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追悼・川上哲治『野球は禅である』③和をもって野球となす(ロバート・ホワイティング/訳・星野恭子)

 川上のもう一つのモットーは「調和」を意味する「和」だった。よく次のようなことを話していた。「個人主義はチームを壊す。自分は沢村賞受賞クラスの投手が3人いるより、10勝クラスの投手を揃えるチームを選ぶだろう」と。彼はチームに自分の命令に従う選手と彼らの結束を求めたのだ。

 この考えの証拠は1965年に顕著になった。それは、日本球界で通算最多勝投手の金田正一が32歳でフリーエージェント(訳註・当時は「10年選手」「15年選手」として移籍できる制度があった)となり、サンフランシスコ・ジャイアンツからのオファーを断って、日本のジャイアンツに移籍した時のことだ。金田は在日朝鮮人として生まれ、ジャイアンツ移籍までは同じセリーグの国鉄スワローズに所属し、通算353勝を挙げていた。スワローズは万年弱小チームで、金田一人で27勝を挙げていた。長身の痩せ型で自信家のサウスポー金田は、球種は2つしか持っていなかった。が、1つは目もくらむような速球で、金田自身によれば時速160㎞は出ていたという(当時はまだ、球速を測るレーダーガンは未開発だった)。もうひとつは12時から6時の方向に大きく落ちるカーブだった。しかも金田はこの2つの球種とも並外れたコントロールで投げた。

 金田はまた、日本で最高の投手として強い特権意識を持っていて、チームでも自分の思うままに行動していた。有名な一例を挙げると、1960年9月後半に行われたある試合の5回、金田のいるスワローズがリードしていた場面のことだった。マウンドにはルーキーの先発投手。監督は平然と眺めていただけだったが、金田はベンチから出てタイムを要求し、自らピッチャー交代を審判に告げ、マウンドにのぼった。彼は勝ち星が欲しかったのだ。もし勝てば、彼にとってシーズン20勝目となり、それはまた10年連続の20勝であり、通算でも14年に伸ばすことになるからだった。金田は「天皇」の異名をとっていた。

 ジャイアンツと移籍契約を交わし、記者団から管理野球について質問されたとき、金田はジャイアンツに入団しても、「自分流」を貫くと宣言した。記者団は2人の「巨人」の間に何らかの衝突が必ず起こるだろうと予測した。

 しかし、ふたを開けてみれば、練習は問題にならなかった。なぜなら川上は金田の行動を承知の上だったからだ。川上は金田の悪い評判も知っていた。が、同時に金田が自分で言いふらしたりしないものの、間違いなく最も努力している選手だと川上は知っていた。実際、金田はキャンプに参加したとき、チームで最年長の投手だったが、誰よりも走り、投球し、捕球練習をしてチームメートの投手陣を驚かせた。厳しいことで有名な川上式の練習に慣れていたチームメートは、金田に比べたら甘い自分たちの姿勢を恥じ、より強い練習にも取り組むようになった。

 しかし、本当の意味でのテストはその後だった。金田は腕を骨折し、一軍登録を抹消されたが、彼は数週間後には骨折は完治し、体調もよく、一軍のローテションに戻る準備が整ったとアピールした。しかし、川上はそのアピールを無視し、「準備万端だという金田の言葉は信用していない」と記者団に語った。それどころか、川上は金田に対して、本当に準備万端だと示すために二軍での先発登板を命じたのだ。金田は唖然とした。彼の輝かしいキャリアにおいて、二軍のマウンドで自分を証明しなければならないなど、おそらく16歳で高校を中退し、プロに入った1年目を除けば、これが初めてのことだったからだ。


 評論家の多くは、金田への二軍送り宣言は未来の殿堂入り選手に対して自身の権威を確立しようとする川上なりの手段だと考えた。金田はひそかに不満を漏らした。が、それがどんなに気恥ずかしいことであっても、とにかく言われた通りにするより他に選択肢はなかった。彼は「リトル・ジャイアンツ」(二軍はこう呼ばれることがあった)での1試合に登板し、試合後に二軍の監督は、伝説の投手に合格点を与えるリポートを川上に提出した。相応の謙虚さを見せていた金田は、一軍に呼び戻された。

 金田は引退までの5年間をジャイアンツでプレイし、57勝を挙げて、夢のような大記録となる通算400勝に達した。彼はシーズンでの勝ち星に関係なく、ジャイアンツが日本シリーズに出場したときは常に、川上から第1戦の先発投手に指名された。

