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引き裂かれたイレブン ~ オシムの涙

 1980年代後半から始まったユーゴスラビア崩壊を、サッカー代表チームからの視点で振り返ったドキュメンタリー。2000年にオランダで制作された。
 多くのスター選手を擁し、90年W杯イタリア大会ではベスト8に輝いたユーゴスラビア代表だったが、次第に国政情勢の渦へと巻き込まれていく。92年5月に国連安全保障理事会で決議されたユーゴスラビア制裁を、FIFA(国際サッカー連盟)とUEFA(欧州サッカー連盟)は受け入れ、すべての国際試合からユーゴスラビア代表を締め出すと決定。その年の欧州選手権(ユーロ)では、開催国のスウェーデンに到着していながらユーゴスラビア代表は、試合をすることなく強制帰国を余儀なくされる。
 91年にクロアチア、スロベニア、マケドニアが、92年にはボスニア・ヘルツェゴビナが、それぞれ独立を宣言。惨事をくり返しながら、国家は次々と分裂していく。すると、99年のユーロ予選において、クロアチアとユーゴスラビア(この時点ではセルビアとモンテネグロの連邦共和国。新ユーゴとも呼ばれていた)が、同じグループに入るのだった。
 両代表が対戦したホーム&アウェイ2試合の模様を構成軸にして、分裂前のユーゴスラビア代表最後の監督だったイビチャ・オシムをはじめ、かつては同じ代表のユニフォームを着た間柄ながら、モンテネグロ人の選手、クロアチア人選手、あるいはクロアチア人の母とセルビア人の父を持つ選手と、それぞれに立場の異なる者たちから、それぞれの当時が語られていく。

  2011年4月、ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー連盟では、国内主要3民族を代表する3人により、1年半ごとに連盟の会長職を持ち回りしていたのだが、これがFIFAの規約に抵触するとして、代表チームや国内クラブの国際大会参加が禁止されてしまう。
  こうした混乱を収束すべく、オシムがボスニア・ヘルツェゴビナサッカー連盟の「正常化委員会」委員長に就任。14年W杯予選参加への道筋を拓いていった。
 そして13年10月15日。W杯欧州予選最終節で、ボスニア・ヘルツェゴビナはリトアニアに勝利。建国21年目にして初となるW杯出場を決めてみせた。その瞬間をスタジアムで見守ったオシムの眼には、かつては流すことの許されなかった、喜びの涙が浮かんでいた。