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追悼・川上哲治『野球は禅である』④最終回 川上の遺産(ロバート・ホワイティング/訳・星野恭子)

 1971年のボルチモア・オリオールズとの試合は、川上のチームがどんなプレイができるかをアメリカ人に示す最後のチャンスとなってしまった。3年後の1974年には、川上の長年のライバルであるウォーリー与那嶺監督率いる中日ドラゴンズが、セリーグのペナントレースを制し、ジャイアンツの連覇を止めてしまったからだ。もちろんそれは、ハワイ出身の日系アメリカ人による痛快なリベンジにもなった。

 川上率いるジャイアンツは選手の年令を感じさせたが、それは川上自身にも言えることだった。彼はもはや中年太りで、近眼を矯正する厚いレンズのメガネをかけたスポーツ好きのただの年寄りになってしまった。彼は辞表を提出し、後任監督には38歳の長嶋を指名した。長嶋は球団フロントから監督としての教育を受けていたが、長嶋が引き継いだジャイアンツは次のシーズン、最下位に沈んだ。それは球団史上初の順位で、チームは屈辱を味わった。

 かつて鬼軍曹だった川上はそれからの20年はテレビのコメンテーターとして活躍したり、リトルリーグ野球のキャンプを組織して全国を行脚したりした。また、監督術をテーマにしてベストセラーとなった著書『悪の管理野球』を出版したり、リーダーシップやマネージメントの指針などをテーマにしたビジネスマン向けの講演会を行うため、全国を駆けまわった。

 「選手のほとんどは怠け者だから、選手に一生懸命練習させるのが監督の仕事だ。礼儀正しい選手が強いチームをつくる。正しいマナーを身に付けさせるのも監督の仕事だ。いい人だと言われるリーダーは失敗するだろう。一匹狼はチームのガンだ」

 1979年、大下弘が自殺し、川上は長年の好敵手だった戦友に永遠の別れを告げた。選手引退後も試合後の酒場巡りを楽しんでいた大下は、パリーグの阪急ブレーブスの打撃コーチを経て、東映フライヤーズの監督に就任したが、シーズン途中で辞任した。自分の人生を生きるにやっとだった彼は、他の選手の人生を左右する監督業には向いていないと判断したからだ。そして、1978年に脳卒中で倒れ、回復の見込みがないことに絶望し、致死量の睡眠薬を服用し、自殺したのだった。


 川上が過去に指導した選手たちの何人かはその後、監督になり、川上流の管理野球を導入することで輝かしい成功を達成している。なかでも最も有名なのは、ジャイアンツのショートだった広岡達郎だ。監督になってからの彼は、皮肉なことに、川上の考え方に同調するようになった。広岡はよく知られているように、選手たちに魚と大豆と玄米による徹底した自然食ダイエットを課し、麻雀やゴルフ、飲酒を禁止した。彼は選手たちに性生活についての助言まで行い、毎晩、自宅のベッドで寝ているか確認の電話をかけた。彼はウエイト・トレーニングを導入したが、同時にバントや走塁、守備を強化するための練習時間も増やした。あるシーズンでは、広岡は4カ月間1日も選手に休みを与えなかった。広岡は日本シリーズを3回制覇した。1回はヤクルト・スワロー時代の1979年で、あとの2回は西武ライオンズ時代の81年と82年のことだ。

 その後、広岡は千葉ロッテ・オリオンズのゼネラル・マネージャーになり、1995年、ボビー・バレンタインを監督に採用したが、そのシーズンの終わりにはクビにしてしまった。チーム成績は向上していたが、練習方針について意見が合わなかったことが理由だった。広岡はもっと練習を増やしたかったが、バレンタインは減らそうとしたのだ。また、1986年、広岡の後任として西武監督に就任したのは当時の広岡のアシスタントコーチで、ジャイアンツの5年後輩にあたり、V9時代に正捕手をつとめた森昌彦(編集部註:本名 1986年に登録名を、森祇晶に変更)だった。森は管理野球の精神を実行し、ライオンズをさらに6回も日本シリーズ優勝に導いた。選手として森は、さまざまなレストランや居酒屋で数えきれないほどの時間を川上と1対1で過ごし、監督術について教わっていた。森は、「川上さんは私にとって父親のような存在だった」と振り返る。また、王貞治も監督として、ソフトバンク・ダイエーを2回、日本シリーズ制覇に導いている。

