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W杯ブラジル大会開幕直前特別企画「World Cupのアルケオロジー」 ■No.15マラドーナのための、マラドーナによる、マラドーナのメキシコ大会’86

 86年の大会は、マラドーナに始まって、マラドーナに終わった大会だった。78年の地元アルゼンチン開催の大会では代表選考に漏れ、満を持して出場した82年スペイン大会では汚いプレーで潰され、失意のうちに大会を去っていた。だから、まさに満々を持した大会であったことだろう。
 
 筆者はこの大会からビジネスで関わるようになった。85年の10月に突然、上司から「広瀬、来週からメキシコに行けるか?」と。「えっ、パスポートありませんよ」「なんだ!電通に入ったのにパスポートが無い?じゃあ、ムリだなあ」(電通の入社資格にパスポート?とは初耳だった!)この最初の会話をきっかけに、早速パスポートを取得し、12月に現地メキシコで行なわれる組み合わせ抽選会に向けて立った。その前後におけるスポンサー・ワークショップ出席がミッションだった。何しろ、FIFAにせよ、ISLや電通にせよ、スポンサーにせよ、全てがIS-4というパッケージの集大成を初めて実効する大会だった。全てを最初から決めなければならなかった。
 
 広告看板のサイズや枚数や位置も、この大会でTV映りを考慮して決められた。キヤノンのカメラマンサービスや、フジフイルムの現像サービスなどのスポンサーの活動(activity)も、手探りで決めた。会場(venue)周りの競合排除も、規準が不明確で、まさに戦いだった。会場周辺には、コダックなどの公式スポンサーでない公式スポンサーの競合社が、目立つ位置に看板を出すのだ。プエブラではコダック社のアドバルーンをスタジアムの駐車場からあげられて、「どかせろ!」と言ってもラチがあかないので、警護にあたっていた軍隊を呼んで、「アレを撃ちおとせ!」と命じたことがある。無論、英語が分からないフリをしていた連中も、早々にアドバルーンを片付けた。
 
「クリーン・スタジアム」という契約で、全てのスタジアムから企業や商品の名前を外して、FIFAに引き渡す条件だったが、簡単に従う連中ではない。我々がマスキングテープで、たとえば公式スポンサーでないフィリップスのテレビのマーク等を、ひとつひとつ見えないように作業したのだ(やってることは結構地味でしょ)。
 

 冒頭で触れたように、大会はマラドーナ中心で進んだ。その他の全員が彼の引き立て役だった。84年の欧州選手権を制し、絶好調だったプラティニでさえも、周辺のエピソードの一つに過ぎなかった。プラティニは、85年12月のトヨタカップでユベントスの一員として来日。芸術的なゴールをオフサイド判定で取り消され、国立のピッチ上で寝転がってしまった。
 
 実はこの年の大会にユベントスが出場してからトヨタカップのビジネスが変った。ACミランのオーナーにしてメディア・コングロマリットFINIインベストを持ち、フォルツア・イタリア(頑張れ!イタリア)というふざけた名前の党を組織し、首相にまで上り詰めた、あのベルルスコーニ氏が、まともな金額で放送権をとりにきたのだ。背景には欧州のテレビメディア再編問題がある。この頃まで欧州には基本的に公営のテレビ局しかなかった。イタリアではRAIだ。最も人気のあるスポーツのサッカーはRAIが放送する。それがイタリア人の常識だった(かつてオリンピックはNHKで観る、が日本の常識だったように)。
 
 オリンピックやワールドカップのTV放送は、国際公営放送局連合(ITC)というユニオンが牛耳っており、RAIは英国のBBCやドイツのARD、フランスのアンテンヌ2などとともに、その中核を形成していた。この構図が崩れたのは96年の入札から(この点は後に詳述する)。
 
 なかでも最も人気のあるユベントスの国際的な公式ゲームをRAI以外の局が放送するという事実は、イタリア人の常識を覆す快挙だった。無論、ベルルスコーニの狙いはそこにこそあった。彼はドイツとスペインにもTV局を所有していたので、そのうちのどれかの国のクラブが出場するかどうかで放送権料の額が決まる。そして、今までにない複数年契約だった。ユベントスの出場するゲームは欧州だけでなく世界中で観られる。だからクラブは手が抜けない。そして、トヨタカップ史上初めて、欧州のクラブが勝利を収めた。
 
 それまでは、シーズン中の来日であり、クラブにとってはリーグ戦を優先していたので、ケガをしないことが第一だった。この後、欧州各国に民間のテレビ局ができて行く。特に、衛星とケーブルの伸びは凄まじく、テレビ界の勢力図が変っていったのが80年代後半から90年代。そのトドメが、92年に発足したプレミア・リーグの独占放送権をBskyB(BスカイB)が獲得しことだった。これでBskyBは一挙に躍進し、本社のニューズのメディア・コングロマリット化が進み、後に「マードック化現象」と呼ばれる重大な事態を招来するのだが、それは90年代の後半で話そう。
 
