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1964から2020へ~「体育社会」から「スポーツ社会」への大転換で新しい日本社会の建設を(玉木正之)

「1964年10月10日午後2時。いよいよ選手団の入場であります。先頭はギリシャ。旗手はゲオルゲ・マロセロス君……」
 そのとき私は12歳。小学6年生。京都祇園の商店街にあった生家の電器屋で、カラーテレビの前に釘付けになっていた。

 周囲には椅子に座った子供たちが約10人。立ち並ぶ大人たちが約20人。小さな電器屋の店先は「世紀の祭典」を「色付き」で見ようと顔を上気させて集まった近所の人々で犇(ひし)めき合っていた。

 入場行進が進み、アフリカ選手が現れたときだった。アナウンサーの「たった2人の行進。健気であります」との言葉に「ケナゲって、どういう意味?」と振り返ると、親父は真っ赤な目を日本手拭い拭っていた。大人たちは誰もが泣いていた。顔は笑っているのに涙を流していた。当時の私にはその意味がわからなかった。が、今は理解できる。

 私の父親は身体に3箇所の銃創があった。ほんの20年前には三八式歩兵銃を手に、中国戦線で死と隣り合わせの生活を送っていた。そんな男たちが、日本に集まった世界の若者たちの行進をカラーテレビで見ている。涙が出るのも当然だろう。

 洒落たスーツ姿のヨーロッパ選手、原色の民族衣裳のアフリカ選手、テンガロン・ハットのアメリカ選手、赤いハンカチを振るソビエト選手……。「世界の国々」の「世界の人々」の行進は1時間以上も続き、大人たちは目を潤ませ、子供たちは何やら得体の知れぬ興奮に顔を火照らせ、誰もがただ黙って見つめ続けた。

 そして最後に日本選手団が登場したとき、カラーテレビの真ん中が真っ赤な太い帯で覆われた。慌てた父親が前に出て受像器の側面を平手でバンバンと強く叩くと、画面を覆った太い帯は消え、ハーレーションの原因となった日本の大選手団の鮮やかな真紅のユニフォームが浮かびあがった。

「値段の高いカラーテレビも、叩くと直る。白黒テレビと同じでんなあ」
 親父の言葉に皆が大笑いした。そのときやっと興奮と緊張の糸が緩み、いつもの明るい笑い声が響く下町商店街の空気に戻ったのを憶えている。

 カラーテレビの価格は23万円。大卒初任給が1万5千円程度の当時、一般人が手を出せるシロモノではなかった。

 カラーのオリンピックは開会式だけ。競技はすべて白黒だったが、その後2週間、興奮は持続した。


 学校でもテレビでオリンピック。カヌー、ボート、フェンシング、自転車などのスポーツを生まれて初めて見た。家に帰ってもオリンピック。三宅義信の重量挙げで誰もが肩凝りになり、新山下跳びのウルトラCに喝采を送り、チャスラフスカの妙技に溜息。競泳ショランダーの若さに驚嘆し、ヘーシンクの強さに唖然とし、女子バレーボールの勝利に涙。哲学者のようなアベベの顔に圧倒された。

 陸上女子800メートルを学校で見たときは、一つの事件が起きた。優勝したイギリスのアン・パッカー選手がゴールしても足を止めず、走り続けてトラックの端に立っていた男性の首に飛びつき、キスしたのだ。

 その瞬間、教室の空気が凍りついた。担任の先生は黙ってテレビのスイッチを切った。子供たちは唾を呑んだ。が、けっして気まずい雰囲気ではなく、どこか暖かい空気を感じた。それは、スポーツの爽やかさを初めて味わった瞬間だった。

 東京オリンピックに出場した日本人選手は、誰もが悲壮感を漂わせていた。陸上100メートルの飯嶋秀雄。女子80メートルハードルの依田郁子。メルボルン、ローマ両大会銀メダルのあと東京での活躍を期待された水泳の山中毅。女子バレーや柔道の選手たちも……。誰もが必死の思いなのはテレビ画面を通してもわかった。勝っても負けても涙する営みは美しく尊くも感じられたものだったが、アン・パッカーの奔放な爽やかさとは明らかに異質だった。

 のちに私は1964年の東京オリンピックが、戦後の新しい時代の出発点と言うより、むしろ一つのゴールであり到達点であることに気づいた。

 明治の文明開化以来、欧米列強に追いつけ追い越せと頑張ってきた先人たちは、第二次大戦でつまずいた。が、再度頑張り、焼け跡から甦った。その結果が、1964年の東京五輪であり高度経済成長だったのだ。

 小学校の屋上からは、遠くに新幹線の走る姿が見え、戦後初の国産飛行機YS-11が空を飛び、部分開通した名神高速道路へは、親父が初めて購入した軽トラックでドライヴに連れて行ってくれた。それらは満鉄や零戦などとの深い関係から生まれた一つの結果だった。

 そんな時代に家の近くを聖火リレーが走り、運動会で三波春夫の『東京五輪音頭』を踊ったのだ。東京オリンピックは、全国的な「祭」の頂点に位置した。


 しかし頂点に到達したあとは、下り坂しかない。東京大会でアメリカ、ソ連に次ぐ16個の金メダルを獲得した日本のメダル獲得数は、その後減り続け、92年バルセロナ、96年アトランタの両大会では3個にまで低迷。世の中も高度成長後の石油ショック、プラザ合意後のバブル経済とその崩壊、失われた20年……と、閉塞した時代に陥った。

 しかし04年アテネ大会では東京五輪に並ぶ16個(第5位)の金メダル、12年ロンドン大会では史上最多38個(11位・金7銀14銅17)のメダルを獲得。

 日本スポーツ界の復活を担った水泳、体操、女子レスリング、女子サッカーなどの競技は、以前のように学校体育や大学の体育会で育った選手ではなく、地域社会のスポーツ・クラブから育った選手たちが中心だった。

 世界で通用する選手たちは「先生-生徒」「先輩-後輩」という縦の命令を軸とする体育会組織ではなく、コーチが競技者をサポートする「アスリート・ファースト」のスポーツ組織から育つようになった。そして体育組織では体罰問題が次々と表面化し、限界を露呈した。

 スポーツ以外の世の中でも、高度成長を担った体育会系のモーレツ・サリーマン、モーレツ営業マンは姿を消し、ITを駆使する現在のビジネスマンは自ら企画を立案し、状況を判断して行動できるSI(スポーツ・インテリジェンス)の持ち主が求められるようになった。

 そんな時代の変わり目に、2020年の2度目の東京オリンピック開催が決定したのだ。そして1964年の記憶にはまったく残っていないパラリンピックの開催も……。

 近代日本の上昇志向と上意下達の体育会的社会から、あらゆる人々が自立し、真の豊かさを共有する成熟したスポーツ的社会へ。その大転換のなかから、新しい時代の日本社会の建設が始まるはずだ。

(共同通信配信新年企画+NBSオリジナル)