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W杯ブラジル大会開幕記念特別企画:World Cupのアルケオロジー No.16■華麗なるイタリア大会‘90

 いよいよブラジルでのWカップが始まりましたな。直前まで驚くほど国内では盛り上がりを欠いたこの大会は、どんな大会になるのだろうか。それはさておき……連載の。
 
 90年大会はイタリアで開催された。開会式はミラノで行なわれ、5人の世界的なデザイナーが、5大陸を象徴したコスチューム・デザインを担当した。なかでもアフリカのミッソーニはその華麗な色使いで群を抜いていた。後から考えると、華麗なオープニングは華麗な大会を象徴していた。
 
 この頃のサッカー界で最も問題になっていたのはフーリガン問題。英国のフーリガンを国外に出すな、というイタリア政府の声明に対し、鉄の女サッチャー首相は、「フーリガンを英国民だと思わずに、如何様にも処罰されたし」と返した。イタリア政府とFIFAは一計を案じ、フーリガンが問題になっていたイングランド、オランダを一つのグループにし、1次リーグの試合を警備のしやすいコルシカなどの島に押し込め、水際で排除する作戦をとった。それが功を奏したのか、大きな問題は起きなかった(腕に入れ墨をした相当数のサポーターが、上陸を果たせずに英国への帰国を強いられたのだった)。
 
 一触即発の事態が起きたのは、「オランダvsドイツ」戦。ライカールトがドイツのフェラーにツバを吐いた映像が世界に流されてしまった。オランダは88年の欧州選手権で圧倒的な強さで優勝をしており、下馬評も高かった。ファンバステン、フリット、ライカールトの3人が中央の縦ラインを構成していたACミランの全盛期でもあった(そのゲームをどうしても観たいとはるばるイタリアに来たのが村上龍氏。日本からの要請で、私が取材パスを用意した。パスの担当者がメキシコ大会と同じ人物だったので、ムリを聞いてもらえたのだ。ガッチリとした管理が徹底されている現在ではこんな牧歌的な事は起きようがない。94年の米国大会を経て、マニュアル化が徹底されるようになったのだ)。
 
 89年のトヨタカップで欧州を制した全盛期のACミランが来日したものの、フリットは膝を痛めて来日せず、そのためか勝利を収めることはできなかった。電通社内のJAL担当者から、「フリットをCMに使うことにした。来日時に撮影したいので、交渉してくれ」という依頼が来て仰天した。彼らはフリットのケガを知らなかったのだ。本人の承諾を得ないままプレゼンテーションしたのもどうかと思うが、仕方がない、ここは一肌脱ぎましょう……と、トヨタカップの前日にミラノで、翌年のWカップの組み合わせ抽選(ドロー)が行なわれる。恐らくフリットはそこに出るだろう、と予想し、金額を白紙にした契約書と、CMの絵コンテを持ったクリエーティブ・ディレクターをミラノに飛ばした。複数のルートからフリットを捕まえ、希望する金額を自ら書き入れさせた契約書にサインさせた上で、ドローの翌日にパリのオルリー空港でCM撮影をした。空港使用の許可はJALが手配した。帰国して編集して年末に完パケ納品という前代未聞の慌ただしさだった。恐らくギネスに登録可能なほどの短時間での作業だった。そして、「90年代のニューヒーロー」というあのCMが無事にJALの正月用コマーシャルとして流されたのだった。(もう一つのCMに起用されたのはジャネット・ジャクソンだった)。
 

 実は、当初、筆者はイタリア大会の担当ではなかった。それがどうも、担当者がヨーロッパサイドから総スカンを食ったらしく、89年のトヨタカップの前々日の金曜に、上司から突然「イタリア大会の担当を引き継いでくれ。トヨタカップの翌日からイタリアに行くように」との内示をもらった。誰にも言わなかったのだが,ゲーム当日の早朝、国立競技場で広告看板をチェックしていると、ISL(編集部註:先のこの連載で紹介したInternational Sports and Leisure)のキース・クーパーがにやにやしながら近づいてきた。「Good Morning! Ichiro. Welcome back!」(…ん? 誰も知らないはずなのに…、)「How did you know ?」「How did I know?」(禅問答か? そうか、仕掛人はキースだったんだ!)
 
