W杯ブラジル大会開幕間近特別企画「World Cupのアルケオロジー」 ■No.12:「トータル・フットボール」の誕生~そして「美しいサッカー」の敗北と「勝つサッカー」の勝利(広瀬一郎)
1974年のWカップは西ドイツで開催された。今や「西ドイツ?何それ?」と聞いてくる学生は少なくないが…、それはさておき、この大会から2ndラウンド(セカンド・ラウンド)方式が採用された。1stラウンド(ファースト・ラウンド)のグループリーグで勝ち上がったチームが、二組に分かれてセカンド・ラウンドのグループリーグを闘い、各組の1位同士が決勝を行なうのだ。
大会の白眉は、オランダ代表のトータル・フットボール。クライフはアヤックスでミケルス監督とともにトータル・フットボールを完成し、1971年、72年、73年と欧州チャンピオンズカップで3連覇を果たした。それをオランダ代表チームも採用したのだった。とにかく華麗で強かった。
クライフ以前は、バックスが攻撃に参加するなど考えられなかった。「なぜ、そんなにアブナイ事をする!」と叱られたものだった。それが、アヤックスの場合、クライフは最後尾で守備をしていると思っていたら、中盤でラスト・パスを出したり、自ら得点もする。マークしづらいったらありゃしない!のだ。
しかもニースケンスを筆頭に、全員滅法足が早かった。攻撃に転じた時、チーム全員が一つの生き物のように動く。それも縦のみではないし、横のみでもない。クライフを中心にグルグルと回るのだ。ブラジルのサンバのリズムのサッカーも楽しいが、クライフのアヤックスとオランダ代表は、実にスペクタクルだった。
クライフの逸話はいくつもあるが、一つ紹介しよう。彼がバルサの監督だった時、アメリカのワールドカップで名をあげたブルガリアのストイチコフを採った。暴れん坊のストイチコフに、「オマエは下手だから、ボールをもらったら、とにかく逆サイドに向かって蹴れ」と指示した。あの名手ストイチコフに!そして「見本を見せるぞ」とクライフが逆サイドへ走ったストイチコフめがけてボールを蹴った。5回蹴って、全てのボールが寸分の違いなく、ストイチコフの足元に収まった。それをきっかけに、ストイチコフは練習からゲームまでクライフの指示に素直に指示に従ったそうだ。
当時、練習の最後にミニゲームをすると、ゲスト参加のクライフ監督が一番上手かったそうだ。92年に欧州チャンピオンとしてトヨタカップに来日し、南米チャンピオンに苦杯を喫す。試合後のインタビューで、「何だ、あの芝は!倒れたらシャツが緑になったぞ。緑の塗料を塗ってごまかしたピッチで、欧州チャンピオンは戦えない!」と憤懣仕切り。翌年にJリーグが始まるまで、国内では冬のピッチは枯れていたのだよ。閑話休題……。
この大会のもう一つの注目チームがポーランドだった。ポーランドは、その二年前のミュンヘン五輪で、圧倒的な“早さ”で優勝していた。このチームには、100m10秒台の俊足ラトー、中盤はディナとガドーハが支配していており、一旦調子に載せると手がつけられない爆発力があった(1986年のデンマーク代表に似ていた)。
ポーランドは、1stラウンドの最終戦で強豪イタリアを敗退させたが、内容的にも圧倒していた(この試合でイタリア最後の得点をあげたのが、後にユベントスの監督からイングランドの監督に転出するカペッロだった)。2ndラウンドの最終戦は地元の西ドイツとの対戦。両者とも2連勝していたから、事実上の準決勝だった。54年のスイス大会決勝に続いて、天は西ドイツに味方をした。酷い悪天候で、ポーランドに身上の“早さ”を出す機会を与えなかったのだ。
ところで、このポーランドはミュンヘン五輪の優勝チームだから、全員がアマチュアだった(はずだ)。当時のIOC憲章では「出場資格はアマチュア」という規定がまだあったのだ。五輪の優勝はともかく、Wカップでは、優勝した西ドイツにしか負けておらず、3位決定戦でブラジルを破って堂々の3位だ。五輪優勝後、余りの強さから「本当にアマチュアか?」と世界から疑問の声があがった。ポーランドのサッカー協会は、「社会主義国にはプロ・リーグがないから、選手も全員アマチュアだ」と答弁した。ここから社会主義国の「ステーツ・アマ」という問題が起きる。国が抱えている事実上のプロだが、「資格はアマ」だった。
もう一つの問題が、「企業アマ」。企業が抱える事実上のプロだが、これも「資格はアマ」。これは、我が国日本のスポーツに対する批判だ。ミュンヘン五輪で「ステーツ・アマ」のポーランドがサッカーを制し、「企業アマ」の日本がバレーボールを制した。不公平じゃないか、との批判が起きる。当然だ。結局、ミュンヘン五輪の翌年に開かれたIOC総会において、オリンピック出場資格の「アマチュア」という条項の削除が決定され、1974年から発効されることになった。が、次のモントリオール五輪の予選は既に進行しており、事実上「アマチュア資格」は活きていた。
