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「政治」(太陽=権力の奪い合い)から生まれたサッカーW杯の「政治」(W杯反対デモ)の行方は?

 サッカーのワールドカップが「人類最高の祭典」「地上最大のイベント」などと最大級の形容詞で語られるのには、いくつかの理由が考えられる。


 ひとつは、「丸い物」を奪い合う競技が人類文明の誕生した当初から行われていた、という事実である。


「丸い物」とは太陽の象徴であり、太陽を奪い、支配する者は、地球上の支配者になる。古代メソポタミアでは、敵の部族の王の頭蓋骨(丸い物)などを奪い合い、それをゴールに運んだ者(支配した者)が実際に玉座に就いたこともあったという。


 その太陽を奪い合う競技が、東はインド、中国を経て日本にも伝わり、中大兄皇子や中臣鎌足もその球戯(打鞠=くゆるまり)を楽しんだ、という記録が日本書紀にも残されている。


 そして西は古代ローマ(カルチョ)、中世フランス(ラ・シュール)を経てイギリスに伝わり、19世紀になってアソシエーション・フットボールとしてルールが整えられた(ちなみにサッカーという言葉は、Association fottballがAssoc footballとなり、Assocerと省略された言葉が、Soccerと変化したものである)。


 そのルールが全世界に広がったものが「フットボール(サッカー)」というわけだが、「太陽を奪い合う球戯」「世界の支配者を決める遊び」としては5千年近い文明の歴史が存在するのである。


 さらに近代ヨーロッパでは、「太陽の象徴」=「丸い物」=「ボール」を支配する遊びは、ラグビー、ホッケー、バスケットボール……等に発展し、また、メソポタミア起源ではなく、エジプト起源の平和的なボールゲームであるクリケットやベースボール等々、サッカー以外にも様々なボールゲームが発展した。


【エジプト起源のボールゲームは、地上権力の象徴である錫杖(棒)で、世界の支配者(太陽)を打ち、その飛び方や飛距離から、ナイルの氾濫と農作物の豊凶を占ったところから生まれたと言われている】


 しかし、サッカーだけには、他のあらゆるボールゲームとは異なる大きな特徴があった。


 それは、脚のみを用いるというルールによって、背の高さや体重の重さといった、生まれながらの身体的優劣が解消したことである。


 背が高い人も低い人も、身体の大きい人も小さい人も、自分の身体的特徴を存分に生かしてプレイすることができる。その結果、世界中のすべての民族が、平等な条件で闘えることになったのだ。


 クリケットやベースボールといった球技も、生得の身体的特徴を問わないという点では、サッカーと同じ特徴を持つといえる。が、サッカーに較べて多くの道具を必要とするため、大きな経済的負担が要求される。その点サッカーは、ボール(太陽の象徴)一個あれば、どこでも、誰でも、競技を行うことができるのである。


 人類文明5千年の歴史、身体的平等、経済的平等。この三点において、サッカーに優るスポーツは存在しない。


 サッカーのワールドカップが「人類史上最高最大の祭典」と呼ばれるのも当然のことなのだ。


 しかも現代では、衛星放送というテクノロジーによって地球上のあらゆる地域が電波で結ばれた結果、数十億人の世界中のあらゆる人々が、同時に同じ一個のボール(太陽)の行方に注目するようになった。そうしてワールドカップは、「地球上最大のイベント」として、地球上のすべての人々を、一つに結びつけるようになった。


 まさにワールドカップ・サッカーは、地球という一つの共同体にとって、最も重要な、意義深い祭典といえるのである。


 しかし……
 今年、ブラジルで開かれるワールドカップに、サッカーをこよなく愛しているはずのブラジル国民(の一部?)から、ワールドカップ開催に反対する「NO!」の声があがっている。


「ボール遊び」なんかに巨額のカネを使うよりも、「病院や教育制度を整えよ!」というデモは、1年前のコンフェデレーションズ・カップのときから行われた。


 丸い物(ボール=太陽)を奪い合う「遊び」ももとはといえば「政治」から生まれたもの。もちろん市民のデモンストレーションも「政治」。「ワールドカップ」には、ある意味で必然的な出来事として、ボールの行方にも、デモの行方にも注目したい。