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サッカーW杯予選、日本代表は過去の教訓を覚えているか?(上杉隆)

この内容は2010年7月1日にダイヤモンドオンライン「週刊上杉隆」に掲載された、当時南アフリカワールドカップのパラグアイ戦の敗戦直後に書いた記事です。
結果に関係なく「感動」を押しつけるメディアの報道に警笛を鳴したこの記事を、今一度読み返してみてください。

ワールドカップ敗退で歓喜している国に、ベスト4など永遠に無理な話だ

日本が敗れた。南アでのワールドカップサッカーのベスト16での戦い、PKの末にパラグアイに惜敗した。

翌日の新聞は一面トップでこの「悲劇」を伝えている。また、朝の情報番組を観れば、司会者やコメンテーターが口をそろえてこんな風に語っている。

「感動をありがとう」

「勇気をもらいました」

「日本代表にお礼を言いたい」

一般人ならまだしも、スポーツ報道を扱うメディアの人間にしては、またずいぶんと安上がりに感動するものである。

どうも、この種の言葉に違和感がある。仮にも公共の電波を使って、「感動したり」、「お礼をしている」ヒマがあったら、日本の敗因、もしくはパラグアイの勝因について、解説の一つでもしてもらいたいものだ。

歓喜に沸く日本の中で 冷静な批判は難しいのか

そもそも、今回の日本代表の戦前の目標は、ベスト4であったはずではないか。それは岡田監督自らが設定したものである。

にもかかわらず、結果はベスト16であった。善戦したとはいうものの、自ら目指した目標に到達しえなかったのは間違いない。それならば、なぜそうした結果に終わってしまったのか、という点をサッカージャーナリズムは分析しないのか。

一般のファンならば仕方がない。しかし、まがりなりにもメディアの人間であるならば、そしてサッカーを取材している者であるのならば、ファンと一緒にお礼をしていないで、自らのやるべき仕事をきちんとこなすべきである。

前日本代表監督のオシム氏は試合後、スカパー!の番組の中でこう語っている。

「改善すべき点は多くあった。決勝に入ってパラグアイのように勝てる相手と当たったのに、この結果はきわめて残念です。本当に勝ちにいったのか、残念でならない。勝つために必要なことをしたのかというとそれはない。後半は個々人がチームを無視した動きをしてしまった。この教訓をどう引き出すか。次のワールドカップを考えるのならば、きょう、この負けた瞬間から考えなければならない」

歓喜に沸く日本の中で、こうした冷静さを保つのは難しいことかもしれない。

だが、サッカージャーナリズムはそれによって口を糊しているのだ。浮かれている場合ではない。自らの仕事を遂行すべきなのだ。

民放のテレビ局だけではない。NHKの解説者までもが同様に応援団と化したことは、いつものことではあるが極めて残念である。

「勇気をもらった」という素人のようなコメントをアナウンサーまでもが連発し、ひどいことにサッカー解説者まで同様に呼応する。

はっきり言おう。パラグアイ戦の、とりわけ後半で、いったいどこに勇気があったというのか。ピッチで戦っているイレブンに文句を言っているわけではない。戦術をあずかる岡田監督に対して、そう思うのだ。もう一度、オシム氏の言葉を引こう。

「FIFAにもう一度検討してほしい。ルーレットのようなPK戦に臨まなければならない選手の気持ちを考えてほしい。そして、日本チームはそれでも、ここまでしかこられなかったという結果を噛みしめるべきだ。もう少し勇気を持っていれば違った結果になったかもしれない。サムライのようにカミカゼのように勇気を持つべきだった。ピッチの上では命まで取られることはないのである」

南米や欧州のサッカーが強いのは、こうした敗戦の中から教訓を探し、未来につなげてきたことにある。

スポーツジャーナリストが 育ちにくい日本

確かにファンは熱狂する。だが、メディア、とりわけサッカージャーナリズムの中の者は、そうした雰囲気の中でも敗因をみつけ、将来のチームのために、あえてそれを提示してきたという過去がある。サッカージャーナリズムが、あえてその憎まれ役を演じてきたからこそ、自国のサッカーが強くなってきたという背景があるのだ。ファンと一緒に感動している場合ではない。あなた方はそれでお金をもらっている。立場が違うのである。

「カメルーンに一勝したときに巻き起こった陶酔状態について考えるべきだ。ゴールをした選手だけに注目の集まる日本のサッカーは、評論も含めてもっとレベルアップの必要がある」

オシム前監督が、このように健全な批判精神で日本のサッカー界のために語っている裏側(民放裏番組)で、サッカー解説者の一人はこう叫んでいた。

「俺たちは誰ひとり代表選手を責めない。日本の誇りだ。胸を張って帰ってこい」

このセリフを聴くに及んで、日本にはスポーツジャーナリストが育ちにくいことを改めて確信した。なぜ、日本のサッカー報道はいつもこうなのだろうか。

ベスト8の出揃ったワールドカップは、まさしくこれから佳境に入る。世界最高レベルの選手たちが、世界最高の舞台で、最大の実力を出しきる真剣勝負の時がやっと始まるのだ。

サッカーというスポーツを本当に愛し、日本チームのことを思う者であるならば、敗退した日本代表と、ベスト8に残った上位国の代表のプレーにどのような違いがあるのかを知りたいはずであろう。まさしくそれを知ることが今回の日本の敗因を分析する最大のチャンスにもなるのだ。

少なくとも相手国であったパラグアイの個々の選手が、なぜ足元、身体の近いところで長くボールをキープすることができるのか程度は、研究してほしいものだ。

すべてのサッカー評論家やサッカージャーナリストには、これからのワールドカップの最大の見どころである準々決勝以上の試合について、ぜひとも真の「感動」を私たちに伝えてくれることを期待する。

日本が負けた途端に W杯観戦も終わってしまう

 

にもかかわらず、残念ながら、日本のメディアでは、すでに今回の南ア大会は終わったかのような扱いになっている。

いつものことではあるがが、大会から日本チームや日本人選手が消えれば、それで取材も事実上、終わってしまうのである。

それは、ファンにもいえる。真のサッカーファンであるならば、今後、見られるであろうスーパープレーの数々に、期待で胸をときめかせるのが普通である。

日本代表が敗れたからといってサッカー観戦をやめるのは、それは「サッカーファン」ではなく、単に「日本人ファン」に過ぎない。

そして、そうしたファンに同調してしまうサッカー関係者の多いのが実際であり、それが日本のスポーツジャーナリズムの大方の現状であるのだ。

「明日の日本のサッカーが、今日のサッカーよりも良いサッカーになることを期待している」

オシム氏は自身へのインタビューをこう語って締めた。

オシム氏が特別に厳しいわけなのではない。世界のサッカー界では、この程度の敗戦後の批評・分析は当然に行なわれている。日本だけにそれがないのである。

残念ながら、サッカー評論家たち自らが、敗戦後に「感動したり」、「勇気をもらったり」しているようでは、何年経とうが、私たちが日本代表の「ベスト4」をみることはできないであろう。

 

■ダイヤモンドオンライン「週刊上杉隆」2010年7月1日掲載より転載

http://diamond.jp/articles/-/8609