その次の80年はモスクワ大会で、ソ連のアフガン侵攻に抗議してアメリカは出場をボイコット。日本やその他の西側諸国も追随して、「アマチュア資格」どころの話ではなくなった。そして、この問題は84年の民活五輪第一号となるロス大会で、ついに浮上した。参考競技ではあったが、女子テニスで当時世界ランク1位のシュティヒ・グラフが優勝したのだ。有名なプロ選手が五輪で優勝! この事で世界の人達が「五輪にプロが出場できる」という事実を知ることになった(別に隠していたわけではないだろうが……)。
おどろいたのは日本サッカー協会だった。五輪至上主義の我が国スポーツ界で、「メキシコ五輪の銅メダル」が半分トラウマになって、「とにかくもう一度、五輪出場を!」が合い言葉となっていた。Wカップなんぞ眼中になかったのだ。「プロでも五輪に出られる」という事実は、これまで「プロ・リーグ創設」反対論の最大の論拠を崩すことになった。JOCが「出場資格は各協会に任せる」と発表した直後の1985年、「プロ・リーグ設立検討委員会」が設立された。それが1993年のJリーグ創設につながることになるのだ。
後のスポーツの商業化へのターニング・ポイントになる出来事は、1974年にもう一つ起きた。FIFAの会長が史上初めて非ヨーロッパから選出されたのだ。会長在籍最長となるブラジルのアベランジェ会長の誕生だ。「アマチュアリズム」は「スポーツの純粋性を保つ」という名目で、善し悪しの判断はともかくとして、スポーツの商業化を食い止めてきた。「アマチュアリズム」は、元々アングロサクソンの論理であり、ラテンの人達にとっては、スポーツは「美しく」「楽しく」あれば良いのだ。その「美しさ」と「楽しさ」ゆえに、ビジネスになるならそれでいい。一体何が悪いのか? 後に、IOCの会長がサマランチになり、国際陸連の会長はイタリアのネビオロになり、国際バレーボール連盟に会長はメキシコのアコスタになった。そして、スポーツはラテン・マフィアに乗っ取られた、と言われるようになった。
FIFAは欧州に誕生した。そしてアフリカは地政学的な問題から、常に欧州に追随していた。理事の構成は、欧州が8人で残りの4大陸は各3人の計20人だ。欧州とアフリカが結託すると過半数の11人となる。つまり、アフリカを欧州から切り離さない限り、欧州の主導権は動かないのだ。現在のブラッター会長(出身はスイス)は、アベランジェ政権の継承者として、アフリカへの配慮を常に怠らない。
ブラジル出身のアベランジェ氏がアフリカを取り込むために利用したのが、70年のWカップで世界的なスーパースターとなったペレだった。ペレを擁するサントスをアフリカ遠征させたのだ。どの試合も満員御礼である。興行元のアフリカの各協会は潤った。協会がまだなかった地域では、この興行収入を協会の設立資金にしたところもあった。また、アフリカ進出を目論んでいたコカコーラとコダックがサントスの遠征のスポンサーにもなった(コカコーラとコダックの二社はFIFAのスポンサー第1号だ。日本からは78年のアルゼンチン大会からKキヤノン社が参画)。
こうしてアフリカを取り込む事に成功して、政権を掌握したアベランジェ氏は、就任直後にFIFAの財務強化案を発表した。それまでFIFAの収益源は「ワールドカップ」と「ワールドユース」の世界選手権2つだけだった。アベランジェ氏は、これに「ワールド・ジュニア・ユース(後のU-16)」「女子ワールドカップ」「ワールド室内(後のフットサル)」の3つの世界選手権の創始に着手した(ちなみにアベランジェ氏は、中南米のメディア・コングロマリットのオーナーであり、この会社がWカップの放送権料の南米各国の負担を決めていた。一家はかつてポルトガルの軍事政権であるサラザールと関係を持ち、蓄財したと言われている)。
更に、世界戦略の一環として、当時のGDP世界1位のアメリカと2位の日本にプロ・サッカー・リーグを創設する戦略を立てた。1994年のW杯アメリカ大会開催は、「プロリーグの創設」が条件だった。そして、MLS(メジャー・リーグ・サッカー)が95年にスタートした。日本も「プロリーグの創設」と「ワールドカップ開催」の2つがJFAの目標と正式決定した、全てアベランジェ会長の目論み通りだった(見込み違いだったのは欧州の反発の強さだった。それは2002年大会の「日韓共同開催」という思わぬ形として結実した)。
