2020東京オリンピック招致に向け1960年代のスポーツを振り返る(玉木 正之)
未来を考えるなら、過去に学べ。
2020年東京オリンピック/パラリンピックの招致を考えるには、やはり1964年の東京オリンピックを振り返らなければならない。さらにオリンピック以外の60年代のスポーツ事情も……。
60年代のスポーツ——その「光」と「陰」と……。
<東京オリンピック>
「1964年10月10日午後2時。いよいよ選手団の入場であります。先頭はギリシャ。旗手はジョージ・マルセロス君であります。エーゲ海の海の色を表す紺地に真っ白い十字が、いま、東京の真っ青な空のもと、国立競技場の赤いアンツーカーのうえにに映えます……」
いまでもNHKアナウンサーの実況中継の言葉を思い出すことができる。
東京オリンピック当時小学6年生だったわたしは、自宅が電気器具商を営んでいたことから、まだ京都に数台しか存在しなかったカラー・テレビの真ん前に座り、世紀の祭典の開会式に見入った。
小さな店内は、戦後最大の国際イベントを「色つき」の画像を見ようとする約20人の町内の人たちでひしめきあい、誰もが息を呑み、体を乗り出していた。
「鮮やかな民族衣装でアフリカからの初参加カメルーンは、たったふたりの行進です。健気です。まったく健気であります」
そのとき、「けなげって、どういう意味?」と、振り返って父親に訊いたことを、いまも憶えている。そして、立って見ていた大人たち全員が涙を流していたことも……。それは戦争が終わってから、まだ20年を経ていない時代の出来事だった。
「ひるがえる星条旗!その数に完全に圧倒されます。巨大な国アメリカ! 続いて170人という大デレゲーションのソビエト! 入場行進は、今や最高潮に達しました!」
「そして最後に日本選手団の入場です。敗戦から立ち直った日本の若者たちが……」
たしかに、それは、感動の瞬間だった。古関裕而の『東京オリンピック行進曲』にのせて1時間以上も続いた世界のスポーツマンの行進は、まだ心の襞の柔らかかった子供の身体の奥底に、「感動」という言葉の本当の意味を、くっきりと刻み込んでくれた。
それから2週間。毎日まいにちオリンピックを見る日々が続いた。小学校でも授業のかわりに視聴覚教室でテレビ中継を見せられ、家に帰れば町内の人たちと一緒に店先のカラー・テレビの前に座った(カラー放送は開会式だけだったのだが……)。
三宅義信やジャポチンスキーの重量挙げを見て大人たちは全員肩凝りになり、子供たちはヘーシンクに敗れた神永昭夫に涙ぐみ、女子バレーボールで日本がソ連を倒して金メダルを獲得したときや、男子体操で日本人選手が次々と表彰台にのぼったときは、大人も子供も手を取り合って喜び、万歳を叫んだ。
いや、そういった日本の勝利や敗北以上に圧倒されたのは、「何やらワケのわからないスポーツの凄さ」だった。
それまで、スポーツといえば、力道山のプロレス、長嶋茂雄対金田正一、村山実の対決、王貞治の一本足打法によるホームラン、それに、栃錦と若乃花の激闘……くらいしか知らなかった子供にとって(おそらく大多数の日本人もそうだったと思うが)、100mで10秒0の世界タイ記録を出したボブ・ヘイズの隆々たる筋肉による力強い疾走は、テレビ画面を通しても、風を感じるほど迫力にあふれるものだった。
42・195kmを走り抜いてゴールしたあとも息も切らすことなく整理体操をしてみせたアベベ・ビキラの哲学者のような容貌も、ショランダーをはじめとするアメリカ水泳選手の若々しい笑顔も、輝くほどに美しくし柔らかく撓るチャスラフスカの肢体も……、眼前に出現したスポーツの力強さ、美しさ、というものに、言葉を失い、ただテレビ画面を唖然と見つめるほかなかった。
なかでもわたしが驚いたのは、陸上競技女子800mに優勝したイギリスのアン・パッカーという名の美人選手だった。彼女はゴールインしたあとも全力疾走を止めず、トラックの外側の競技場出入り口付近に立っていた男性に飛びつき、キスをした(それは彼女の婚約者だった)。
スポーツとは、根性や苦しみや闘いといった言葉で表現されるもの、と信じて疑わなかった子供にとって(おそらく大人にとっても)、それは、別種のスポーツの世界が大きく広がっていることを教えられたシーンだった。
