W杯ブラジル大会開幕間近特別企画「World Cupのアルケオロジー」 第4回■ムッソリーニのワールド・カップ(広瀬一郎)
1936年のベルリン・オリンピックが、「ヒトラーのオリンピック」として、「スポーツによるナショナリズムあるいは国威発揚」を象徴する事例として語られることは多い。しかし、ヒトラーが「ムッソリーニのワールド・カップ(1934年)」を羨ましがって、ベルリン五輪開催を決めたことは意外に知られていない。ナチの宣伝相ゲッペルスは、当初やや消極的なヒトラー総統を口説くために、ムッソリーニのワールド・カップを引き合いに出し、世界にアピールする絶好の機会としてオリンピック招致を総統に認めさせたのだ。
少し寄り道をして、ヒトラーのベルリン・オリンピックをおさらいしておこう。
ドイツ人の優秀さを世界に示すという目的を達成するために、大会前のPRとしてゲッペルスは、ドイツ中央観光局を中心に40カ国に44カ月所の宣伝拠点を設け、13カ国語で印刷されたパンフレットと19カ国語で製作されたポスターがそこを通じて配布された。開会式と閉会式では、巨匠リヒャルト・シュトラウスの作曲になる「オリンピック賛歌」が、本人の指揮により演奏された。華やかに始まった大会は、1000人の合唱団と52本の葉冠で飾られた国旗で愛国主義を昂揚し、まさに世紀の大イベントとして幕を閉じた。
この大会から始まったことはいくつかあるが、その筆頭は「聖火リレー」であろう。事前PRのために、ギリシアから欧州各国の主要幹線道路を聖火ランナーが走り、ベルリンのメインスタジアムまで運ばれた。このルートは、後にドイツ軍の戦車が侵攻する際に使われた。他の国は、体のいい事前視察であったことに、後で気がついたが、既に後の祭りだった(五輪の後だから、「祭りの後」か?)。
閉会式を夜に行なうようになったのもこの大会からで、天才宣伝相ゲッペルスの発案だと言われている。聖火を際立たせるには夜の方が映える。それ以上に、夜には人の神経が興奮しやすくなるのをゲッペルスは知っていた(ナチスの党大会も、夜、松明を燃やして行われた)。場内は興奮の坩堝になるのだ。極めつけが、ナチス党大会の記録映画も撮影したリーフェンシュタールのベルリン五輪記録映画「民族の祭典」だった(「スポーツの祭典」ではなかった)。
ファシスト党の党首にして独裁者のムッソリーニは無類のサッカー好きだったとか。その国で行なわれる大会であるから、イタリア代表は優勝が至上の使命だった。そして、イタリアはそのためには何だってやった。代表の半数は南米の帰化選手だったし、無論、審判の買収、恐喝などはファシスト党のお家芸だ。準々決勝の対スペイン戦は1−1の引き分け。再試合で1-0と勝利したが、何と同じ審判だった。この審判は、大会終了後にFIFAから永久追放となった。甚だしいのは「審判がイタリアゴール前で相手のセンタリングをクリアした」という離れ業を披露したゲームもあったようだ。
が、何せ映像が残っていない。史上発のTV中継は、1938年のFAカップの決勝。その数ヶ月後のベルリン五輪では,ベルリン市内の街角に据えられた200台の受像機に向けたTV中継が行なわれた(街角テレビを懐かしむのは、玉木編集長の代くらいまでだろう)。
実はベルリン五輪の次の1940年大会は東京に決まっていたが、第二次世界大戦のために中止になっている(実現していれば、34年のイタリアWカップ、36年のベルリン五輪に続いて、40年の東京五輪が「ファシズムによる国威発揚に利用されたスポーツ大会」の代表例として語られていた事は間違いない!)。日本国政府は1940年の五輪に向け、TV局創設を決めていたが、それも流れ、結局我が国におけるTV局の開局は戦後をまたねばならなかった。
第2回大会の出場チームは、試合前に整列して、ムッソリーニ総統に向かって「ファシスト党式の敬礼」をすることになっていた。これは全て写真が残っている。が、国によっては恥辱として、その写真をメディアに掲載することを現在も禁じている協会がある(恥ずかしい歴史は、常にどこでも封殺されるのだ)。
PHOTO:1936 Summer Olympics in Berlin. Bulgarian Archives State Agency, via Wikimedia Commons