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W杯ブラジル大会記念特別企画:ワールドカップのアルケオロジー No.17■「グローバリズム」と「IT化」のUSA’94

 ワールドカップは、遂に欧州と南米以外の地域で開催されることになった。
 
 東西冷戦構造が1989年に終了し、世界はアメリカの単独覇権国家体制に移行したかに見えた。グレン・フクシマは世界の最終形が整ったのだから「歴史の終わり」だと宣言した(それは質の悪い冗談でしかなかったが)。マルクスの「共産党宣言」に倣うなら、90年代以降「一つのグローバリズムという怪物が世界を徘徊している」のだ。
 
 W杯のアメリカ開催が決まったのは1988年だが、その時点で東西冷戦の終了を予知していたわけではあるまい。が、FIFAのアベランジェ政権の戦略は、世界の動きと見事な重なりを見せている。この事実は誰も否定できないだろう。94年のW杯と96年の五輪の両方が、アメリカで開催されたことを偶然の一致と言うには余りにもできすぎている。「見えざる巧みの手」による調整があったとしか思えないのだ。この「見えざる巧みの手」がグローバリズムの「正体」なのではないだろうか。
 
 では、「グローバリズム」の「実体」とは何か? それは「普遍主義」であり、現代では経済の「市場化」を中心軸にした「アメリカ化」のことだ。かつて佐伯啓思氏は第1回のサントリー文芸賞を獲得した「アメリカニズムの終焉」の中で、アメリカニズムについて、独特の文学的表現で精緻に分析し、その本質である「平準化による普遍化」をえぐり出している(マクドナルドのマニュアルがその代表例)。唯一の誤りは、「終焉」ではなく、来るべき21世紀へのスタートだったという点だった。
 
 現代のアメリカニズムは、究極的には資本主義を前提にした市場本位主義のことだ。そこには世界市民はいるが、ローカルな文化という発想がない。世界中から人種や宗教の雑多な人達が集まって作った人工国家がアメリカ合衆国なのだから、当然と言えば当然だ。そこに民主主義という綺麗な包装紙によるラッピングがなされる。民主主義は、「生まれ」ではなく「能力」を重視する思想だから、アメリカという国家との相性はすこぶる良い。アメリカ人は、フランス革命発の啓蒙主義を取り込み、近代(モダン)の最先端を行く国家を作り上げたという自負がある(心理学的には、大陸を食い詰めたモノ達のコンプレックスの裏返しだとも言える)。
 
 そして、確かに「経済優先主義」の国策が功を奏した。20世紀は「戦争の時代」であり「映像の時代」「大衆の時代」「スポーツの時代」「石油の時代」だった。それらから、アメリカの時代だったと一言で言い切ることができるだろう。
 

 1929年の大恐慌を挟んで、実は世界の覇権は、既に英国から米国に実質的に移行している。英国も(体力の限界を感じ)、それを望んだ風もあるし、米国もそれを受ける使命感のようなものがあった。そして、それが2度の世界大戦で決定的になった(何しろ、欧州は2回、戦場となり、米国は日本の真珠湾攻撃を唯一の例外とし、国内が戦場になっていなかった)。
 
 戦後の経済優先主義の中で、アメリカは世界の工場となり、世界がアメリカ人の豊かな生活にあこがれた。それは映画やテレビという映像で、実に明快に示された具体的な「豊かさ」だった。
 
 それが早くも70年代に綻び始める。原因はアラブと日本の2つだった。もともと資本主義の原理は「差異を利益にする」ことにあった。アダム・スミスが述べたように、産業革命を経た英国が良質で安価な綿織物をポルトガルに運んで売る。その代金でポルトガルの安価で良質なワインを買い、英国に運んで売る。ここで生じる利益の源は何か? それは「距離」にある。「距離」という差異が、「リスク」を生み、そのリスク(=賭け)に資本を投じるから、その賭けに勝てば儲かるのだ、と。
 
 ところがこの原理が働くためには、「移動のコスト」という要素が無視できるほど小さいという前提があった。帆船であればエネルギーは無料の「風」だった。20世紀になって、石油というエネルギーが発見され、移動に利用されるようになった。かつて、石油は水よりも安かったのだ(第一次大戦で「艦船の燃料を石炭から石油に変えたことが、ドイツに勝利した第一の要因だ」と海軍大臣=後に首相となった若きチャーチルは誇らしげに語っている)。
 
