W杯ブラジル大会開幕間近特別企画「World Cupのアルケオロジー」■第8回 ペレ初登場のスウェーデン大会(第6回1958年)(広瀬一郎)
実はこの大会は非常に印象が薄い。前回のスイスに引き続き、またも欧州での開催で、ペレが史上最年少でデビューを果たし、これまで最多の出場と優勝回数を誇るブラジルが圧倒的な強さで初優勝をした……くらいかな?
サッカー・オタクなら、フランスのフォンテーヌが13得点で得点王になり、13得点はいまだに一大会での最多得点記録であること(通算の最多得点記録はロナウド=ブラジルの15点)。レアル・マドリッドではそのフォンテーヌをウィングの位置に押しやる帝王ディ・ステファノが、アルゼンチンからスペインに帰化していた。が、予選で敗退していたことなども頭に浮かぶ(かも)。
ディ・ステファノのみならず、前年に南米選手権で優勝したアルゼンチン代表は、欧州から、特にイタリアのクラブからの選手の引き抜きが激しく、代表の力は落ちており、かろうじて予選は通過したものの、本戦ではさしたる活躍をしなかった。
このころから、クラブチームは代表に選手を出すことを嫌がっていた。20世紀の末になり、欧州チャンピオンズリーグの成功や、放送権バブルによりビッグクラブの力が強くなり、G14(註)が結成されてFIFAに対し「インターナショナル・マッチデー」のスケジュールにもの申すようになったが、クラブと代表の選手の拘束に関する争いの歴史は古いのだ。
(註)ヨーロッパ・ビッグクラブ連合体とも呼ばれる14クラブの圧力団体。2000年9月に発足。02年には4クラブが追加参加。バイエルン・ミュンヘン、ドルトムント、バルセロナ、レアル・マドリッド、ボルト、PSVアウトホーフェン、アヤックス、ユヴェントス、ACミラン、インテル、マンチェスター・ユナイテッド、リヴァプール・パリ・サンジェルマン、マルセイユの14クラブと、レバークーゼン、バレンシア、アーセナル、リヨンの4クラブ(80年代の名選手であるミシェル・プラティニが、2007年UEFAの会長になってから、欧州連盟とビッグクラブとの関係は改善に向かった。プラティニはその手腕を買われ、現在のブラッター会長の有力な後継者とみなされている。この問題は後に詳しく取り上げる予定だ)。
ディ・ステファノをサッカー史上最高の選手という人は少なくないのだが、ペレとは違って一度もWカップに出場していないのが痛い。バルサのメッシはこの3月のレアルとのクラシコでハットトリックを決め、ウーゴ・サンチェスを抜いてリーガでの得点が歴代2位になった(クラシコでの得点数は1位になったはず)。が、1位はディ・ステファノである。相撲で言えば双葉山か大鵬か。筆者もディ・ステファノの現役時代のプレーを観たことがないが、「得点能力も秀でていたが、中盤に下がって決定的なパスも出せる、オールラウンド・プレーヤー」と評されている。
しかし、重ねて言うと、とにかくWカップには出場していないのだ。ペレは4回出場し、そのうち3回もブラジル代表を優勝させている(優勝できなかった大会は、早い段階で卑劣なファウルにより負傷させられて、大会から去っている=1966年イングランド大会)。これだけ見れば、ディ・ステファノよりもペレに軍配はあがるなあ。
スウェーデン大会の決勝は開催国のスウェーデン対ブラジル。先制点は開始直後にスウェーデンがあげたがその6分後にはガリンシャとババのコンビでブラジルが同点に持ち込んだ。このコンビで追加点をあげて前半は2−1で折り返す。
そして、後半にあの語り草となっているプレーで、ペレがスウェーデンにとどめを刺したのだ。センタリングを胸で受けて、ディフェンスの頭越しにボールを裏にあげ、そのままボレーで突き刺したあのゴールである(85年のトヨタカップで、ユベントスの10番を付けたプラティニが同じようなプレーでスーパーシュートを決めた。が、直後にオフサイドの判定でノーゴールとなった。プラティニはピッチに横になって腕枕をして呆れていた姿の方が有名になっている)。
優勝したこのブラジル代表チームでは、ザガロもプレーしていた。ザガロは70年のメキシコ大会でブラジルチームを率いて優勝し、選手と監督の両方で優勝した最初の人になる。二人目がフランツ・ベッケンバウアーで、3人目はまだ出ていない。
Photo by Scanpix (svd.se) [Public domain], via Wikimedia Commons
Brazilian goalkeeper Gilmar faces the Swedish forward Hamrin during the 1958 World Cup final.