 キースはISL発足時からのサッカー担当で、元はイギリスのラジオでサッカー番組のDJだった。サッカー・オタクで、メキシコでは同じ釜のメシを食った仲だった。94年のアメリカ大会の後にFIFAの広報官に転籍し、2002年の日韓大会でもFIFAの広報官として記者会見に出ていた(ところが、FIFAの内部の政権争いで、ノンポリを貫いてブラッターサイドの旗幟を鮮明にしなかったため、決勝の夜にブラッター専務理事=当時・現会長に呼び出され解雇を告げられた。理由を尋ねると、「スイスの法律では解雇事由を告げる必要はないのだ」と言い渡され、失意の内に東京を去って行った。)
 
 さて、イタリア大会に戻そう。フリットの膝はやはり完治せず、その不調がチーム全体のパフォーマンスを下げ、オランダは「最も期待ハズレ大賞」(というものがあったら)大賞獲得間違いなしで、大会から去った。
 
 替わりに大会を盛り上げたのはイングランドだった。スーパープレーこそ無かったが、着実で本来のダイナミックなサッカーらしいサッカーを繰り広げた好チームだった。そして強敵オランダを下し、トーナメントに進んだ。中でも輝いていたのはポール・ガスコイン(愛称ガッツア)で、Chunky(太っちょ)な体から驚くほど繊細なパスやシュートを見せて観客を魅了していた。前回大会の得点王にして、後にグランパスにやってくるゲイリー・リネカーも好調を維持していた。
 
 イタリアには“ファンタジスタ“のバッジョと「トト」スキラッチがいた。トトは前年までセリエBに所属し、ユベントスに移籍した直後で、セリアAには3試合くらいしか出ていなかったので、代表入りした時にはでイタリア国民はビックリ。それが大会の得点王になったのだから、将にシンデレラ・ストーリーだ。その後ジュビロ磐田でもプレーした(86年と90年の大会の得点王の両名がかつてJリーグにいたのだ。ジーコもいた。94年に優勝したブラジルからはレオナルドも来た。デンマークのラウドルップもいたし、イタリアのマッサーロもいた。昔はJリーグもビッグネームが大勢いた華やいだリーグだったのだなあ……)。
 
 他にもオシム監督が率いるユーゴには天才「ピクシー」ことストイコビッチがいた。そのユーゴを4−1で撃破した西ドイツには金髪の貴公子、ユルゲン・クリンスマンと闘将マテウスがいた。ブラジルには大会で最も美しいゴールを決めたカレッカがいた。(後に柏レイソルにやってきてJ−1に昇格する原動力となった。)こう観ると、なかなか華麗なスターが揃った大会だったではないか。
 

 オープニングゲームは、前回の覇者アルゼンチンが、カメルーンに苦杯を舐めるという予想外の結果となった。唯一の得点を決めたオマン・ビイクの滞空時間の長いヘディングは衝撃的だった。カメルーンはこの大会の台風の目となったが、その中心はロジェ・ミラだった。公称38歳のロジェは、フランスのリーグでチームを渡りあるき、最後は2部リーグのパートタイマーの選手だったが、急遽カメルーン代表に呼び出されたのだ。その身体能力と、ゴールへの嗅覚は、まさに野生を思わせるものだった。ゴールを決めた後のパフォーマンスは後の「カズ・ダンス」の原型だろう(カメルーンチームはミラノのホテルで寛げず、動物園の隣の安いホテルに移動したそうだ。動物の声を聞く事で眠ることができるようになったとか。これもホントかウソかはわからないが……良くできた話ではある)。
 
 初戦こそつまずいたものの、アルゼンチンは中盤に下がったマラドーナと、金髪スピードスターのカニーヒャとのコンビが実力を発揮し、また前回から継続して指揮をとったビリャルド監督の統率も良く、順当に勝ち上がったのだが、思わぬ取りこぼしをしたイタリアと準決勝でぶつかることになった。
 
 この「とりこぼし」によって、イタリア代表はローマではなく、ナポリで戦う羽目になったのである。それも、ナポリでスクデットを獲得し、「王」と呼ばれたマラドーナの率いるアルゼンチンと準決勝であたったのだ。
 
 イタリア国内でイタリア代表と戦うことの不利さを知り尽くしているマラドーナは、対戦が決まると緊急記者会見を開いた。「ナポリの市民の皆さん、誰がナポリを優勝に導いたか思い出して、その日だけは僕を応援してくれ。そもそも僕の祖先はナポリで、アルゼンチンに移民したのだ!」(本当か……?)。
 
