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W杯ブラジル大会開幕間近特別企画「World Cupのアルケオロジー」 ■第9回 ペレvsステファーノが実現しなかったチリ大会(第7回1962年)(広瀬一郎)

 1962年の大会はチリで行なわれた。ブラジルは開催国のチリを準決勝で破り、決勝では予選ラウンドで0−0で引き分けたチェコを下し、連覇を果たした。予選ラウンドのチェコ戦ではペレがシュート直後に右太ももの肉離れを起こし、ゲーム後に帰国してしまった。

 実は、ラウンドの最終戦であたったスペイン・チームには偉大なステファーノがいたのだが,彼はついに一度も起用されなかった。歴史を語る際、「If」はつきものだが、「If、ペレがチェコ戦で負傷せず、If、エレーラ監督がステファーノを起用していたら」、ワールドカップ史上最大級の語り草になった一戦になっていただろう。何しろ「ペレとステファーノのピッチ上の2ショット」が実現したのだから。

 スペインのエレニオ・エレーラ監督(アルゼンチン出身・フランスとの二重国籍)と言えば、インテルで「カテナチオ」という戦法を採用し一時代を築いた名将だ。当然ながら、スペインも超ディフェンシブな「カテナチオ」戦法を採用した。それが、偉大なステファーノが(超攻撃的なプレイヤーであるステファーノが)一度もワールドカップのピッチに現れることの無かった最大の理由だった。

 エレーラを名将とする人が多い一方で、「サッカーをつまらなくした張本人」だとこき下ろす向きもある。ボール遊びとしてサッカーをプレーしてきた若者が、勇躍プロリーグのセリエA入りすると(そして「カテナチオ」と出会うと)、「プロの現実」として「まずは守備」という考えに直面し、混乱することになる。「現実は美しくない!」と。

 しかも、エレーラはこの大会でも大した成績を収めていない。南米では「人買いの国」として相当な反感を買っていたので、チリ大会でも超アウェー。地元のチリと同じグループに入れられたのも悪意を感じる。実際、イタリアの点取り屋アルタフィーニは、58年の前大会ではブラジル代表として出場していた(現在はFIFAの規定でこんなことは起こらない)。

 この大会で特筆したいのは、TV放送の普及である。チリで行なわれた大会が、欧州でもTV観戦されたのだ。衛星が無い当時、テレビカメラに収録された映像は、飛行機で欧州に送られ、そこのテレビ局で録画放送される。その放送を受けた隣の国のテレビ局が、また放送する。更にその放送を受けた隣が放送する。これを繰り返して、結局欧州がカバーされることになる。これは、地上波の「ランド(陸の)リレー方式」と呼ばれる立派な放送手段として認知されている。

 電波の特性として、国境線に沿ったコントロールはできず、「Split Over」する。私がトヨタカップのプロデューサーをしていた際、海外放送の国数を発表していたが、その数は「放送契約を交わした国の数」ではなかった。ドイツで放送すると、フランスやオランダの西部や、スイスやイタリアの北部では視聴可能なのである。従って、ドイツと契約すると放送国数は7〜8カ国になる。結果として、「この試合は海外の100カ国で放送されています」とアナウンスされることになる。


 第二次世界大戦後、生産は軍事から民事にシフトされ、生産力は急激に上昇する。60年代から70年代にかけて、アメリカを筆頭に先進国では「消費」文化が定着する。何しろ「需給関係」が逆転し、定常的な供給過剰が実現してしまったのだ。「飢え」からは開放されたのだが、「在庫」という新たなリスクに常時見舞われるようなったのだ。

 生産力があがるため市場は常に拡大を指向するが、「需要」には限りがある。この問題を解決するのが、「消費」だったのだ。「消費」とは読んで字の如く「消し、費やす」、つまり「捨てさせる」ことが消費の本質である。今使っているものを捨てさせない限り、新たなモノは買わない。スペースの問題があるので、大きなモノであれば「買えない」のである。

 60年代にGMが一つの答えを出す。それが「モデル・チェンジ」である。10年使えるクルマを、4年に一度「捨てさせる戦略」を打ち出したのだ。買い替えが10年から4年という周期になれば、単純計算で市場規模は2.5倍になる勘定だ。

 「購入」は「欲求(Wants)」によって起こるが、が「消費」は「欲望(Desire)」によるしかない。70年代以降、先進国では限りない「欲望」を再生産する仕組みが完成する。単純に言えば、「マス・プロダクション」と「マス・消費」を「マス・メディア」が繋ぐという基本構造である。

 マスメディアのMassは「大量」でもあり、「大衆」でもある。大衆とは何か?スペインの哲学者オルテガは20世紀初頭に早くも「大衆の反逆」を著し、「自らが義務感を欠いた、高潔心の無い輩」と批判した。「大衆は権利のみを主張する」のである。大衆は「あれが欲しい、これが欲しい」という「欲望」で生きるのだ。そして、「大衆」の本質は「(欲望を実現する)大勢の一員であるという意識」である。

 大衆は「消費」をする。「消費」は「欲望」によって起こる。「欲望」は「情報」により拡大再生産をされる。「欲望」を刺激する最も効果的な「マス・メディア」として60年代以降、テレビは消費文明の支配者として君臨するようになるのだ。

 次回は「テレビとスポーツとの関係」について述べよう。

PHOTO by Revista El Gráfico [Public domain], via Wikimedia Commons