そして10月24日、夜の暗がりのなかで行われた閉会式では、松明の火によって競技場のフィールドにつくられた五つの輪が、やがて大きな一つの輪になり、普段着のままごちゃ混ぜになってなだれれこんできた世界中の選手たちが、別れを惜しんでいつまでも手を振り続けた。
「国境を超え、人種の違いや宗教の違いを超え……、もしも世界平和というものが存在するなら、それは、このような光景のことをいうのではないでしょうか……」
そんな実況アナウンサーの言葉に、誰もがうなずいたものだった。
<祭りの後の虚しさ>
「祭り」の余韻はかなり長いあいだ尾を引いた。それだけに「祭りのあとの虚しさ」も強烈な長さで日本のスポーツ界にボディブロウのようなダメージを与え続けた。
東京オリンピックの大成功を記念する出版物やレコードが続々と発売され、1年後には市川崑 監督の映画『東京オリンピック』が公開。わたしの進学した京都の中学校では(どこの学校でもそうだったと思うが)生徒全体で集団観賞させられた。
さらに当時の河野一郎建設大臣の「記録映画になっていない」という批判から「芸術」か「記録」かという論争が巻き起こり、賛否両論渦巻くなか(わたしはこの映画を史上最高のスポーツ映画だと確信している)全国民が(といっていいほどの人々が)映画館に足を運び、感動を新たにした。
さらに翌1966年には東京オリンピックの開会式の日(10月10日)を「体育の日」とする祝日法改正も行われ、東京オリンピックの記憶が薄れないまま、次のメキシコ・オリンピックへの期待が高まった。
ところが、その開催の年1968年を迎えた1月、東京大会で銅メダルを獲得したマラソン選手の円谷孝吉選手が、「もう、走れません」という遺書を残し、27歳で自殺。
自衛隊体育学校でスポーツ・エリートの道を歩んだ円谷の悲劇は、戦前のナチス・ヒトラーがドイツ第三帝国の国威を示したベルリン・オリンピックを連想させたうえ、その大会の水泳200m平泳ぎで日本女子選手として初の金メダルを獲得した前畑秀子をはじめとする日本選手の大活躍の裏で、満州事変、二・二六事件、日中戦争……と、戦争への道を突き進んだ日本の「過去」も想起させた。そして、戦前に「スポーツは阿片」と断じた評論家・大宅壮一の言葉も想起された。
メキシコ・オリンピックでは、サッカー日本代表チームが地元メキシコを3位決定戦で見事に破り、銅メダルを獲得。得点王に輝いた釜本邦茂選手を筆頭に、杉山、八重樫といった選手の人気も高まり、わたしの通っていた高校でも、にわかにサッカーボールを蹴り出す生徒が増え、それまで存在しなかったサッカー部が誕生するなど、全国に突如サッカー・ブームが湧き起こった。
とはいえ、時代は1970年の日米安全保障条約自動延長を前に、全国の大学で学園紛争の嵐が吹き荒れ、スポーツは、むしろ「白い目」で見られた。
東京オリンピックの大興奮以来、スポーツが大好きになり、自分でもバドミントンという少々マイナーなスポーツではあったが、インターハイをめざして毎日練習に打ち込んだわたしに対しても、デモへの参加を迫ったり、スポーツのような「反動的」な活動はやめろ、と「オルグ」を試みる団塊世代の先輩たちが少なからず存在した。
当時、大学の体育会系の学生のなかには、大学当局側の「用心棒」的存在と化し、ヘルメットにゲバ棒で改革と闘争を訴える学生たちを、機動隊と一緒になって暴力的に排除する連中も少なくなかった。そんなところから、「スポーツ=体育会系学生=右翼」という図式も生まれ、左翼系・新左翼系の学生は、スポーツを「体制側」「反革命側」の存在と見なした。
折しもプロ野球では、東京オリンピックの翌年から、讀賣ジャイアンツが「ON砲」と称された王と長島の活躍(と、金田正一をはじめとする他球団の一流選手の引き抜き)による圧倒的強さで9連覇(V9=1965〜73)を達成。
相撲界では、1961年9月に当時の最年少記録(21歳3か月)で横綱昇進を果たした大鵬が、引退(1971年5月)までに32回の優勝という圧倒的な強さを発揮。
「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉は、強さに憧れる「子供向け」のものだったが、長期間勝ち続けた巨人も大鵬も、ほぼ同時期の佐藤栄作首相による自民党長期政権(1964〜1972)に擬せられたものだった。
