ミラクル
ベトナム戦争、ウォーターゲート事件、スリーマイル島原子力発電所の事故、イランのアメリカ大使館人質事件…。1970年代のアメリカは、信じるものを見失っていた。並行して79年には、ソ連がアフガニスタン侵攻を開始。東西冷戦は、さらに緊迫の度合いを増しつつあった。
この時代、アイスホッケーの世界でも、アメリカ代表チームは低迷。東側諸国が隆盛をきわめていた。まだプロの参加が認められていなかったこともあり、オリンピックではソ連代表が1964年のインスブルッグ大会から、4大会連続で金メダルを獲得するなか、アメリカ代表は、チェコスロバキアの2軍チームと対戦して「1対15」の惨敗を喫するあり様。翌年に地元レークプラシッドでオリンピックの開催を控えているのに、ファンはおろか関係者の士気も低く、せいぜい善戦をして世界に恥を晒さなければ充分といった風情だった。
そんななか、代表監督に就任したのがハーブ・ブルッグス。選手時代にはアメリカ代表メンバーに選ばれながら、60年のスコーバレー五輪の直前にチームから外された経験を持ち、引退後はミネソタ大学の監督を務めていた、実在の人物だ。
過去の実績やお偉いさんの推薦などお構いなし。ブルックスは自分の眼だけを信じて選んだ26人の大学生たちと、さまざまな犠牲を払いながら、猛トレーニングの8ヵ月を過ごす。迎えたレークプラシッド五輪本番。彼らは下馬評を覆し、決勝ラウンドに進出。その最初の相手が‘宿敵’ソ連だ。
80年2月22日。会場のオリンピック・センターに、耳をつんざくような大「U・S・A」コールが響くなか、のちに「氷上の奇跡(Miracle on Ice)」と語り継がれることになる一戦がくり広げられていく。
劇中、申し訳程度に「これはホッケーの試合で、それ以上でも、それ以下でもない」「国家的意味合い、政治的意味合い…。さまざまな観点で見ることができるが、アメリカとソ連がレークプラシッドの氷の上で対戦する、ホッケーの試合です」といったセリフで軌道修正を図ってはいるものの、「強いアメリカ」「正義のアメリカ」への憧憬(あるいは郷愁)が、作品全般に通底している感は拭えない。
そんな映画にあって、アメリカ代表の再興を図るために、ブルックスが東側の最新のホッケー戦術を取り入れたところが、なんとも皮肉めいている。
ハーブ・ブルッグスはその後、ニューヨーク・レンジャーズはじめ、NHL4チームで監督を務め、88年長野五輪ではフランス代表を率いた。02年のソルトレイクシティ五輪では、再びアメリカ代表監督に就任。レークプラシッド大会以来、アメリカ代表にとって22年ぶりのメダルとなる銀メダルを、見事もたらしてみせる。その翌年8月に、交通事故のため66歳で死去。
彼の死後、その功績を讃えて「アメリカ対ソ連」戦が行われたオリンピック・センターは「ハーブ・ブルックス・アリーナ」へと、名称が変更されている。