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日本のスポーツ・ジャーナリズムは「スポーツ界の差別」を批判できるのか?!(玉木正之)

アメリカのプロバスケットボールチームのオーナーが黒人差別を口にしたり、サッカーのスペインリーグでブラジル人選手に向かってバナナが投げ込まれ、オマエは猿だという人種差別行為が行われたり、日本でも浦和レッズのスタジアムにJapanese onlyと書かれた国籍差別の横断幕が掲げられたり……。

そこで「何故スポーツ界では差別的行為が多いのか?」と多くのメディアから訊かれた。が、この質問は間違っている。スポーツ界に「差別」が多いのではなく、一般社会に存在しながら隠されている差別意識や差別行為を、スポーツがあぶり出したのだ。これはスポーツに備わっている素晴らしい特性と優れた機能であり、文化としてのスポーツの存在価値を示すものとも言える。

世界中に広がった近代スポーツという文化は、参加者の平等性が大前提となっている。スポーツへの参加者は、選手も指導者も管理者も観客も誰もが、人種・民族・国籍・学歴・出自・性別・身体的障害などなど、個人の属性を一切問われることなく、誰でも参加できるということが大原則となっているのだ。

性別や障害など、体力に優劣の差が生じ、属性によっては一緒には競技できないスポーツもある。が、その場合はルールによって別々に同じ種目を競技できるよう配慮することになっている(近年オリンピックに、女子棒高跳び、女子3000m障害走、女子ハンマー投げ、女子レスリング、女子ボクシング、女子サッカー……等々、かつては男子しか行われなかった種目に、女子の新種目が加わったのは、男女平等の大原則を実践した結果と言える)。

こうした考えからオリンピックやサッカーのW杯のような世界的イベントでは、すべてのあらゆる「差別」を「反スポーツ的行為」として排除することが徹底されるようになってきた。しかもスポーツは、参加者全員を興奮させ、「理性」の下に隠された「感情」を引きずり出す傾向が強いので、一般社会では「建前」の下に隠蔽されていた「本音」の露出することが少なくない。

従ってスポーツで露呈した差別意識や差別行為は、現代の社会に存在している差別だと再認識し、スポーツを通して社会を改善していく方向へ向かうべきだろう。

その意味では、六大学野球や高校野球、箱根駅伝や全日本柔道選手権……等々、日本の人気スポーツ・イベントの多くに潜む「反スポーツ的差別性」にも、我々はそろそろ気づき、反省し、スポーツ・ジャーナリズムは、女子スポーツを無視し続けているスポーツ団体や、一部の大学のみにスポットライトを当てているイベントのあり方……等々に批判の声をあげるべきだろう。でなければ、黒人差別発言をしたNBAのオーナーや、バナナを投げたスペイン・リーグの観客や、JAPANESE ONLYの垂れ幕を出したサポーターたちに対する批判も、「本音」ではなく「建前」だけで終わってしまうに違いない。

(毎日新聞「時評点描」+Camerata di Tamaki ナンヤラカンヤラ+NBSオリジナル)
PHOTO by Šarūnas Burdulis (Flickr: Europa Square) [CC-BY-SA-2.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0)], via Wikimedia Commons