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W杯ブラジル大会開幕間近特別企画「World Cupのアルケオロジー」 ■No.14 黄金のカルテットが敗退し、サッカーの怖さが際立った’82スペイン大会

 1982年のスペイン大会では、これまでの本戦参加国16チームが24チームに増えた。74年の会長選挙でアベランジェ氏が勝利したのは、アフリカの取り込みに成功したからだ。その論功でアフリカ枠を、そして権力基盤の強化のためにアジア枠を増やしたのである(無論、表向きは、「Wカップの世界化のために」であった)。
 
 欧州での大会にも関わらず、前評判はアルゼンチンの連覇か、ブラジルの奪還か、であった。アルゼンチンは知将メノッティーが前回大会に引き続き指揮を執り、チームを完全に掌握していた。点取り屋のラモン・ディアスがいて(後にマリノスに来た)、中盤には「オズの魔法使い」と言われたオズワルド・アルディレスが、ロンドンのトットナムから帰国していた(後にエスパルスの監督になった、あのアルディレスである。フォークランド紛争の最中でも、イギリス国民はアルディレスのプレーを認め、沈着冷静なその人柄も慕われていた)。
 
 前回大会の殊勲者マリオ・ケンペスも健在だったし、キャプテンには闘将パサレラがいて、全体をしめていた(アルゼンチン代表チームには常に中盤で「全体をしめる」牢名主のような男がいる。昨年度、世界のサッカー界で最大の話題となったアトレチコ・マドリーの躍進で名をあげたシメオネ監督の現役時代がその役割の典型だった。確かにシメオネの前では、選手は手を抜けなかっただろう)。
 
 そして、何よりもあのディエゴ・マラドーナがついにWカップの本戦に登場するのである。前回大会直前の最大の話題が「マラドーナの代表入りならず!」だったように、今回の話題は、「ついにマラドーナがデビューする」だった。世界の耳目がそこに集中していた。
 
 対するブラジルには黄金のカルテットがいた。ジーコ、“ドトール”ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾで構成する中盤は、サッカーが遊びであることを思い出させた。将に楽しく”Play”していたのである。70年にペレを擁したセレソンよりも強い、とブラジル国内でも言われていた(4人のうち2人は後に日本代表の監督になり、一人は現在もアントラーズの監督である)。
 
 マラドーナのアルゼンチン代表の滑り出しは、可もなく不可もなく、だった。しかし、1stラウンドの最終戦で火がついた。ここでマラドーナは2得点。いよいよ2ndラウンドで本調子になるかと思われたのだが、初戦のイタリアの中盤のジェンティーレがマラドーナを潰して、アルゼンチンは惨敗した。2戦目の対ブラジル戦ではブラジルがマラドーナの潰し方をイタリアに倣った。ハッキリ言って、汚いプレーでしかマラドーナは潰せるものではない。そして2つの世界的な強豪チームがそれを行なったのだ。マラドーナのイライラは頂点に達し、ついに報復行為で一発退場。21歳の若きマラドーナのワールドカップ・デビューはまったく後味の悪いものとなった。
 
 そうなると、ブラジルが優勝の本命となった。2ndラウンドの最終戦「ブラジル対イタリア」は事実上の準決勝だった(個人的には事実上の決勝だった、と思っているが…)。開始早々、ブラジルの黄金カルテットがいつものサンバを踊りだした。世界はそのリズムに見惚れ、聞き惚れていた。が、開始直後に失点。しかし、その6分後にドトールが決めてタイに持ちこんだ(ドトール・ソクラテスは、右サイドからあがり、ほとんど角度のないところから、キーパーの右を抜いたシュートだった。あのあたりから、トッププロのシュートは逆サイドではなく、キーパーの予測の裏をかいて、スペースの狭い同サイドをねらうことが多くなった。今大会でもそうだろう。注目して観てほしい)。
 
 ゲームが落ち着いて、ここから本番と思われたのだが、その後、信じられない事が起きる。ブラジルの中盤が横パスを2度もミスして、イタリアにかっさらわれ逆襲を受けたのだ。そして、その2度とも失点にむすびついた。この試合では、ロッシが完全復活した。かつて、セリエAの八百長疑惑(サッカー界の「ブラックソックス事件」と言われた)に巻き込まれたロッシは、リーグから一時追放され、この大会直前にユベントスに採用されたが、復帰してから3試合しかしていなかったのだ。ベアルゾット監督がロッシを代表に入れた時には、活躍するのはムリだろうと大方が予想していた。その予想通り、このゲームまで無得点だったロッシだが、この大一番でハットトリックを成し遂げたのだ!(結局ロッシは大会の得点王になる)。
 
