2020年東京五輪を開催する意義とは…?(玉木正之)
2020年、2度目の東京オリンピック・パラリンピックの開催まで、あと6年半。その開催の「意義」を、改めて考え直してみたい。
1度目は、言うまでもなく1964年。
当時パラリンピックはオリンピックと同列に語られることもなく、第二次大戦後に傷痍軍人のためのリハビリ競技会を催したイギリスの病院の名前を冠し、「国際ストーク・マンデビル車椅子競技大会」という名称で開催された。
期間はオリンピック(10月10~24日)の約1か月後(11月8~12日)の5日間。主会場はオリンピックで陸上競技の練習場として使われた代々木公園陸上競技場(通称・織田フィールド)。オリンピックが93の国や地域、参加選手が約5千人だったのに対して、22か国、375人の参加(日本人選手の参加は53人)という小規模な大会だった。
それが7年後の2度目の東京五輪では、オリンピック(7月24日~8月9日)には200を超える国と地域、1万人を超える選手が参加(競技数が定まっているため、12年ロンドン大会とほぼ同数=註:野球とソフトボールが加わる可能性が出て来ましたが…)。
それに対して大会ごとに参加国・参加選手数の増加しているパラリンピック(8月25日~9月6日)は、ロンドン大会(164か国・地域。選手約4千人)を大きく上回る参加が予想される。
このように半世紀を経て開催される2度目の東京五輪は、その規模が大きく拡大すると同時に、オリンピックだけでなくパラリンピックへの注目度が高まる大会になるはずだ。
前回の東京五輪では第2次大戦からの復興と国際社会への参加を旗印に、首都高速道路や新幹線がつくられ、都市のインフラが整備された。それに対して今回の東京五輪では、一部高速道路の地下化や、電柱の撤廃、都市全体の緑化のほか、パラリンピックの規模の拡大と合わせて、東京だけでなく日本全体のバリアフリー化などが進むに違いない。
市川崑監督の映画『東京オリンピック』では、冒頭に巨大な鉄球が現れて古いビルを破壊し、東京が新しい都市に生まれ変わる様子が描写されていた。が、2度目の東京五輪では、東京や日本が、より成熟した都市や国に生まれ変わるきっかけとなることを望みたい。
1964年東京オリンピックと2020年東京オリンピック・パラリンピック。この2大会の間の大きな変化――スポーツだけでなく、国全体の変化、さらに日本国民全体の意識の変化など、すべての変化を、私は、「体育からスポーツへ」というひとつのフレーズで語ることができると考えている。
1964年の東京五輪当時、大会での活躍を期待できるメダル候補の有力選手たちの多くは、スポーツ競技が強い体育会系運動部のある大学(日体大、日大、中央大など)や自衛隊体育学校に送り込まれた。それは、大学(などの学校)以外に、スポーツを行う施設がほとんど存在しなかったからだった(欧米のような地域社会のスポーツ・クラブが存在しなかった)。
また、戦前の軍国主義化(軍事教練化)した体育教育が、戦後になってGHQ(連合国総司令部)によって禁止され、小中学生の体力テストも禁止されていた。それを、東京オリンピックをきっかけに新しい戦後新しく復活させようとしたのだが、新しいアイデアは出ず、結局、戦前に陸軍が主導して実施した体力テストが復活。手榴弾投げがソフトボール投げに変化し、三八式歩兵銃を扱うには自己の体重を持ちあげる腕力を要す、という陸軍の指導による懸垂も復活した。
そうして、跳び箱、鉄棒、マット運動等が体育教育の主流となった結果、日本の男子体操競技は黄金時代を迎え、1960年ローマ五輪から78年ストラスブール世界選手権まで、五輪・世界選手権10連覇を達成した。
加えて東京五輪の終わったあと、開会式の行われた10月10日を記念して「体育の日」が設けられた(英語での表記は、Health and Sports Day で、「健康とスポーツの日」)。また「国民体育大会」も英語表記では National Sports Festival で、こういうスポーツと体育の混同に加えて、あらゆるスポーツが文部省(のちの文科省)という教育を司る省庁の管轄だったこともあり、64年の東京オリンピックを着かけに、国民のあいだに「スポーツ=体育」という概念が根付いてしまったのだった。
同時に、パラリンピック系のスポーツが厚生省(のちの厚労省)の管轄だったため、身障者のスポーツ競技は、スポーツというよりもリハビリテーションという意味合いが強く残ってしまったのだった。
