W杯ブラジル大会開幕間近特別企画「World Cupのアルケオロジー」 第7回■スイス大会(1954年)〜ベルンの奇蹟〜(広瀬一郎)
1954年、16年ぶりにワールドカップは欧州に戻ってきた。戦争の傷が比較的浅かった中立国スイスでの開催だった。まだ戦争の爪痕は残っていたのだ。
世界のGNPが戦前の1938年のレベルに戻ったのは1955年。その列に連なった中で、日本はいちばん最後だった。
1955年は昭和30年、筆者が生まれた年だ。筆者の世代は「歩く55年体制」などとは呼ばれては……いないが(笑)、この年、池田勇人首相が「戦後は終わった」と宣言し、「所得倍増計画」を打ち出し、日本中が「モノの豊かさ」に向かってひた走り始めるのである。
それは電通の名物プロデューサー藤岡和賀夫が「モーレツからビューティフルへ」というコピーで「豊かさとは何か?」と提起した70年代まで続く(ちなみに藤岡は、ほかにも「ディスカバー・ジャパン」「いい日旅立ち」などのCMキャンペーンも手がけた)。また、「豊かさ」につては、ウィリアム・バーンスタインの『豊かさの誕生』(日本経済新聞社)が、筆者の読書歴の中で一押しの本だ。
なぜ世界は現在のように豊かになったのか……を説くこの本のなかで、著者は自分の老母の言葉を紹介している。「お金があれば悩みがあってもひもじい思いの中で悩まなくてすむわね」ですと。この言葉には似而非ヒューマニストを沈黙させる力がある。至言とはこの言葉のことだ! 閑話休題。
1955年以降は、「働けば豊かになる」「明日は今日より豊かになる」と信じて疑わずに済んだ、牧歌的で幸せな時代が続いた。1970年代にパラダイムを変える大きな出来事「オイル・ショック」と「ニクソン・ショック」が起きまで……。
一方、戦後のドイツは、連合国の4カ国で占領されていた。そして東西冷戦の開始により、1949年に東西の二つに分裂された。
そして1954年のワールドカップ・スイス大会には、西ドイツが出場し、優勝した。その決勝は、「ベルンの奇跡」と呼ばれている。
なぜ「奇跡」なのか? 第一に敗戦国のドイツがWカップに出場し、しかも優勝するなど、誰も予想していなかった点にある。確かに西ドイツは、日本よりも早く1953年には戦前レベルのGDP(当時はGNP)に回復していた。が、まだ豊かと呼ぶにはほど遠い段階だった(1950年にパリ条約が結ばれ、西ドイツの主権は回復。翌年に「欧州石炭鉄鋼共同体」が創立される。現在の「欧州共同体(EU)」の源流はここだ。ナポレオン戦争以降の「独仏の確執」を払拭しなければ、国際平和は求め得ないという、当時のフランスのロベール外相が、石炭の独仏の共同管理を提唱したことが発端になっている)。
出場すら危ぶまれた西独が「ワールドカップ優勝」である。無論、初優勝だ。自信喪失していたドイツ国民の喜びはいかばかりか。「欣喜雀躍」とはこのこと。実際に、ドイツという国が戦後「奇跡的な復活」を果たし、経済大国になったのは「この優勝が機になった」と指摘する経済学者は少なくない(経済には外生的要因と内生的要因がある。「ヤル気」や「自信」という内的要因が経済発展には不可欠である、という経済学が存在する)。
「奇跡」を起こした要因の一つは、スパイクの進化によって起きた。西ドイツの決勝の相手は、予選リーグで一度負けているハンガリー。「マジック・マジャール」と呼ばれ、当時は無敵の強さを誇っていた。決勝は雨で、グラウンド・コンディションは最悪。ドイツチームはハーフタイムに、スパイクのスタッドを長いものに取り替えた。取り替え式スタッドの発明者は、アドルフ・ダスラー。通称「アディ・ダスラー」、つまり「アディダス」の創始者だった。
ダスラーにはルドルフという兄がいた(「ルディ」と呼ばれていた)。第一次世界大戦後、「戦争症候群」にかかって帰国したルディを誘って、アディは「ダスラー兄弟商会(Dasslar Bruder Fablik)を立ち上げる。猛烈なゴッドマザーの母親に、「兄を何とかせよ」命じられ、洗濯屋をしていた母とともに3人で立ち上げた会社である。アディは10代でパン屋に徒弟として就職していた。母ケーテによる「食いっ逸れが無い食品産業に従事せよ」との命令だった。
第1次大戦当時、ダスラー家が住んでいたヘルツオーゲンアウラッハはフェルトの生産地であった。軍隊の冬用コートはここで生産されていた。その端切れ布が町外れの水車小屋に捨ててあった。それを拾ってきて、室内用のシューズを作ったのが始まり。材料費はタダである(賢い!)。
ドイツは、19世紀に統一された直後に、既に各地に体育館があり、青少年が体育で兵士教練を受けていた。2011年公開のドイツ映画『コッホ先生と僕らの革命』という映画には、その様子が描かれている。つまり、体育館が各地にあり、そこには室内用のシューズのマーケットがあったのだ(コッホ先生とは、ドイツのフットボールの父と呼ばれているコンラーと・コッホ1849〜1911のことだ)。
その後、順調に売り上げを延ばしたダスラー兄弟商会は、ナチの軍靴の受注をするまでになったが、第二次世界大戦末期のニュルンベルク爆撃で工場が全焼(ニュルンベルク爆撃関連では、ベルンハルト・シュリンクの長編小説『朗読者』やカート・ヴォネガットの時空飛翔小説=その出発点がニュルンベルク爆撃になっている『スローターハウス5』など、傑作小説が生まれている。面白いですぞ!)。
戦後、一端は「兄弟商会」として再開するが、元々仲が悪かった二人は別れ、それぞれ自分の会社を起こす。弟は「アディダス」を。そして兄は「プーマ」(「ルディダス」ではなく)を。現在もヘルツオーゲンアウラッハの町中の谷を隔てて、両者の本社がにらみ合っている。まるで死後も兄弟喧嘩をしているようだ。
「ベルンの奇跡」はラジオで西ドイツ本国へ伝えられた。「大人達の興奮は凄かった。それが、私がサッカーにのめり込む大きなきっかけとなった」と後にフランツ・ベッケンバウアーは振り返っている。当時8歳だったフランツ少年は、のちに選手としても、また監督としてもワールドカップを制覇する史上二人目の男になる。
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