W杯ブラジル大会開幕間近特別企画「World Cupのアルケオロジー」 第6回■1950年ブラジル大会:ブラジル人が最も忘れたい自国開催(広瀬一郎)
第二次世界大戦で2度(1942年大会と1946年大会)の中止のあと、戦争の災禍が北半球に較べてはるかに小さかった南米のブラジルで、1950年第4回ワールドカップは再スタートした。
1950年はどんな年だっただろうか? サンフランシスコ講和条約が結ばれるのはその2年後だから、日本はまだ占領下であり独立国家ではなかった。
ちなみに、筆者が関わった2002年のWカップ日本招致は、以下のように「サンフランシスコ講和条約から奇しくも半世紀」に大きな意味を持たせて活動を行なっていたが、そのことは余り知られていない。
2002年は、サンフランシスコ講和条約の締結により、日本が国際社会に復帰してから50年である。この半世紀の間は世界規模の戦争が起きていない。そういった国際情勢の中で日本は、「最も平和の恩恵を受けた国」である。その恩恵を世界に「返礼」するために2002年のWカップを位置づけ、開催しよう!と、コンセプトを打ち立てたが……「ヘンレイ」は「オモテナシ」と違って人口に膾炙しなかったなあ(涙)。
これは1996年の6月1日、チューリヒで開かれるFIFAの理事会に対するプレゼンテーションの基本理念でもあった。残念ながら、このプレゼンテーションをする機会は失われ、「日韓の共同開催」が決定したことは広く知られている通り。
個人的にはプレゼンテーションだけはさせて欲しかった、と思っている。その結果として「日韓の共同開催」が決定したなら納得しただろう。念のため申し添えておくと、筆者は「日韓の共同開催」に異義を唱えるつもりはない。むしろ歴史的には意味のある大会であったことは、その後の流れから十分に理解しているつもりである。それと我々の招致活動がフィナーレを飾れなかった事とは、別の判断基準があるはずだ。
今更ではあるが、日本は招致活動に90億円を使った。それはサッカーファンと16の自治体の住民の懐から出た金なのだ! この事実は重い。決して無駄にして良い金ではなかろう(ちなみに、プレゼン当日、川淵三郎さんが英語でスピーチをする予定であったが、これも無くなった。川淵さんに、英語の指導をした女性が共同開催決定の直後に華燭の典をあげた。来賓スピーチで、我々はFIFAで行なわれる英語のスピーチを直に聞けた。凡そ150名の来賓のほとんどは感動していただろう。そんな中、くやし涙を堪えていたのは、恐らく筆者一人であったろう、と思う)。
少々話が脱線した。ブラジル大会に話を戻そう。
戦前の予想通り、ブラジルは勝ち上がり、事実上の決勝をウルグアイとプレーすることになった。ウルグアイは1930年の第1回大会で優勝後、1934年第2回大会と1938年第3回大会が欧州で開催されたので、選手の流出を危惧し、出場を拒否している(従って第2回大会は、史上唯一の「前回大会の覇者が出場しない大会」となった。ウルグアイにしたら1950年のこの大会で、20年の時を経た「連覇」がかかっていたのだ)。
ブラジルには伝説のガリンシャ(本名はマヌエウ・フランシスコ・ドス・サントス)を始めとして錚々たる選手が名を連ねており、絶対の本命であった(ガリンシャは幼少時に小児マヒを煩い、体のバランスが普通の人とは違っていた。とにかくボールをもったら取られない。ヒラリヒラリとかわすので、「ガリンシャ(ミソサザイ)」という小さな鳥のあだ名で呼ばれた)。
初の自国開催となったブラジルにとって、「皇国の興廃、この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ!」である(古い!)。
が、この一戦にブラジルは、1対2で負けた。テレビが無かった時代、試合の模様はラジオでブラジル全土に実況中継されていた。恐らく90%以上の国民がラジオに耳を傾けていたはずだ。そして、敗戦が決まった瞬間に、マラカナン・スタジアムから身を投げたファンが一人、リオ市内のアパートからの投身自殺者が2名、ブラジルから欧州に向かう客船から大西洋に身を投げた者1名という凄まじい記録がある(サッカーのゲームの結果によるこの自殺者数が、ギネスブックに載ることはないだろうが、これは間違いなく世界記録と言えるだろう)。
ブラジル国民の悲嘆はいくばかりか。悲しさの余り、以後サッカー観戦を辞めたという人は少なくなかったと言われている。実は、このゲームまでブラジル代表のユニフォームは白だったのだが、2度と白を着たくない/着て欲しくないので、その後ユニフォームは黄色になった。こうしてカナリア軍団が誕生したのだった。
PHOTO By Darjac (Scanned by Darjac) [Public domain], via Wikimedia Commons