W杯ブラジル大会開幕間近特別企画「World Cupのアルケオロジー」 ■No.11:1970メキシコ大会「ジュール・リメ杯」有終の美とサッカー大革命
1970年大会の開催地はメキシコ。この決定は、64年の東京五輪で併催されたFIFA総会で決定した(この頃、開催地は総会での決定事項だった。ちなみに「2002年大会の決定」は理事会で行なわれた。理事は欧州だけ8人、残りの4大陸が各3名の計20人で、10対10で割れた際のみ会長が投票権を持つ、というルールだった)。
メキシコは、FIFA総会でアルゼンチンとの決戦投票となり、56対32(棄権7)で勝利。68年の五輪開催がメキシコシティであることと、アルゼンチンの経済危機が「決め手」だったと言われている(激しいロビー活動による戦いが繰り広げられ、東京では相当な現ナマが飛び交ったらしい)。
この大会からテレビのカラー放送が始まった。世界はペレを筆頭にしたスーパースター達のプレーを原色で堪能し、酔いしれたのだ。この大会は世界的なスーパースターが、まさにキラ星の如く生まれた。それは彼らのプレーが本当に凄かったこともあっただろうが、「TVの普及」という背景が無ければそうはならなかったのではないだろうか?
当時、中学校のサッカー部員であった筆者が今でも覚えているのは、「ペレの一人スルー」である。ウルグアイとの一戦で、バックラインの裏に抜け出たペレにパスが出た。GKは名手で黒豹と言われたマズルケビッチ。彼は、判断よく、ペレにパスが出た瞬間に間合いを詰めていった。次の瞬間に起きたことは世人の常識を越え、度肝を抜いた。何とペレはボールをトラップせず、味方が誰もいない前に向かってスルーしたのだ! ボールはマズルケビッチの脇を抜け、ペレはそのままゴールに向かう。そして、ゴールの手前5mくらいで追いつき、無人のゴールにシュートをし、しかも何と! それを外した! 確かに角度はなかったが、インサイドで流せば緩やかなゴロでも入るはずのゴールをペレが外した? 時間にして5秒もかからなかったそのプレーで、筆者の頭は全く混乱に陥ってしまい、整理ができなかった記憶がある(一体、何が起きたんだ!)。
その他にも、アルゼンチンを予選敗退させたペルーには、まるでサッカー選手とは思えない小太りのクビジャスがいたし、前回優勝のイングランドには、史上最高のGKゴードン・バンクスがいた。対西ドイツ戦では、名将ラムゼー監督はなぜかバンクスを起用せず、2−0と一旦はリードしたものの、3点を奪われて敗退した(バンクスを起用したら絶対に勝っていたゲームだった!)。
その西ドイツには、あの「皇帝」、フランツ・ベッケンバウアーがいたし、小さいのにヘディング勝負のウベゼーラー(ツルツルした頭頂部を利用したバック・ヘッドの達人だった)がいて、“爆撃機“のゲルトマイヤーは準決勝の対イタリア戦の延長戦で彼自身の10点目を決め、大会の得点王になった。準決勝の対イタリア戦は、伝説となる死闘。右肩を脱臼したベッケンバウアーが腕を包帯でつりながらプレーした姿はその象徴だ(腕をつったまま、ゴール前でダイビングヘッドでクリアーした姿を見て、何人の人がテレビの前で涙したろうか)。
しかし、何と言っても素晴らしかったのは、決勝のブラジル対イタリア戦だし、優勝チームのブラジルを凌ぐ話は無い。アホな監督が大会直前でペレを代表から外そうとして、自分が更迭された。つまり、直前に作ったチームだったにも関わらず、その力は圧倒的だった。そのプレーはサンバのリズムだった。直前に監督を任されたのがザガロであり、選手と監督の両方で優勝した最初に人となった。サイドにはジャイルジーニョがいた。とにかくドリブルで抜くのだ。中盤には白いペレと言われたトスタンと、「左足のマジシャン」リベリーノがいた。キャプテンはDFのカルロス・アルベルト。決勝で右からあがってきたところにペレがボールを流して、ダイレクトで放った強烈なシュートは今も語り草になっている(息子が一時、グランパスにいたっけ)。
以前にも書いたように、ジュール・リメ杯は3回の優勝チームが永久保存することになっていた。そしてブラジルとイタリアの両チームとも、1970年の決勝で勝つと3回目の優勝だった。結果はブラジルが勝ち、ジュール・リメ杯は永久保持となり、次の大会から優勝杯は文字通りの「ワールド・カップ」になった。その後に大会が、そしてサッカーの地位が、否、サッカー自体が変ってしまった。
筆者は、カップの変更は「大会の変身」を象徴したものと考えている。無論、それは後になって気づいたことだ。1970年のこの大会後に変ったのは、まず「サッカー」そのもの。ここまでは基本的にディフェンスとオフェンスが別れていた(だから、ディフェンダーのカルロス・アルベルトやベッケンバウアーのシュートは常識外の出来事だった)。それが1970年代にクライフのアヤックスが「トータル・フットボール」で欧州のサッカー界を席巻し、3連覇する。クライフ以前と以降とでは、サッカーが違うのだ。
かつて、サッカーが誕生したころは、「ドリブル」のゲームだった。その後、本家のイングランドで「パス」が始まった。それを知らないヨーロッパ大陸に遠征したイングランドの学生チームは、各国の代表チームと戦った。何しろ当時は「御本家」と戦えることなんぞ、滅多にないことなので、各国の代表は「是非とも御手合わせを」と対戦を申し込んだ。自分達のサッカーの出来具合をチェックしたかったのだろう。結果は御本家の学生チームの全勝。御本家は大体10点前後の得点で圧勝した。
「パス」なるものを見せつけられた大陸の選手や観客は唖然としたに違いない。その後のクライフのトータル・フットボールも、それくらいの衝撃だったのだ(ちなみに筆者の母校「藤枝東高校」は、日本の高校で初めて「スイーパー・システム」を採用し、サイドバックのオーバーラップを行なった。つまりトータル・サッカーをいち早く採用していた。対戦相手はバックがあがって来るのに対応できず、1975年の正月の選手権で優勝した。決勝は浜名高校と対戦。静岡県同士での決勝だった。当時はインター杯の優勝校はシードされて選手権の出場資格を得ていた。浜名高校は74年のインター杯を制していた(その決勝を見て、筆者は藤枝東高校進学を決めたのだった)。
サッカーが変ったのはクライフという偶然の産物だったが、70年代の世界経済の発展がサッカーに影響を及ぼしたのは必然だった。次回はそこから。
PHOTO Brazilian team before the match against Peru in 1970 WC. The same players would play the final against Italy. From left to right: Carlos Alberto Torres, Brito, Piazza, Félix, Clodoaldo and Everaldo; Jairzinho, Gérson, Tostão, Pelé and Rivelino.
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