 しかしながら、最大の功労者は、ASローマにいた左利きの中盤コンティだったろう。中盤でボールを奪ったら、「早い前へのドリブル」、「長いパスでのサイドチェンジ」、そして「正確で強いキックによるセンタリング」。これらは逆襲の定石だが、これが忠実に繰り返され、3得点し、3−2でイタリアは勝ったのだから恐れ入る。リアリズムを追求するイタリア・サッカーの究極の効率の良さを見せつけたゲームだった。
 
 もう一人の功労者は“殺し屋”ジェンティーレだった。マラドーナに引き続きジーコを潰したのだ。ゲーム中にジーコのユニフォームはズタズタに破れていたのだから、どれだけ激しく引っ張られていたかが分かろうというもの。当時、ジーコはイタリアのウディネーゼでプレーしていたから、イタリア代表全員を良く知っていた。敗れたブラジルは呆然自失(ゲーム後、ファルカンに至っては引退を示唆したほどだった。筆者もこの敗戦を観てショックを受けた一人である)。
 
 イタリアが会見を終え、シャワーを浴び、着替えてからバスに乗ると、何とジーコがバスに乗り込んできた。殺し屋、ジェンティーレの席に向かった。全員が凍り付いた。ところがジーコはジェンティーレに「ナイス・プレー!絶対に優勝しろよ」と肩をたたいてバスを降りたのだ。Good Loserの見本だ(後年、Jリーグのチャンピオンシップで、ジーコはアントラーズの一員として出場し、「ツバ吐き事件(編集部註:相手のPKのとき、そのボールに歩み寄って唾を吐きかけた)」を起こした。同一人物とは思えないが、スポーツマンは「完璧なる人物」ではない、というのもまた真実である。あの「スポーツマンらしくない行為」一つで、ジーコはスポーツマンではない、とは言えないのだ。この説明は長くなるから割愛する)。
 
 決勝はフランスを破った西ドイツ対上げ潮のイタリアの戦いとなった。
その前に……準決勝の西ドイツ対フランス戦は、ワールドカップ史上に残る激戦となった。サッカーファンなら何度も思い出す「あのプレー」「あのシーン」のオンパレードである。延長までの死闘を制した西ドイツは体力を消耗しきっていた。そのため、決勝では、大きなアドバンテージを相手のイタリアに与えたった。
 
 ただ、この準決勝の試合にも、一つだけ汚点があった。西ドイツのゼップ・マイヤーがフランスのバティストンをカウンターパンチでノックアウトしたのだ。バティストンは歯をおり、脳しんとうで数分起き上がれなかった。今なら一発退場間違いなしのプレーだったが、オトガメは無かった(酷いことに、医者の入場が止められた。この時の対応は、バティストンの生死に関わるほどのダメージだった事が後に判明したのだが)。
 
 当時、「汚いプレーをしなければ勝ち上がれない」という常識がどうもできあがりつつあった。これに危機感を抱いたFIFAは大会後、早速手をうち、レフェリングの基準を明確にし、汚いプレーが間尺に会わないように改革を進めた。それは86年のマラドーナのアルゼンチンの優勝に結実した(86年はウルグアイが汚いプレーの見せしめとなった。ウルグアイはFIFAを中心にサッカー関係者全ての憎悪の対象となった)。
 
 90年のイタリア大会でも、「汚いプレー」を排除する流れは踏襲され、綺麗なゲームの数が格段に増えた。それは、今日まで続いている。これは「サッカーを世界一のエンタテインメントにする」というアベランジェ会長の戦略に沿うものだった(この点は現在のアジアでも、もっと活かされるべきだろう。ACLのレフェリングを改善しない限り、商品価値は上がらないままだろう)。
 
 決勝戦はロッシが勢いを維持し、コンティとのホットラインで、イタリアが勝利した。
 この大会のスポンサーシップは、前回に引き続いてウエスト・ナリーが国際的な企業に売り込んだ。表面的には成功していたが、ホルスト・ダスラーはこのビジネスの潜在的可能性をもっと高く見積もっていた。パトリック・ナリーは確かに天才的な商売人だが、ワールドカップのビジネスはもっとシステマティックに、そして大規模に行なうべきだと考えていた。模範は近くにあった。84年のロス五輪だ。
 
<スポーツマーケティングの成立>
 1970年代になって、オリンピックはますます大型化し、それに伴う運営費の増加は開催国にとって大きな負担となっていた。カナダ国民は、1976年のモントリオール五輪の経済的破綻のツケを払うのに10年以上の歳月を要している。当時は今と違って開催するのは経済的に大きなリスクだと見なされ、立候補する都市は少なく、オリンピックの存続自体が危機に瀕していた。そこで、IOC はついに民間資本の導入に門戸を開いた。
 
