オリンピックは「スポーツ+政治」。東京五輪2020で日本はどんな政治的メッセージを発信するのか!?(玉木正之)
オリンピックとは政治である。
何もナチオリンピックと言われた1936年の第11回ベルリン大会だけでなく、第1回アテネ大会以来、冬季大会を含むすべての大会で、開催国は自国の威信とともに何らかの政治的メッセージを発してきた。
間もなくロシアのソチで開かれる冬季五輪も、もちろん例外ではない。
ソチは、多様なの言語、文化、伝統、民族の入り混じるカスピ海と黒海に挟まれたカフカス地方の都市で、ロシアからの独立を主張するチェチェン共和国、スターリンの出身地でありながら反ロシアでアメリカの支援を受けてEU入りを目指すグルジア、そのグルジアからの独立を目指し、ロシア内の北オセチア共和国と一緒になることを目指している親ロシアの南オセチア、同様に親ロシアでグルジア内で独立状態にあるアブハジア共和国、ロシア内の共和国でありながら反ロシアのテロ活動の拠点となっているダゲスタン共和国……等々、ロシア内外の共和国や自治州がひしめいている。
そこでオリンピックとパラリンピックを無事に開催することによって、プーチン大統領は強いロシア・安定したロシアを世界にアピールしたいことだろう。
が、そんな政治的アピールをさせたくない反対勢力は、五輪開催阻止を叫んで、自爆テロまで繰り返している。
ソチ五輪がオリンピック運動の目指す理想通り、五輪期間中だけでも武力を放棄し、平和のうちに開催されるかどうか……。古代ギリシアのオリンポスの祭典(古代オリンピック)では、祭典の期間中はすべての戦争、武力の使用が禁じられ、その約束を破るもの(ポリスの住民)はヘレネス(ギリシア人)と認められず、バルバロイ(野蛮人)として、ヘレネス社会から排斥された。
現代のオリンピックが、そんな古代人の知恵に肩を並べるのは、いつのことになるのか、それはわからないが、現代のオリンピックが、現代世界の政治を鏡のように移し抱いていることは確かだ。その結果、ソチ五輪では、ロシアや反ロシア勢力にとって、どんな政治的メッセージが世界に発信されるのか……、大いに注目される。
一方オリンピックで行われるスポーツ(競技)は、政治とは無縁である。
ソチ五輪でも、スキー、スケート、アイスホッケー、ボブスレー、バイアスロン、カーリング、リュージュの7競技(スポーツ)、アルペン、ノルディック、スピード、フィギュアなど98種目(ゲーム)が行われるときは、政治などまったく無関係。
選手たちは雪や氷の自然と闘い、肉体という己の中に存在する自然とも闘い、同じ闘いに挑む相手とも闘う。そんな冬のスポーツならではの闘いに挑戦する。そして世界中の人々が、その素晴らしい挑戦に対して快哉を叫び、暖かい握手を贈る。
今大会に参加する日本人選手は、過去最高の長野大会(10個)を上回るメダル獲得も期待できそうだ(私は最高18個のメダル獲得を期待し、応援している!)。
政治とスポーツ。オリンピックはそのどちらにも注目すべきイベントなのだ。……となると、2020年の東京オリンピック&パラリンピックで、日本は、いったいどんな“政治的メッセージ”を世界に発信するのか?
つまり、いったい何のためにオリンピックを開催するのか?
1964年の東京オリンピックは、第二次世界大戦に敗れた日本が、平和国家として国際社会に加わるという政治的メッセージを濃厚に打ち出した。ならば2020年は……?
ただ開催を国内的に喜んでいるだけでなく、全世界に向けて、素晴らしいメッセージを発することができるはずだが……。
(毎日新聞「時評点描」 + NBSオリジナル)