重ねて言うが、「五輪参加資格としてのアマチュアが削除されたこと」と「アベランジェ会長の就任」は、まさにスポーツビジネスのターニング・ポイントで、これが両方とも74年に起きたことは、単なる偶然とは言えないのだ。それは大衆消費文明化社会の到来を予言するものだったと考えられよう。
話を74年の西ドイツ大会に戻す。決勝は地元西ドイツ対クライフのオランダ。開始直後、ゆっくりと様子見で始まった……かと思いきや、突然中盤からクライフがドリブルで切れ込む。鋭い。クライフに密着マークを命じられていたフォクツが足を出したが間に合わずファウル。PKエリア内だからPK。オランダがキックオフしてからPKを決めるまで、相手の西ドイツは一度もボールに触れていない。「ノータッチ・ゴール」の伝説が生まれた。
しかし、この後、クライフは姿を消す。西ドイツのフォクツが奮起して、まさにスッポンのように密着し始めたのだ。クライフが負傷して一旦ピッチの外に出たが、そこまでフォクツははり付いていたのだから徹底している。結果は爆撃機ゲルト・ミューラーが決勝点を入れ、2−1で西ドイツが優勝した。「美しさか、それとも勝利か?」というサッカーで議論される最大のテーマが、この試合から生まれたと言っても過言ではない。これは「勝利」が相対的に価値を上げてきたという事の反映だ。かつて、全てのスポーツでは、「美しく戦う」ことがゲームの目的だった。それがアマチュアリズムの本質だったのだ。
アマチュアとは、本来決して「資格」の問題ではなかった。産業革命の進行により、労働者が一般化する。労働者とは労働を時間単位で提供し、給与を得る者だ。ここで「労働」とそれ以外の「余暇」が分離する。つまり「余暇」が一般化した。19世紀の中葉のことだ。余暇を得た労働者が熱中した一つがスポーツだった。そして、その勝敗は常に賭の対象になった。ここでスポーツの意味、目的が変化した。「勝利」はスポーツの主要な目的として浮上する。これに対し、従来のスポーツの担い手だった有閑階級が反撃する。そして「アマチュア」を資格としたのだ。
当初、労働者チームは日曜の休日にゲームをするのみで、練習時間がとれなかった。パブリックスクールのOB 達のチームには太刀打ちできなかった。そこで労働者達は、選手に練習をさせるため、工場を休んで失う給与を仲間達が割り勘で負担したのだ。勝てば「賭け金」が入ってくる。練習して強くなった労働者チームは、パブリックスクールのOBにも勝つようになった。「サッカーの練習日に給与がもらえるのは、アマチュアではないからプレーする資格はない。我々はアマチュアとしかゲームをしない」と来たもんだ。本音を隠した論理を「イデオロギー」と言う。つまり「アマチュアリズム」は典型的なイデオロギーだったのだ。それをWカップの創始者ジュール・リメは見抜いていた。そして「プロ、アマに関係ない、真の世界選手権」を創設した。それが「ワールドカップ」なのだ。
74年の西ドイツの優勝は、「美しさよりも勝利優先」という風潮を作る。ペレが優勝した70年の大会を最後に、74年の西ドイツ、78年のアルゼンチン、82年のスペインと、大会で一番美しいサッカーをするチームの優勝が無くなる。この頃は、Wカップの大会毎に世界のサッカー戦術の潮流が改められていた。Wカップは最新のサッカーのショーケースでもあったのだ。世界のサッカー関係者は、最新の潮流をWカップで確認していた。そして、「美しいサッカーの優勝」は86年にマラドーナが出て来るまでお預けとなってしまった。
Bundesarchiv, Bild 183-N0716-0314 / Mittelstädt, Rainer / CC-BY-SA [CC-BY-SA-3.0-de (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/de/deed.en)], via Wikimedia Commons
ADN-ZB-Mittelstädt-16.7.74-wen-München: X. Fußball-Weltmeisterschaft- Endspiel BRD gegen Niederlande 2:1 am 7.7.74- Johannes Cruyff (Niederlande, Mitte) setzt sich hier gegen die beiden BRD-Spieler Berti Vogts (2.von links) und Uli Hoeness (rechts) durch.