 これに対して、第二次世界大戦後に独立した産油諸国が不満を唱える(当然だ)。そしてOPEC(Organization of the Petroleum Exporting Countries=石油輸出機構)を形成し、石油の価格のつり上げに走る。「オイル・ショック」はこうして起きた。
 
 石油の売買代金はドル建て決済だ。ドルがあれば石油が買える。無ければ買えない。世界のドル需要が突然膨張した。アメリカはひたすらドルを刷り出した。産油諸国は受け取ったドルで自動車や冷蔵庫などのアメリカ製品(や武器)を購入したりするから、ドルがアメリカに還元され、ドルの価値は落ちない。このドルの流通・還元が戦後暫く機能していた。が、ここに日本が登場する。東京五輪の開催で、「安かろう、悪かろう」という日本製品に関する負のブランドイメージが払拭された。あとは「安くて、小さくて、良質で、壊れない」日本製品が世界を席巻するようになるまで、それほどの時間がかからなかった。
 

 ここで先ほどの「ドルの流通・還元」システムが瓦解する。そして、ニクソン・ショックが起きた。ドルが(金との)兌換紙幣であることを停止したのだ。つまり、戻って来るはずのドルが日本に行ってしまい、アメリカ国内に戻らなくなってしまった(日本はひたすらアメリカ国債を購入し、蓄積した。ドルが兌換紙幣だったら、ある日「これを金に換えて欲しい」と言った瞬間に、それだけの金の備蓄が無いことが明らかになり、ドルは暴落し、世界の経済は大混乱に陥るだろう。手持ちの米国国債が暴落した日本は最も大きなダメージを受けるはずだ。我々が生きている世界は、お互いの弱さが露見しないようにもたれあっている実に脆弱なシステムの上に成り立っているのだ)。
 
 オイル・ショックとニクソン・ショックで、近代と20世紀は事実上の終焉に向かって行く。21世紀になって起きた、「リーマンショック」などはここに淵源を求めることができる(21世紀の課題とは、モダンの崩壊に対するポスト・モダンの構築に他ならないのだが、モダンの基本単位となっている「国民国家」に変るシステムを見いだすのは実に困難だ。安倍政権の「集団的自衛権」の議論は、「モダン」を前提にしているので、対症療法にしかならない。だから、賛成にせよ反対にせよ、議論はどこか時代遅れの観が拭えない。今の政治家に哲学やビジョンを求めるのはムリなのだろうか)。
 
 ベルリンの壁の崩壊から東西冷戦構造の消失と、湾岸戦争以降、「ユーゴ内戦」「イラク戦争」などから最近の「シリア内戦」や「ウクライナ紛争」などの一連の民族紛争は、将に「国民国家」という人工的な枠組みでは収まらない問題の表出に他ならない(「国民」というイデオロギーに関しては、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」と、ボブズボームの「ナショナリズムの歴史と現在」を一読することをおススメする。現在我々が「スポーツ」と呼んでいるコトは、国民国家を前提に単なる「遊び」を再編集したものであるから、スポーツ関係者には必読書だと思う)。
 
 話が大分遠回りになったが、以上の文脈の中で、94年に開催されたWカップアメリカ大会を理解すべきだ。
 
 ついでながら、アメリカのサッカー事情についても簡単に言及しておこう。もともと植民地時代には、サッカーの人気は高く、独立の機運が高まった際には、英国政府により「集会禁止条例」の一環として「サッカー禁止」にもなったほどだった。1950年のブラジル大会に初出場したイングランドはアメリカに負けている。当時30代の半ばに達していたスタンレー・マシューズは、既にイングランドのリーグを離れ、アメリカのリーグでプレーしていた(代表チームの調子があがらず、急遽マシューズはブラジルに呼び出されて代表チームに加わったのだが、「時、既に遅し」だった)。
 