 ロス五輪の組織委員長、ピーター・ユベロスの辣腕のもと、アメリカ合衆国、カリフォルニア州、ロサンジェルス市、各々の税金を1セントも使わず、大会の収支は2億ドルを超える黒字を生み出した。それはまさに従来の常識をくつがえすユベロス・マジックだった。
 
 ABCが全米の独占放送権を2億5500万ドルで購入し、世界をアッと言わせた。これだけで大会総支出の約半分をカバーできる額だった。ユベロス氏は「オリンピックに必要なものは大きな競技場ではなく、問題はその競技場に何台のテレビカメラが入れられるかだ」と言い切ったのである。これ以後の放送権獲得の熾烈な戦いと放送権料のウナギ昇りのアップがここから始まり、同時にスポーツ産業のビジネス化が進んだ。
 
 ユベロス氏がロス五輪で展開したマーケティング方法はその後オリンピックのみならずW杯あるいはサッカー全体、さらにはスポーツ会全体のお手本となって現在に至っている。収入の三本柱は
・公式スポンサー、サプライヤー権の確立 
・公式マーク、ロゴ等のマーチャンダイジング
・独占放送権販売方式による放送権料アップ
放送権については、1カ国で一つのテレビ局に対してだけ独占放送権を与えるという基本を確立した。
 
 ユベロス氏の「権利」というものに対する考えの卓越したところは、「制限」するという発想にある。権利とは、元々王権を制限し逆に貴族の権利を拡大すること(「権利の章典」)であり、その後は市民が自分達に対する制限を縮小するために勝ち取ってきたという歴史がある。
 
 何かが制限されて初めて、その「制限を制限すること」自体、つまり「権利」自体に意味が生ずる。また権利が与えられても、権利を持たないものとの区別がなければ意味はなく、「権利」の名に値しないのだ。権利の有無によって区別がなければ、なんとかして区別を作り出す必要がある。そうしなければビジネスにはならないのだ。権利を持たざるものに対する制限が強いほど、その「制限を免除される権利」自体の価値は高くなることは自明だ。
 
「差別化の生産と販売」がスポーツマーケティングというビジネスの原理(正体?)なのである。「権利」という商品は物理的に存在せず、あくまで知的にしか存在が認められないもので、法的には「無体財産権」または「知的財産権」(Intellectual Property)と呼ばれる。
 
 スポンサーシップの導入にあたって、巨大広告代理店の協力を必要とし、ミニマム(最低限の)ギャランティーが可能な資金力のある代理店を求め、ユベロス氏は電通を選んだ。電通の仕事ぶりに満足したユベロス氏は、ウエスト・ナリーに代わるパートナーを探していたホルスト・ダスラー会長に電通を紹介した。この出会いは、後にISL社の設立につながっていく。ウエスト・ナリーには前金によるギャランティーが支払えるほどの資金力がなく、電通にはあったのだ。
 
 この「ミニマム・ギャランティー」の確保は、スポーツビジネスにおける投資計画の遂行には欠かせない要素だった(実際にウエスト・ナリー社はかなり大きな収益予測を立てたが、結果はその予測を大幅に下回ったので、ナリーは「大口たたき」と陰口を叩かれていた。FIFAとしては甘言を弄された、の思いがあったに違いない)。
 
 事前のキャッシュの確保は、再投資に向けられる。これが資本主義の拡大再生産を支える構造だ。スポーツ産業の拡大再生産は、84年の五輪に発し、ISLが踏襲して86年のワールドカップ以降システム化していった。このビジネスの仕組みを「スポーツマーケティング」と言うのである(決してマーケティング用語ではなく、あくまでビジネスの呼称なので、注意されたい)。
 
 82年のスペイン大会の決勝の前日、首都マドリッドの一画にある、とあるレストランにサッカー界の重鎮たちを集めて、アディダスと電通が共同主催したパーティーが行なわれた。アベランジェ会長を始めとし、欧州連盟(UEFA)の会長や南米(CONMEBOL)の大物達が一同に会した。日本からは藤田サッカー協会会長(当時)や岡野俊一郎氏(後に協会会長)も出席している。後に電通の社長となる成田豊も取締役として出席。後に初代のISL室長となる服部庸三、サッカー担当部長の西郷なども顔を揃えている(いずれも今や故人。筆者が入社した際は、成田常務の連絡総務という部署付の辞令をもらい、後に服部が局長だったスポーツ文化事業局に転属となった。直接の上司は西郷部長だった)。このパーティーの席で、後のISL(編集部註:電通とダスラーの共同資本と経営によるInternational Sports and Leisure)の設立が承認された、と仄聞している。
 
(広瀬一郎)
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