 信じられないだろうが、当時、イタリアにおけるマラドーナのナポリ以外での評判は最悪だった。イタリア人の品のいいスタッフが、彼が出るとテレビの画面に向かって4レターワードを連発するのだ(オマエの母親は●●だ!とか)そして、決勝を目前にして希望に燃えたイタリア国民の希望を打ち砕いたのだから、まさに地獄から使わされた悪魔の化身である。もちろん準決勝で、マラドーナは徹底的にマークされた。が、今回はそれに耐えるほどに成熟していた。円熟と言っていいだろう。後半も半分過ぎたころになっても0−0でゲームが停滞していたが、イタリアの守備陣に囲まれたマラドーナは、何と右足でパスをカニーヒャに通したのだ(筆者はそれまでマラドーナの右足でのキックを観たことがなかった)。
 
 そして得点はこの一点で終了した。が、得点後にそのカニーヒャがイエローカードをもらい、累積で決勝に出られなくなったのだ。飛車角抜きで臨んだ決勝で、あろう事か開始直後、アルゼンチンのモンソンが一発退場となった。Wカップ決勝史上初の退場者だった。丸裸のアルゼンチンだったが、西ドイツはそれでも責めあぐんだ。結局、不必要なフリーキックを(全く美しくないキックだったが)西ドイツが決めてアルゼンチンは涙を飲み、ベッケンバウアーの西ドイツは4年前の雪辱を果たした。
 

 会場内のほぼ9割はマラドーナの「処刑」を見にきた連中で、ゲームはまるで公開処刑の様相だった(TVでそれが伝わっただろうか?)。当時、NHKの解説で来ていた加藤久氏は、「僕がマラドーナだったら、ピッチで立っていることさえムリだったでしょう」と語ったほどの凄惨で殺伐とした場だった。決勝は、最初からマラドーナを屠るための舞台だったのだ。終了のホイッスルと供に、マラドーナの目からとめどない涙が流れはじめた。首にかけられた準優勝のメダルは、すぐに外したが、誰がそれを止められよう。筆者にとっては、最も働いた大会であり、美しいサッカーが復活した良い大会だったが、決勝だけは史上最悪の後味の悪いゲームだった。
 
 この大会でビジネス的に特筆すべきことは、「情報化」志向が明確化したことだろう。
 
 W杯の情報化を遡ってみると、通信に関してファックスが導入されたのが、1986年のメキシコ大会のとき。オフィシャルサプライヤーとしてキヤノンが41台を提供しているが、同大会ではまだテレックスが主流であったため、せっかくの提供にもファックスの利用率は2~3割程度ではなかっただろうか。ところが、1988年の欧州選手権ではほとんどファックスによる通信が主流となり、しかもすでにパソコンを持ち込む記者も現れた。トヨタカップの海外放映権の交渉においても、テレックスとファックスの使用率が逆転したのが、大体1986~88年のことであったと記憶している。
 
 1990年のW杯イタリア大会は、一スポーツ大会の枠を越えた国家的プロジェクトの様相を呈していた。当時のイタリアは世界第5位のハイテク産業国であったが、そのイメージは依然ファッション、料理、芸術、観光等のローテクなものが圧倒的に中心であった。そこでイタリア人は、このギャップを解消し、新しいナショナル・アイデンティティーを確立する絶好の機会と捉えた(我々日本人には、どこか東京五輪を想起させる親しみやすい話ではないか)。そのためにRAI(イタリア国営放送局)、Sirti(電電公社)とオリベッティ社が、国の全面的なバックアップのもとに、このプロジェクトを推進した。3社からは何千人もの人がワールドカップ組織委員会に出向し、その中核となって実施運営にあたった。その際オリベッティ社はコンピューターを利用したデータベースと呼べるものを初めて開発したが、その開発費は数百億リラともいわれている。メキシコ大会(1986年)にもデータベースらしきものはあったのだが、いわゆるGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)仕様にはなっておらず、使い勝手はあまりよくなく、当然利用者は多くなかった。やはり、現在のデータベースの原形はイタリア大会で開発されたものに求められよう。
 
 ISL/電通が開発した「IS-4」は、次のワールドカップまでの4年間の公式スポンサー権をパッケージにしたもので、内容は「欧州リーグチャンピオンズカップの決勝(×4回)+欧州カップ・ウィナーズカップの決勝(×4回)+欧州選手権+ワールドカップ」だった。86年に終了した「IS-4」は「IS-90」に継承され、パッケージの完成度は増し、'90イタリア大会を経て「IS-94」が始まった。衛星放送の普及で、大衆の意識のグローバル化は進んだ。そして、いよいよグローバリズムの90年代に向かう。この文脈で、94年のワールドカップの米国大会と96年のアトランタ五輪を経過しておきた構造的変化を理解すべきだろう。
 
(広瀬一郎)
By FIFA. (The logo may be obtained from FIFA) [CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons