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W杯ブラジル大会開幕間近特別企画「World Cupのアルケオロジー」 ■No.13:軍事政権下での第11回アルゼンチン大会と優勝

78年のアルゼンチン大会はアルゼンチンが初優勝を飾った。


 この大会からはスターが出ていない。優勝したアルゼンチンのセンター・フォワード、エル・マタドールことマリオ・ケンペスは強いフォワードではあったが、スーパースターの器ではなかった。この年の時点で若きマラドーナの勇名は世界に知られていたが、メノッティー監督は代表に選ばなかった。その「選ばれなかった」というニュースこそが大会前の最大の話題だった。これが「スーパースター不在の大会」を象徴することになるとは、後になるまで分からなかったのだが…(その後、マラドーナは翌79年のワールド・ユース日本大会でアルゼンチンを優勝に導いた。決勝の対ソ連戦は、大男のソ連守備陣がマラドーナを囲んで潰そうとしたがならず。マラドーナは体を低くしてバランスを保ち、大男の囲みを破って出てきた。倒されなかったその姿が、4本の足で動く野獣のようだった。82年にはようやく代表入りして本戦での活躍が期待されたが、なかなか結果が出ず、イライラの余り、対ブラジル戦では足をあげて一発退場し、大会から去っていった)。


「ワールドカップ・ストーリー」の著者ブライアン・クランビルも「開催国が優勝したという事実以外に盛り上がる要素はなかった」と同書で指摘している。クライフのいないオランダは、前回に続いて決勝まで進んだが、「惜敗」という評価はあがらず、むしろ、ニースケンス主将のもとで「健闘」した、という表現が相応しかった。前回の覇者西ドイツからは、ミュラーとベッケンバウアーが抜けて、こちらも地味な感じは否めなかった(大会の前年にベッケンバウアーは高額の移籍金で、NYコスモスに移籍していた)。


スターが出ずに盛り上がりに欠けた大会だったが、実はそれ以上に問題の多かった大会だった。


 開催以前から開催自体が危ぶまれていた。時の軍事政権の圧政下では人権無視の政策が実効され、開催前年にはアムネスティーから「開催反対」の勧告が出されていた(イタリアのロッシや西独ゴールキーパー(GK)ゼップ・マイヤー等も開催反対に署名していたが、結局、二人とも大会には出場した)。


 この時代の問題は、今も文学や映画の題材となっている。有名なのは、子供を誘拐された母親達の存在。彼女達は、大会中も大統領府の前の「5月広場」で無言の集会をしていたが、当時、これを伝えるメディアは皆無に等しかった。その後「5月広場の母の会」が国際的に有名になった。今も毎週木曜には白いスカーフをまいた女達が集まっているそうだ。数千人規模の誘拐が政府主導で行なわれていたことが公然となったのはそれから何年もたってからだった。誘拐された子供の多くは、政権を支持していた富裕層に売られた(現在も裁判で係争中のケースがある。実態の解明は、未だにされていない)。大会が開始される1ヶ月前には、組織委員長の大佐がテロで爆死している(つまり内戦中に開催された大会だったのだ)。


 34年のムッソリーニの大会と同様、不可解なレフェリングが多かったが、軍事政権下で行なわれる大会の宿命だろう。後にイタリア代表の監督となるトラパットーニは大会後、「アルゼンチン代表は地元開催で無ければ、優勝どころかファースト(1st)・ラウンドの突破も難しかったろう」と述べた。唯一の救いは、哲学者然としたメノッティ監督だったろう。彼の「サッカーというものはない。ただサッカーをする人間がいるだけだ」は至言である。



 アルゼンチンをめぐる不可解なレフェリングは、1stラウンドの対フランス戦から始まった。アルゼンチンには不必要なペナルティ・キック(PK)を与え、フランスには与えるべきPKが与えられなかった。21歳の若き天才プラティニを擁するフランスは、イタリアに続く連敗で大会から去って行った。中でも後に最も議論になった試合は、セカンド(2nd)ラウンドの最終戦で起きた。


 勝ち点で並んだブラジルが昼間ポーランドに3−1で勝ち、夜の試合でアルゼンチンがペルーに4点差以上で勝たないと決勝行きが断たれるという状態だった(同じ時刻でのキックオフをブラジルは主張したが、通らなかった)。1stラウンドでイタリアが1位通過し、2位通過のアルゼンチンがブエノスアイレスではなく、田舎のロサリオで戦うことになったことも(後になってみれば)幸いしただろう。そしてペルーはアルゼンチンに6点を献上したのだ(ペルーのGKはロサリオでプレーしていたアルゼンチン生まれだった!)。


 ちなみに、この時のFIFAの審判委員長はアルテミオ・フランキ。そう、フィレンツェのホームスタジアムは彼にちなんで名付けられたのだ。後にUEFA会長になったが、80年代にスイス山中で不可解な怪死を遂げている。計画的な殺人ではないか、と噂された。追悼のために85年に南米チャンピオンと欧州チャンピオンが戦い、アルテミオ・フランキ杯が勝者のフランスに渡された。第2回は93年に開かれ、アルゼンチンとデンマークが引き分けた(それ以来、開かれていない)。


これだけのことが重なれば、大会が盛り上がる方が不思議だろう。


 ただ、ビジネス的には別だ。1974年の西独大会と78年のアルゼンチン大会では、ピッチ脇の広告看板のスポンサーから、ビジネス構造の変化が確認できる。西独大会には西独の会社しかなかったのが、アルゼンチン大会には、コダック、コカコーラ、そしてキャノンなどの国際的な企業が顔を出した。これは国際的なTV露出がビジネスのベースになったことを示している。この国際的なスポンサープロモーションを行なったのが、英国のウエスト・ナリーという会社。ウエスト氏とナリー氏が共同設立した会社だ。これは大成功を収めた。ワールドカップの広告看板スポンサーの価値がはっきりと認識されたのだ。この手法に目をつけたのが、アディダスの二代目総帥、ホルスト・ダスラー氏であり、ロス五輪の組織委員長のピーター・ユベロス氏だった。そして、いよいよスポーツのビジネス化が完成する80年代に突入する。次回はそこから。


Photo by 不明 [Public domain or Public domain], via Wikimedia Commons