スポーツとはラテン語のデポラターレから生じた言葉で、日常の労働から離れた営為のことを指す。従って芸術・芸能なども広義のスポーツの一種で、近代オリンピックでも芸術競技が正式競技とされ、油絵、水彩画、彫刻、作曲、音楽演奏、詩、文学などに、金銀銅のメダルが贈られた時期もあった。
1948年のロンドン大会を最後に、芸術は競うものではないとの考えから正式競技からは外され、オリンピック開催都市は身体競技と同時に「芸術展示」を行わなければならない、という規則に変わった。が、現在でもアジア大会では、ダンスや囲碁などが正式競技として行われ、スポーツとは「体育」よりもかなり広範囲な概念と言うことができる。
しかもスポーツは、誰もが自由に、自主的に、強制されることなく、楽しむ、というのが大原則。監督・コーチなどの指導者は、競技者(アスリート)を助ける(サポートする)存在であり、「選手が第一(アスリート・ファースト)」がスポーツの大原則といえる。
ところが体育は、指導者(先生や先輩)が学生や生徒を強制的に命令指導し、スポーツ競技を通して学生や生徒の身体を鍛え、体力を付けさせることを目的としている。もちろん体育教育は、知育、徳育と並んで青少年の教育のうえでは重要だ。が、体育とスポーツの混同は、「アスリート・ファースト」の大原則を忘れて指導者(先生・先輩)が上位に立つ傾向がきわめて強くなる。
その結果、指導者が「体罰」という名の暴力を揮うことが許容されてしまうような土壌も生まれてしまう。また、「学校内のルール」が優先されるため、「誰もが自由に」楽しむというスポーツの原則も忘れられ、特定の学校(や企業)に入らなければ、レベルの高いスポーツ指導が受けられないような状態が作られてしまった。
そういった体育指導の限界が露呈した結果、64年の東京大会以降、オリンピックでの日本の獲得メダル数は大会を追うごとに減り続け、とりわけ「お家芸と」いわれた、水泳、体操、柔道、レスリングなどのメダル獲得が激減した。
しかし、04年アテネ大会のころから、水泳や体操でのメダル獲得が復活。それは学校の体育教育のなかで選手が育ったのではなく、町の水泳教室や体操教室から選手が育った結果だった。さらに学校体育でなく地域社会のスポーツ・クラブでの選手育成を目標に掲げるJリーグが1993年に発足。男子サッカーのレベルを急上昇させると同時に、女子サッカーの育成にも力を入れ、女子はW杯優勝、ロンドン五輪2位という快挙も達成した。
あるいは卓球、レスリング、フェンシングなど、学校の体育教育や課外活動の名門校のクラブから選手が育つのではなく、ナショナル・トレーニング・センターのエリート教育で中高生の選手を育てるケースも出てきた。
まだまだ施設面で整備が遅れ、ヨーロッパのような地域社会のスポーツ・クラブがスポーツの発展の中心を担うまでには至ってないが、「体育からスポーツへ」の変化が起こり始めているところへ、2020年2度目の東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まったのだった。
64年の東京オリンピックのあとは、日本も高度経済成長を迎え、数多くの「モーレツ・サラリーマン」が活躍した。それもまた体育会系の「企業戦士」だったと言える。上司の命令に従って、体育会系のガッツで契約を取ってくる。そんなビジネスが可能だった時代の方法論だったとも言えるだろう。
それに対して最近のビジネスマンは、ただガッツで上司の命令どおりに動くだけでなく、分析力、企画力、表現力(プレゼンテーション能力)等も問われるようになった。求められているのは、先生や先輩の指示やサイン通りに動く体育会系選手ではなく、SI(スポーツ・インテリジェンス)を身に付け、練習方法から試合での戦略・戦術を(コーチと共に)自分で考えるスポーツマンであり、それは最近の「体育からスポーツ」への変化とまったく軌を一にするものと言えよう。
また2度目の東京五輪開催決定の直後、厚労省の管轄だったパラリンピック系の身障者スポーツが、すべて文科省の管轄に移行することが決定した。近い将来はスポーツ庁(あるいは文化庁、観光庁と一緒になった「文化・観光・スポーツ庁」)が設置され、体育教育から切り離されたスポーツのあり方が推進されるに違いない。
が、そのとき、強固に学校体育(教育)と結びついた競技はどうなるのだろう?