 1966年のワールドカップ・イングランド大会がTV 放送され、米国でサッカーブームが起こり、その翌年の1967年に北米サッカーリーグが立ち上がった。金の力でペレやベッケンバウアー(NYコスモス)や、クライフ(ワシントン・ディプロマッツ)を呼び集めたが、アメリカ出身のスター育成を怠り、放漫な経営と人気低迷で、ロス五輪の直後にリーグは消失。FIFAのアベランジェ会長の世界戦略の一環として、アメリカという巨大なマーケットの取り込みは不可欠だったから、プロサッカーリーグの創設を条件に、94年のアメリカでの開催が決まった(実際は大会開催には間に合わず、95年にメジャーリーグサッカーが始まった)。
 
 また、アメリカでは女子が行うスポーツの人気ナンバー1はサッカーだ。「サッカー・ママ」という言葉がある。「ママさんサッカー」のことではない。東部の中流以上の家庭で、「子供にケガをさせたくない」母親は子供にサッカーをさせる。毎週日曜の朝、子供達のサッカー試合の送り迎えをする。基本は赤いボルボのツーリングワゴン。これが「サッカー・ママ」。子供に高い関心を示し、教育方針は父親ではなく母親が決める。そういうお母さんのことだ(どこかに「親ばか」的な意味が含まれている)。
 
 米国大会で特筆すべきことの多くは、サッカーという競技以外のコトだった。第一に観客動員数。巨大なアメフトや野球場を利用したので、確かに収容人数は多かった。が、見易かったか? と聞かれれば「?」。何しろ、野球場だから。また、それ以上にアメリカ人がサッカーを見慣れていない。野球のノリで、ゲーム最中にコーラを買いに行ったりする。巨大な体が前を通るたびに、その列の全員が次々と立たなければ通らないので、実に面倒だった。ウェーブかよ!(公式映画「2billion hearts」は日本未公開だが、開催年の初頭に米国内で行なったアンケート場面から始まる。「サッカー? 知っているよ。手を使わないでボールを足で蹴り合うんでしょ? なんでそんな面倒なスポーツをするの?」「ワールドカップが今年アメリカで行なわれるの? へ〜知らなかったなあ。でも、おめでとう,良かったじゃない」って、これ何? ちなみに、開催3ヶ月前の時点で米国人でワールドカップ開催を知っていたのが25%だった!)
 
 またゲーム時間が欧州の放送に合わされたので、炎天下でのゲームは選手を疲労させ、スペクタクルさを奪った(これは2002年の日韓大会も同様で、ある欧州のサッカー関係者は、「アジアではWカップを開催すべきではない、ことを我々は学んだ」と言い捨てた。そのためか、2022年のカタール開催は、全会場が冷房完備の屋内スタジアムとなった。6つ全てが新設され、大会後はほとんどが取り壊されると言う。アタマ、ダイジョブ? Are you crazy ?)。
 

 大会期間中の最大のスキャンダルは、マラドーナのドーピングだったろう。筆者はマラドーナの最後の勇士が見たくて、ダラスまで見に行ったが、着いたその日にドーピングでマラドーナが帰国した。大会後の最大のスキャンダルは、コロンビアのキャプテン、マリオ・エスコバルが射殺されたことだったろう。コロンビアは中盤のバルデラマーを中心に、ほとんどのパスをグラウンダーで巧みにゲームを作る素晴らしいチームで、ペレが優勝候補と公言した。それが、大会の1次ラウンドで去ることになった。最後のゲームでキャプテンのエスコバルが出した足に相手のセンタリングがあたり、「自殺点(オウンゴール)」で敗退という最悪な事態。これに腹を立てた麻薬カルテルの一員が,故郷のメデジンに帰国していたマリオを、本当に射殺したのだ。
 
 マリオはメデジンに所属し、トヨタカップでも来日していた。W杯後にはACミランへの移籍が内定していた。メデジンは麻薬カルテルの王様パブロ・エスコバルがオーナーだった(同じエスコバルだが、親戚ではない。「二人のエスコバル」というCNN制作の映画は生々しいドキュメンタリーだ。大会開始以前から、コロンビア代表のマツラナ監督以下が、麻薬カルテルから様々な脅迫を受けていたことがわかる。「ウチの選手を出さないと、オマエの家が炎上し、家族は殺されるだろう」とか! 彼らはとてもプレーができる状態ではなかったのだ)。
 
