W杯ブラジル大会開幕直前特別企画World Cupのアルケオロジー ■No.10サッカーの母国イングランドで初開催1966年醍回大会)
Wカップは第8回大会を迎えて、ついにサッカーの母国、英国で開催されることになった。
サッカーの母国である最大の優遇は、4協会の存在。FIFAは1カ国1つの協会しか許していないが、英国だけは「イングランド」「ウェールズ」「スコットランド」「北アイルランド」の4つの協会がFIFAに加盟している。4つともFIFAが創設される前に、設立されていた。そして、FIFAへの加盟の必要を全く認めていなかった英国を引き込むために、FIFAは妥協を余儀なくされたわけだ。
(国ではなく地域が協会として加盟している例外はいくつかある。今年のブラジル大会の出場資格を争う予選で、待望の1勝をあげるまでFIFAランキングのブービーメーカーが定位置だった「アメリカ領サモア」もその例外の一つだ。その1勝をあげた試合はドキュメンタリー映画『ネクスト・ゴール』として現在公開中。オンデマンドとしても配信されている。)
サッカーの本家のワールドカップのデビューは、戦後のブラジル大会だった。当然ながら優勝候補と目されていたが、「ほろ苦いデビュー」となった。何よりも「苦かった」のは、リーグ戦の第2戦でアメリカに苦杯を舐めたことだったろう(楽勝と考えたイングランドはメンバーを落として臨んだ。サーの称号を得たあのスタンリー・マシューズを起用せずに負けたことが、後々の語り草になってしまった。マシューズは、50歳で現役を終えるまで、一度もイエローカードをもらっていない。ペレが「全ての選手の模範」と賞賛した選手だ。「サー」の称号に相応しい(編集部註:「ドリブルの魔術師」と呼ばれた名フォワード。1950年に第1回バロンドール=欧州年間最優秀選手=受賞。17歳から50歳まで第一線で活躍し、33年間のプレーの中で一度も警告を受けなかったという)。
サッカー選手としてサーの称号をもらった人は他にもいる。マンチェスターユナイテッドの監督を長く務め、黄金期を作ったファーガソン監督もその一人。ちなみに、筆者はサー・ボビー・チャールトンと二人きりで4時間超過ごしたことがある。2002年大会の招致で日韓は争っていたおりのことだった。1995年12月のFIFA総会の前に両国のプレゼンテーションが行なわれた。日本はゲストとしてサー・ボビー・チャールトン(編集部註:マンチェスター・ユナイテッドで通算最多得点記録を持つ名選手。もちろん66年W杯優勝メンバーの一人)を招いていた。
この時パリはゼネストで、タクシーに乗ると30分で300mしか進まない…という酷い情況。筆者はプレゼンが終わると、一刻も早くパリを離れようとしてタクシーに乗り込もうとする。すると、「乗せてってくれ〜」と入ってきたのが、誰あろう「サー・ボビー・チャールトン」その人ではないか! 普段は40分で着くシャルル・ドゴール空港だが4時間を見込んでいた。が、4時間半かかってしまったので、ロンドン行きの最終便はカウンターに到着した時に既に離陸体制に入っていた! さあ、困った。すると、BA(ブリティッシュ・エアライン)のカウンター嬢が「国内線のブリティッシュ・ミッドランドでロンドン行きが15分後に出ます」と。そこで、筆者は、「この方は、恐れ多くも、かのサー・ボビー・チャールトンである。今からそっちに向かうので、ブリティッシュ・ミッドランド航空社に待機するよう伝えよ!」と。同機は結局10分遅れで出発し、我々は無事にその晩のうちにロンドンに辿り着いた。あのボビーと二人きりでタクシーに同乗し4時間半、という夢のような時間だったが、覚えているのは「私をボビーと呼んでくれ」と「うちの娘がBBCでお天気お姉さんなんだよねえ」だけ。何だかなあ……興奮しすぎたかなあ……。
話を66年のイングランド大会に戻して……。
元祖イングランドは毎回、優勝候補として名を連ねるのだが、本大会ではたいした成績を残せないまま、自国開催を迎えたのだった。「今度こそ!」の期待は否が応でも強まり、結局初制覇を成し遂げる。決勝の「ハーストの疑惑のゴール」は伝説になった。サッカーファンなら誰でも知っている、クイズで言うなら超簡単なレベルの話なので、ここでは割愛触する……と書きながらも、少しだけ説明しておくと、決勝となった対西ドイツ戦で、2-2の延長戦となった前半、イングランドのジェフ・ハースト選手の放ったシュートはクロスバーを直撃して真下に落ち……明らかに……しかしゴールは認められ……ハーストはさらにゴールを決め……ワールドカップ史上初の決勝でのハットトリックを……という試合でした。
その決勝戦が行なわれた聖地ウェンブリーが、ロンドン・オリンピック開催をきっかけに改修されるため、取り壊されることになったとき、最後の試合は、「イングランド対ドイツ(当時は西ドイツ)」だった。英国人にとっても忘れられない一戦だったことがわかるが、ここでドイツはリベンジを果たした。
新しいウェンブリー・スタジアムはロンドン五輪に間に合った。一言で言えば「巨大」。建設予算は、当初の予算を大幅に越え、7億8千万ポンドとか。建設費は史上最大だ。(予算の大幅なアップについては、FAとロンドン市と英国政府の間で責任のなすり付け合いがあったが、解決したのだろうか?)収容人員は9万人でバルセロナのカンプ・ノウ(9万9786人収容)に次ぐ(今年になってカンプ・ノウのリノベーションがソシオの投票で正式に決定した。完成は2021年の予定。現在でも欧州一のキャパなのに、更に大きくなって10万5千人規模になるんだとさ!)。
ウェンブリーのスタジムの周りにはホテルが3軒あり、まるで一つの町だ。ロンドンの中心部から電車で30分弱で駅に着く。駅からコンコースを歩くと、まずトンネルをくぐる。トンネルを抜けるとそこは雪……ではなく巨大な建造物が視界を占める。ま、ケルンの大聖堂並のバカでかさですよ。周りのコンコースにはかつての名選手の銅像が立つが、一際大きな像が、ムーア。66年大会のキャプテンだ。サッカーの母国が自国開催とは言え、一度きりの優勝を遂げた時のキャプテンだから、プライドの象徴でしょうね。
(つづく)
PHOTO:The Queen presents the 1966 World Cup to England Captain, Bobby Moore.
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