たとえば高校野球。日本の女子野球は、W杯で3連覇を果たしたほどの実力があるが、競技人口は少なく、女子高校野球はほとんど普及していない(全国で約15校)。が、誰もが楽しめるのがスポーツだとするなら、「全国高等学校女子硬式野球連盟」が「日本高等学校野球連盟(高野連)」と別に存在するのではなく、同じ組織のなかに男子野球と女子野球、それに身障者野球なども加えられるべきだろう。
実際スポーツ先進国のイギリスでは、女性のスポーツも身障者のあらゆるスポーツも、一つの競技団体の中に同居することが、法律で定められている。つまりフットボール・アソシエーション(サッカー協会)には、一般社会人やプロの男女のサッカー、学生や生徒の男女のサッカー、身障者、視覚障害者、知的障害者などの男女のサッカー……等々が、一つの競技団体に存在しなければならないことになっている。陸上競技や水泳競技でも同じで、陸上競技連盟の会長が車椅子ということもあり得るのだ。
それが「誰もが楽しむ」スポーツ本来のあり方と言え、そのような視点から日本のスポーツ界を見てみると、まだまだ「バリアフリー」とは言えない状態なのである。
先に書いた野球をもう一度例に取るなら、プロ、社会人、大学、高校から、ボーイズリーグやリトルリーグまで、別々の組織で別々に行動している日本の野球は、スポーツ庁管轄のスポーツ組織となるならば、一つに統合されるべきだろう(まさか高野連が、自分たちは教育組織だから文科省に留まるなどとは言い出さないだろうが……?)。
日本の野球は、プロ=読売、社会人=毎日、高校=朝日と、各々ジャーナリズムを担うべきマスメディアが、強い結びつきから大会の主催者やチームの所有者になっている。そのため企業としての利害から、スポーツ・ジャーナリズムとしてスポーツ(野球)本来のあり方を歪めているとも言える。
「体育からスポーツへ」……その大きな変化の流れのなかで、マスメディアと野球だけが旧態依然とした体制として残るのではなく、自ら主催者や所有者の地位を放棄し、新しいスポーツのあり方の範を示してほしいと切に願わざるを得ない。
体育からスポーツへ。社会全体が、そのような変化の波に乗るなかで、二つの意味が考えられる。
一つは多くの人々が、暮らしの中で運動競技としてのスポーツを、自由に自主的に楽しむようになること。その結果、腰痛や心臓疾患の患者が減れば、国の医療費削減にもつながる。
そしてもう一つは、スポーツの考え方を、あらゆる暮らしのなかに取り入れること。あらゆる差別が取り払われ、誰もが参加できる社会のなかで、スポーツを行うように生活する。
スポーツの要諦は合理主義である。体育のように命令されて動くのではなく、自律的に無駄(な動き)を省き、より速く、より高く、より強く、を目指す。そこに美しさも生まれ、満足度も高まる。あらゆる生活にスポーツが溶け込めば、多くの人々に生きる希望と幸福感を呼び起こすに違いない。
そんな成熟した社会を作ってこそ、2020年東京オリンピック・パラリンピックを開催する意義があるのではないだろうか。
(『調査情報』2013/11-12月号+NBSオリジナル)