 我が国にもスポーツ絡みの権利取得で本業が飛躍したケースはある。ソフトバンクによるホークスの買収がそれだ。あれが無ければ、ボーダフォンの買収はうまく行かなかっただろうし、そこからB2C(Business to consumer)のビジネスに進むことはできなかっただろう。孫氏はそこが分かっていたから、不利な条件だったにも関わらず買収に走ったのだろう。オーナー経営者でなければ出来ない決断だった。
 

 話をメキシコ大会に戻す。準決勝のグアダラハラで行なわれた西ドイツvsフランス戦は、ゲームとしては最高峰として語られるし、プラティニの出来も素晴らしかった(プラティニは、その準決勝に破れた時点でモチベーションを失い、3位決定戦には出場せず、アカプルコの海岸で休養をとっていたという。UEFAの会長として、欧州選手権の3位決定戦に出ずにモナコで休養する選手が出たら処分するのだろうか?)。
 
 しかし、この大会はゲームでもサッカーでもワールドカップでもなく、とにかくマラドーナだったのだ。象徴的なのが対イングランド戦での5人抜き。筆者は、現地のアステカスタジアムにいて目の当たりにした(眼福とは言うまい。仕事で行っていたのですから……)。
 
 まずは「神の手」の話から。イングランドのGKのシルトンは180cmを超える大男である。そのパンチングの上を165cmのマラドーナがヘディングでゴールした、あのシーン。メキシコシティーの強烈な夕陽を背景に、マラドーナのクビのシルエットが急にロクロっ首の用に伸びた!(ように見えた)。線審と主審の位置も、マラドーナは知っていたと思われる。アルゼンチンの関係者によると、マラドーナは練習中にも時々ふざけて、同じことをやっていたらしい(やはりトレーニングの賜物だったのだ!)。
 
 次に例の「5人抜き」。マラドーナも凄いが、「ブッチャーをはじめとしたイングランドの守備陣の体の動きが鈍過ぎる」とは思われなかっただろうか?あれは、イングランドの選手が普通なのであり、マラドーナが異常なのだ。何せメキシコシティーの標高は2200m。富士山の5号目でサッカーをしてみれば分かるだろう。体が動かないのがフツーだろう(筆者はビールを2杯飲んで、3ブロック先のホテルに帰りつくまでに、途中で2度ほど休んだ記憶がある。とにかく足が言う事をきかなくなる)。
 
 この試合のあと、準々決勝はベルギー。ここには大会一のGKと評判をとったJMパフがいた。パフは「ディエゴを止めるのは俺だ」と宣言して臨んだが、まるでGKをあざ笑うかのように、見事なシュートを2回も決められた。試合後にパフは「私が間違っていた。彼は誰にもとめられない」と語った。決勝のアルゼンチンvs西ドイツ戦は、アルゼンチンのバルダーノの得点に始まり、一旦は不屈の男、ゲルマン魂の権化ルムメニゲのゴールで追いついたが、最後はマラドーナのスルーパスからブルチャガが決め、バッケンバウアー率いる西ドイツにとどめを刺した(ベッケンバウアーは次のイタリア大会の決勝で、見事に雪辱を果たすことになる。バルダーノは現役引退後、レアル・マドリーのGMとなって、ドリームチームを作り上げた)。
 
 このメキシコ大会は、実は地震の震災で開催返上したコロンビアの代替開催だった。メキシコは70年に開催した施設がそのまま使えるので、代替開催を引き受けたのだ。だが、そのメキシコでも大地震が起きた。筆者がメキシコに赴いた85年の年末には、飛行場から市内に行く道路は瓦礫の山で、ここで半年後に本当にWカップが開催できるのか、と心配したものだ。だが、実際に無事にメキシコは乗り切った。噂では、震災後のメキシコ開催を米国が支援するというレーガン大統領の約束をとりつけた(アメリカでは珍しいサッカー大好き人間である)キッシンジャーが、そのことをアベランジェ会長に伝えたようだ。その交換条件が94年の米国開催だったようだ(話としてはよくできているが真偽を確かめようがない。どなたかDrキッシンジャーに真相を確認していただけないだろうか?)。
 
 最後に筆者のメキシコでの失敗談で締めくくろう。ウニベルシタリオという大学のスタジアムでの初戦当日のこと、狭いスタジアムだったため客席の最前列から広告看板が邪魔だというクレームが来た。そこで広告看板をちょっと寝かせることに同意した。これが大失敗。事前にテレビカメラの位置と太陽の関係から調整された角度だったのだ。ゲームの終了後、「太陽の反射光でハレーションを起こし、テレビに映る広告看板全てが全く読めない」というクレームが日本から来た。その天罰か、食当たりして死にそうなほどの下痢。「広瀬が現地でパラチフスにかかった」というファクスが東京に送られた(らしい)。社内の「伝言ゲーム」の末、東京から来たファックスはお見舞いではなく、「コレラが完治するまで帰国すべからず!」だった(あのミスのために、生きて再び日本の地を踏めなくなるのか、と思ったものだった……)。
 
(広瀬一郎)
PHOTO by 不明 (El Gráfico - História de los Mundiales) [Public domain or Public domain], via Wikimedia Commons