」の第一が、「気づき」であることは論をまたない。
 
「3.11」で露(あらわ)になったように、我が国はリスクを考えることが苦手だ。東電の「ノー天気」さは、我が国では珍しくない。
 
 安倍政権は、レジリエンス人材の育成」を標榜している。我が国は自然災害が多く、これを防ぐことは困難だから、リスク・マネジメントの中核は、発生後の「修復力」、つまりレジリエンス能力に置くことにしたわけだ。
 

 でもね。サッカーではレジリエンスではなく、リスクを感じて、発生の確率を低める能力が求められる(何しろ90分で決着が着くので、「発生後」では遅い)。
 
「リスクを感じて対応する能力」をつけることは、日本代表監督に求めるべきなのだろうか? ここが混乱しているように見えてならない。それをジーコもザックも、本大会で思い知らされた。どちらの監督も、リスクを感じる能力は、「フツーなら(選手が当然)持ってるだろ……」なのだ。何しろそれナシだと生きていけない社会の出身者だから。
 
 正確に言うなら、日本は「リスク感覚」が無くても生きていける、数少ない(恐らくは唯一の)例外的な国なのだ(はっきり言って「フツーではない国」だが、それは内部で育った人間には妙に気持ちがいい)。
 
 となると、良い監督とともに必要なのは、心理学者かセラピストだと言う事になる(自主的に考える「クリティカル・シンキング」の自己啓発セミナーも有効かもしれない)。が、ここは実は少年期の前頭葉連合野の問題だから、代表になってからでは本質的な解決は不可能だ(脳生理学的な問題なのだ)。
 
 このように述べると、この問題の解決は極めて可能性が低い、という事実が分かる。ここが問題解決の出発点だね。  
  
 ここで、視点を変えてみよう。
「厳しさ」という、無いモノねだりは辞めたらどうか、と。
 
 我々には確かに「厳しさ」を欠いているが、「律儀さ」「正直さ」という美徳がある(ま、「人がいい」と言ってもいいが)。
 
 そこで、世界で唯一、「厳しくないサッカー」をするので、良しとしませんか?
 ただし、勝負である以上、出来る限りの厳しさは求めるべきだし、「ビビリ」は恥ずかしいのでダメだ。
 
 もう一つの方法として、「マニュアル化」も検討すべきではないか?マニュアル通りにやらせたら、日本の右に出るものはいない。事前に想定できるケースをマニュアルに落とし、ゲームの最中にベンチからブロックサインを出すのだ(ブロックサインは野球で慣れている)。
 
 日本の選手達は、自分で考えるのは苦手だが、言われた通りにするのは得意なはず。いざとなったらベンチを見よ。全て考えてくれているので、我々はプレーに専念できる、と安心できるだろう(本当は、これはPlayではないのだけれど……)。
 
 そんなのはサッカーではない! とおっしゃる向きもあろう。然り!
 でも、本来のサッカーに向いていない国民なんだから、割り切ってもらうしかない。
 如何かな? これ以上の案はあるだろうか?
 是非とも、あって欲しい、というのも本音なんだけれど……。
 
(広瀬一郎)
Seleção Japonesa de Futebol treina no Estádio Nacional Mané Garrincha
PHOTO by Fabio Rodrigues Pozzebom/ABr [CC-BY-3.0-br (http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/br/deed.en)], via Wikimedia Commons