そして先に書いた円谷の自殺、東京五輪で金メダルを獲得した女子バレーボール・チーム監督・大松博文が自民党から参議院選挙に立候補して当選(1968〜74)……といった出来事が、ジャイアンツ入団時に長嶋茂雄が口にしたとされる「社会党が政権を取ったら、日本のプロ野球は潰れる」といった言葉をも想起させ、さらに、60年安保時に数十万人のデモ隊に首相官邸が取り囲まれたとき、当時の岸信介首相が口にしたとされる「健全な国民は後楽園球場で巨人・阪神戦を見ている」といった言葉も思い起こされ、さらに大学の体育会系運動部でのリンチ死亡事件などが相次ぎ、日本のスポーツは大衆の人気を集めながらも、インテリゲンチア(知識人)からは蔑まれ、忌避されるようになったのだった。
<モハメド・アリ>
そんななかで日本のオリンピックでのメダル獲得数は東京オリンピックを頂点に、坂道を転げ落ちるようにどんどん減少し続けた。が、それをとくに批判する人もなく、東京オリンピックでの国策としてのエリート・スポーツマンの養成に対する批判のほうが高まり、70〜80年代には「金メダルなどいらない」(エリート・スポーツに税金を使うな)という声が圧倒的に強まったのだった。
しかし、60年代の日本のインテリたちから文句なしに唯一評価されたスポーツマンが存在した。それは、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリだった。
1964年2月に、カシアス・クレイという名前でソニー・リストンを破り、世界王座に就いた22歳の若きローマ・オリンピック金メダリスト(ジュニア・ヘビー級)は、その当時の日本では、熱烈なボクシング・ファンのあいだで話題になった程度の知られ方だった。が、その後、過激派反体制集団といわれる黒人イスラム教団体(ブラック・モスレム)に入信。
名前もモハメド・アリと改名し、さらに1966年にジョンソン大統領のもとで激化の一途をたどりはじめたヴェトナム戦争に対して、はっきり反対の意思を表明したことから、日本でも多くの人々(とくに「反体制派」のインテリ)の注目を集めるようになった。
アリは、チャンピオン・ベルトを剥奪され、アメリカのボクシング界から追放され(ライセンスを取りあげられ)、さらに徴兵に対して兵役拒否を主張したため5年の実刑判決を受けた(1967年)。そのため、ノーマン・メイラーをはじめとするアメリカの知識人が「不当判決」の撤回運動を開始。
1970年に最高裁で実刑判決破棄の決定を勝ち取り、リングに復帰したアリは、4年後の1974年アフリカ・ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサでジョージ・フォアマンを破り、世界王座に返り咲いたのだった。
このときアリに敗れたフォアマンは、1968年メキシコ・オリンピック・ヘビー級の金メダリストだったが、当時アメリカで吹き荒れた「黒人暴動」(公民権運動)に呼応して、表彰台のうえで黒い手袋をはめた拳を星条旗に向かって突きあげた黒人選手が出現したような時勢のなか、リング上で星条旗を打ち振った選手だった。
プロ転向後は、ジョー・フレイジャー(東京オリンピック金メダリスト)、ケン・ノートンといった並み居る強豪を1ラウンドか2ラウンドでKOするほどの抜群の強さを発揮したチャンピオンで、試合前は誰もがアリの敗北を予想した。
が、それほどの強豪に対して、アリは、ロープを背にしてもたれかかったまま、まずフォアマンにさんざん攻撃を続けさせた。そしてフォアマンの豪快なパンチの威力をロープの緩みを利用して耐え凌いだあと、長いラウンドを闘ったことのなかったフォアマンに疲れの出た8ラウンド、一発の右ストレート・パンチで逆転KOしたのだった。
そのきわめて頭脳的な作戦で予想を覆し、世界中を驚かせたアリだったが、しかしそれ以上に意味深かったのは、彼が闘いの場として選んだ場所が、アメリカ黒人(アフリカ系アメリカ人)の故郷であるアフリカの地であった、という事実だった。その結果、モハメド・アリは、単なる世界チャンピオンとしてではなく、「政治」にも打ち克ったチャンピオンとして、日本をふくむ世界中の注目を浴び、衝撃とともに高く評価されたのだった。