 麻薬王パブロ・エスコバルは、アメリカの麻薬戦争宣言を受けたコロンビア政府によって射殺されていた。パブロが生きていたら、メデジンの街は安全でマリオはイタリアに渡っていただろう。皮肉な話だ。同様にラス・ヴェガスが一般の人にとって安全なのは、マフィアが完全に仕切っているからだ)。
 
 決勝は、ブラジル対イタリアというサッカーファンにとっては応えられない対戦カードだったが、ロサンゼルスの暑さの中、本当に退屈な試合内容となって、結局PK戦になり、あのバッジョがPKを外してブラジルに優勝を献上して終わった。この優勝チームはブラジルには珍しく中盤に才能のある選手を欠いていたが、トップのロマーリオの活躍でカップを手中にした(イタリアが敗けてPKを外し、呆然としていたバッジョを慰めていたのは、「太陽の男」ルイジ・リーバだった。もう一方のブラジルにはジーコが帯同していた。大きなプレッシャーの中で長い共同生活をし、ストレスが溜まる選手にはメンター役が必要だ。かつての大選手が帯同してその役を果たしていたのだ。今回は日本サッカー協会はそれをカズに託したのだろう)。
 

 アメリカ大会の前のイタリア大会では、写真と一体型のIDカードが開発され、1982年のスペイン大会からオフィシャルスポンサーとなっていた富士写真フイルムは、オリベッティのIDデータベースに写真画像情報を組み込むのに莫大な投資を行った。データベースに静止画像ではあったが画像が取り込めるようになったのは、マルチメディア型情報データベースへの第一歩だったと言えようが、取材IDを取得するためには、とにかく一回ローマのプレスセンターに赴く必要があった。情報は中央で管理する他なかった時代だった。
 
 しかし1994年のアメリカ大会では、会場となった9つの都市すべてからこのシステムにアクセスが可能となり、どこでもID取得が可能になった。通信ネットワークによる分散型並列処理化が進んでいたのだ。この大会は、クリントン政権のゴア副大統領が提唱する「情報ハイウェー構想」のモデルとして、「全米9会場を結ぶネットワーク」や「米国議会図書館15個分のデータ量蓄積」「世界最速の通信回線」などの実現で、W杯の情報化が画期的に進歩した大会としても記憶されるだろう(無論、「情報化」は世界を平板化させ、全てを「市場」に供するためのアメリカの戦略に沿ったものである)。
 
 システム自体の内容を簡単に述べれば、
 ・競技情報(試合内容、参加チーム、選手関係)
 ・セキュリティー(IDシステム、ID情報管理を含む)
 ・VIPのプロトコル情報(接遇関係)
 ・マーチャンダイジングの在庫管理
 ・スタッフ管理(2万人以上のボランティア管理を含む)
 など全ての情報を並列型のコンピュータシステムで一括管理していた。
 プレスがアクセスする競技情報の一部には、すでに動画が組み込まれるまでになっていた。
 
 先に、資本主義における「差異」の基本は距離である、と述べた。しかし、交通インフラの発達により、「距離」は大きな問題ではなくなった。更に、テクノロジーの進化は、新製品の「新しい」時間を短縮させる。コモディティー化は加速し、物理的な差異を維持するのは困難になった。地球上にフロンティアが無くなったら、どうすればいいか?アメリカの選択が「IT化」だった。デジタルな世界ならヴァーチャルな「差異」は無限に作り出せるからだ。
 
 「市場化」も行き着くところまで行くと、資本の回転率や効率は落ちる。「限界効用は低減する」のだ。そこで新たなものが物色されることになる。そして、これまで市場化されていない分野を市場化する動きが始まった。こうして「公共的な領域」が市場に組み込まれるようになっていったのだ。レーガンやサッチャーが開始し、小泉政権に継承されていった「民活」にはそういう背景(=「資本の効率の維持」)があった。それは、スポーツの世界では、早くも84年のロス五輪で実現されていたことだった。
 
 今やこの動きは既に次の段階に進んでいる。それがアメリカ国内の「グリーンゾーン」問題だが、既にこのコラムの扱う範囲を大幅に逸脱してしまっているので、今回はここで終わり。
 次回は、遂に我が日本がWカップ本戦に登場したフランス大会だ。しかも我が友、岡田武史が率いて実現したのだから最も印象深い大会だ。
 
(広瀬一郎)
PHOTO by BKP (Own work) [CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons