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W杯ブラジル大会開幕間近特別企画「World Cupのアルケオロジー」 第3回■ワールド・カップの誕生(広瀬一郎)

「プロ・アマに関係ない、真の世界一決定戦の創設」への要望が、1920年代になって高まっていた。背景には、国民国家の増加、交通機関や通信手段の発達、生産力の上昇、これら全てによる大衆化社会の進行がある。

 では、なぜ第1回目の大会(1930年)がヨーロッパ大陸ではなくウルグアイとなったのか?

 世界選手権の創設を構想していたジュール・リメ(フランス・サッカー協会=FFF会長1919~45、国際サッカー協会=FIFA会長1921~54)は、出勤前にチューリッヒ湖の湖畔を散歩するのが日課だった。そこで毎朝のように出会うサッカー好きな紳士がいた。それがウルグアイ大使館の職員だったのだ。彼から1930年に建国100周年を祝う国際的な行事の相談を受け、「サッカーの世界選手権の開催」を提案したら、母国の政府からOK が出た。

 もう一つ重要なポイントは、当時、ウルグアイが世界最強と言われていた点。1924年のパリ五輪と1928年のアムステルダム五輪のサッカー競技で、ウルグアイは連覇していたのだ。

 建国100周年を記念して建てられたセンテナリオ・スタジアムには、この連覇を記念して「パリ・コーナー」と「アムステルダム・コーナー」が設けられていた(センテナリオのスペイン語のセントはCientoで、元々ラテン語で100を表す。100年をセンチュリーというのも同じ語源だ)。

 このスタジアム建設費を捻出するためにウルグアイ政府はWカップの記念切手を発売した。2014年のブラジル大会の記念切手は5月に日本でも発売される。2020年の東京オリンピック・パラリンピックでも、国立競技場の立て替えにあたって、その費用の捻出に記念切手が使えるといいのだが、IOCの五輪関係の権利の管理は世界一厳しいと言われているので、無理かなあ(ちなみにセンテナリオ・スタジアムの建設は、大会の開始には間に合わなかったが、決勝には間に合っている。ラテンらしい、と言うべきか)。

 ワールドカップの試合では、戦前の予想通り、開催国ウルグアイは優勝している。しかし、第2回のイタリア大会にも、第3回のフランス大会二もウルグアイは出場していない。というのも、優秀な選手が欧州の大会に出ると、引き抜かれて帰国しないことを懸念したからだ。実際、これまでのWカップでは複数の国籍で出場した選手が3人いるが、そのうちの二人は元々ウルグアイ出身で、移籍後はいずれもイタリア代表になって出場している。


 ところで、この大会にサッカーの母国である英国の4協会(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)はエントリーさえしていない。FIFAの創設にも参加していない。イングランドがワールドカップに参加するのは第二次世界大戦後の第4回ブラジル大会(1950年)からである。ここで史上初めて英米の対戦があったが、あろうことか母国が苦杯を舐めている。元々アメリカでは、サッカーには人気があり、試合に興奮した観衆が問題を起こすことも少なくなかったため、東部13州ではしばしば禁止令が出されたくらいだ。そしてワールドカップでアメリカは、最高で3位になっているのだ。舐めたらあかんよ、なのである。

 生みの親の「ジュール・リメ」の名は、「ジュール・リメ杯」としてカップに残された。実は、1970年のメキシコ大会でペレのブラジルが三回目の優勝を果たし永久保持となるまでは、優勝者に与えられるカップの名は、「ジュール・リメ・カップ」だったのである。ワールドカップというカップは、1974年の西ドイツ大会から採用されたのであった(「西ドイツ」は懐かしいなあ)。

PHOTO By Steve Evans, via Wikimedia Commons