日本のボクシング界も、60年代は、ファイティング原田(フライ/バンタム級)、海老原博幸(フライ級)、沼田義明(J・ライト級)、小林弘(同)、藤猛(Jウェルター級)、西条正三(フェザー級)、大場政夫(フライ級)といった世界王者を輩出。70年代に入ってからの輪島功一(J・ミドル級)、具志堅用高(J・フライ級)の活躍までは、世界タイトルマッチとなると体育館は満員、テレビ視聴率も高く、おおいに活況を呈したものだった。
その「輝き」は、第二次大戦の敗戦から7年後の1952年、白井義男がタド・マリノを破って日本人初の世界チャンピオン(フライ級)の座に就いたことの延長線上にあった。つまり、日本のボクシングは、力道山のプロレスとともに、戦後日本の「世界」への復帰(再挑戦)の象徴ととらえられ、政治的意味を包含するなかで、人気を集めたのだ。
しかし力道山は、八百長の疑惑(かつてのプロレスは、世界選手権が一般紙の一面トップで報じられるほど、真剣勝負だと信じられていた)と身体的衰えが表面化するなか1963年12月に赤坂のキャバレーでヤクザにナイフで刺されて死亡(享年39)。その後プロレス人気は衰退した。
真剣勝負のボクシングは、劇画『あしたのジョー』の大ヒットや、天才チャンピオン大場政夫の交通事故死という劇的な事件もあって、70年代まで人気を持続させたが、日本の格闘技の人気は、「戦後」という時代が幕を下ろすとともに衰退(その人気の復活は、「世界への復帰」という意識が完全に消え、純粋な「エンターテインメント」への転換がなされる1990年代以降となる)。
<自立をめざしたスポーツ>
こうして振り返ってみると、60年代の日本のスポーツ界は、活況を呈しながらも、まだまだスポーツという文化の真の意義が認識されないまま、娯楽(エンターテインメント)としてのプロ・スポーツも、教育(アマチュアリズム)としてのアマチュア・スポーツも、ときに国民的喜びとして、ときに国民の政治に対する不満のガス抜きとして、社会的機能を果たしてきたということができる。
もちろん、その時々に、スポーツという舞台で真摯に闘ってきたスポーツマンの姿は、美しいものだった。しかし日本のスポーツとスポーツマンが、何物にも利用されず、独自の自立した文化としてのスポーツを展開しはじめるようになるのは、1993年のサッカーJリーグの開幕まで待たねばならなかった。
もっとも、プロ野球をはじめとする多くのスポーツが、日本では未だに自立できずに、メディアや企業や学校に利用され続けているのだが……。
21世紀を迎えた今日では、あらゆる人々がスポーツを肯定的に語り、日本人のオリンピックでのメダル獲得を喜び、サッカーのW杯での活躍に注目するようになった。
そして過去のスポーツ界のいろいろな出来事に対しても、なんの疑問もなく美しく語る人が少なくない。しかし、かつて日本のスポーツ界は、その存在そのものが社会的にさほど認知されていたわけではなく、むしろ有識者や知識人と呼ばれる人々からは、蔑まれる存在だった。
それは、団塊の世代や、それよりも上の人々から「スポーツ馬鹿」といわれつづけた小生の実感である。
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以上の原稿は、ネット武蔵野が2006年7月に発行した単行本『花ざかりの森を吹き抜けた旋風(かぜ)われらの六〇年代文化』の「スポーツ」の項目に寄稿したものです(スポーツの他にも、ジャズ、クラシック、映画、テレビ、漫画、狂言、古典演劇、現代演劇、落語、文学、美術、旅……などの『六〇年代文化』についていろんな人が執筆しています)。
再び東京で開催されるかもしれないオリンピックとパラリンピックで、日本のスポーツが、メディアにも、企業にも、学校にも利用されない「自立したスポーツ文化」となることができれば最高に素晴らしいこと、といえるはずだ。
オリンピック・スポーツも、パラリンピック・スポーツも、さらに興行スポーツ(プロ・スポーツ)も、教育スポーツ(体育・アマチュア・スポーツ)も、すべていずれは新設されるであろうスポーツ庁に一元化されるなかで、あらゆる種類のスポーツの発展が計画的に実行される。
それこそが、東京に再びオリンピックとパラリンピックを招致する最も大きな意義であると、私は思うのだが……。
【「花ざかりの森を吹き抜けた旋風(かぜ)われらの六〇年代文化」(ネット武蔵野)&NLオリジナル】