 しかしながら、国民的ヒーローで、のちに「ミスター・ジャイアンツ」として知られるようになった長嶋の場合は、全く別のケースだ。彼は監督になって最初の6年間では76年と77年の2回しかリーグ優勝を果たしておらず、また日本シリーズの制覇はなかった。そのため、全国民をパニックに陥れた。79年にリーグ5位で負け越しとなった時には、伊豆半島での悪名高き「地獄のキャンプ」を実施することでチームにカツを入れようとした。そのキャンプは11月いっぱい続いた。この時期はほとんどのメジャーリーガーがゴルフ場でリラックスしている時期なのだが、ジャイアンツは1日7時間の練習を続けた。毎日の厳しい練習メニューに加えて、投手には1日10㎞のランニング、野手には素振り1000本が課された。倒れた選手は1人や2人ではない。キャンプの目的はファイティング・スピリットを養成することだった。長嶋は、「若手選手が人間として成長することを助けることが目的」と言っていたが、彼は容赦なく「鉄拳」も使った。選手の顔や体に殴打による青黒い痣が残るほどの鉄拳だった。

 しかし、そうした痛みはそれほどプラスにはならなかった。次のシーズンも、チームはたった1試合勝ち越しただけで、優勝争いには全く加わることができずに終わった。当時の長嶋監督は、どこか上の空で、集中力を欠いていたように見えた。ある試合で、彼は投手交代をせざる得ない状況に陥った。なぜなら、監督がマウンド上の同一投手の元に足を運べるのは1イニングに1回だけ、というルールを長嶋はうっかりと破ってしまったからだった。長嶋の愚かさにあきれた川上は、愛弟子を批判し始めた。彼は『週刊文春』誌上に、「監督として別の誰かを指名するときがきた」と語り、その後すぐに長嶋は解任された。


 そして、毎年秋に伊豆の温泉リゾートでジャイアンツOB会の年次集会があり、愛するジャイアンツの再生方法などが話し合われるが、そこで川上が会長に選任された。それはちょうど、メディアが川上を、「球界のドン」と呼び始めた頃のことだった。川上の裏切りに対して激怒した長嶋は、その後10年間、川上と話をしなかった。ただし、長嶋がもう一度監督をするチャンスを与えられた1990年だけは、二人の間の冷戦は和らいだ。長嶋はその後、1994年と2000年の2回、日本シリーズを制することになった。が、長嶋は日本シリーズの連覇はできなかった。

 王貞治も、1984年から89年までジャイアンツの監督を務めたが、ただ1回のペナント優勝だけに終わった。その他、川上が監督を務めた以降、ジャイアンツ監督を務めた誰一人として、日本シリーズの連覇は達成していない。そのうえ、チームの人気は落ちている。もはや、巨人戦が毎晩、テレビ中継されることもない。

 今もなお、川上の遺産はその影響を及ぼし続けている。徹底して厳しく合理的で、細部まで管理する彼の野球への取り組みは、今もなお、さまざまな形で生き続けている。それは現在も、読売ジャイアンツ、楽天、ソフトバンク、西武、その他、川上が指導したことのある少年野球のクラブチームやアマチュア・チームも含めて、日本における野球チームのほとんどのキャンプ地に訪問してみれば明らかだろう。時には、その管理野球が、支配を受ける外国人選手の頭痛の種になることもある。

 1992年、川上は球界への長年の貢献を評価され、「文化功労賞」を受賞した。川上は記者に、「私が野球を始めた当初は、野球は下級の職業だと見なされていた。が、今は文化的に重要なものだと認められた。そのことが何よりも嬉しい」とコメントしている。

 90歳になるまでは定期的にゴルフに出かけるなど健康を保っていて、心肺機能も鍛えていた川上は、2013年10月30日、眠るように息を引きとった。彼の死は多くのメディアで報道され、例えば『日刊スポーツ』紙は翌日の朝刊で10ページを割き、彼の人生を振り返った。

 川上は選手として7回、監督として11回の日本シリーズ制覇を果たしたが、それほどの勝利に関わった野球人は日米両リーグを通じて誰もいないと言って間違いない。

 その偉業は忘れられない記憶としてずっと残る。

 王貞治は言った。
 「これは、絶対に破られることのない、偉大な記録です」

                            (終)