 もうひとつ川上の印象的なエピソードといえば、1966年、19歳の自信家の新人投手に、平手打ちを食らわしたことだ。堀内恒夫という名のその投手は、プロ1年目で16勝2敗という立派な成績を残し、タイトルを多数受賞していた。だが、スポーツ記者たちから「悪太郎」とあだ名を付けられるなど、好感度の高いタイプの選手ではなかった。彼はチームの先輩選手たちに対しても無礼だった。彼の会釈は普通よりも浅く、したかしないかわからないほどだった。また、読売新聞社の役員たちは堀内がマウンド上で1球投げるごとに唾を吐くという不快な行為について、止めるようにと忠告こそしなかったが、快くは思っていなかった。なぜなら、その行為はテレビ映りが悪く、チームのイメージにとっても最悪だったからだ。

 堀内はチーム内でももめ事の種だった。何度も門限破りで捕まり、そのたびに体罰を受けたが、平然とした様子で耐えていた。「俺は天才ピッチャーだ」「俺はエースだ。練習しなくても勝てる」。堀内は記者団に自慢げに語った。彼は1月の自主トレーニングで、明らかに手を抜いていた。そのため、準備不足のまま春季キャンプに現れた。川上は堀内を二軍送りにし、しばらく留まらせた。前年、球界一の実績を上げて沢村賞を受賞した投手がまるで未熟なルーキーのように、二軍からもう一度やり直して自分の力を証明しなければならなかった。堀内は、川上が彼を一軍に呼び戻すまでの、まるまる2カ月間、ジャイアンツのコーチ陣が命じた過酷なトレーニングのすべてに耐え、さらに初期の態度の悪さを謝罪するため頭が床につくほどの正しいおじぎをするよう求められた。

 川上は1973年のシーズン序盤、堀内に謙虚さを学ぶもう一つの課題を与えている。堀内はその前年、26勝9敗で自身2度目の沢村賞を受賞していたが、ある試合で、10点差でリードしたジャイアンツが5回の守備につき、ツーアウトランナーなしの場面で、川上は堀内をマウンドから降ろしたのだ。それは堀内の勝星をひとつ奪うことだった。貢献度の最も高い投手をマウンドから降ろすなんて、メジャーリーグの監督ならありえない行為だ。だが、川上は、堀内が全力を尽くしていないので、彼はマウンドを譲らなければならないと考えた。堀内は明らかに驚いた様子だった。が、抗議することはなかった。

 川上のそうした行動から、川上率いるジャイアンツの生活と捕虜収容所での生活とを比べる選手までいた。1973年に東映フライヤーズからジャイアンツに移籍した高橋善正は、夕刊紙『ニッカン・ゲンダイ』での今年11月1日のインタビューで、彼の経験について次のように振り返っている。「ジャイアンツの雰囲気は独特だった。宮崎での春季キャンプのムードはフライヤーズ時代よりもかなり緊張感があった。全員がとても集中していて、冗談のひとつも聞こえてこなかった。飲酒は禁止されていた。門限の時刻に在室確認をするルールがあったほどで、違反すれば罰金だった。東映フライヤーズのキャンプでは練習後、ユニフォームを着たままでマージャンを始めることもあった。時には朝まで酒を飲み、そのまま試合に行くことも、珍しいことではなかった。でも、川上監督のもとでは、そんなこと想像すらできなかった。ジャイアンツは球場内だけでなく、プライベートの時間も同様に選手を管理していた。そうしないと選手は強くならないと、信じていたんだ」


 V9時代、ジャイアンツは極めて高い人気を誇っていた。4万5千人収容のホーム、後楽園球場はもちろん、彼らが試合を行う球場はどこも満員になったし、全試合がほぼプライムタイムに全国放送で中継され、視聴率はいつも第1位だった。当時はこんな流行語もあった。「巨人、大鵬、卵焼き」――日本人の好きなものだ。ジャイアンツが勝ち続けることで、逆に強烈な「アンチ巨人」派も誕生したが、国民の2人に1人はジャイアンツファンだと推計されていた。

 ジャイアンツの人気は「ON砲」と呼ばれる、王と長嶋の好打者ペアの人気が大きかった。2人は日本球界のもっとも偉大な選手だったが、ジャイアンツが連覇できたのは彼らの力だけではなかった。V9時代の外野手高田繁は、「川上監督以外、他の誰も巨人を9連覇に導くことはできなかったと思う。監督はそういう雰囲気をつくりあげた人で、選手をいつでも動けるように準備させ続けた。でも、腹を立てたり、誰かを怒鳴りつけたりすることはほとんどなかった。そうする必要がなかったからだ。監督がやらなければならなかったのは、選手がきちんと働くように、ベンチからただ眺めることだけだった。そんなふうにできる監督はそんなにいないでしょう。たとえ、川上監督のもとでケガをしても誰も文句は言いません。なぜならもし文句を言えば、監督はその選手を即刻ラインナップから外すだろうし、戻ってくることもできないだろうから。僕はそんな監督を心から尊敬していました」

 もちろん川上を悪く言う人もいた。アメリカ人の観測筋は、ペナントレースに勝つためスター投手の堀内を先発にリリーフにと、酷使していると思っていた。そしてそれは、堀内のキャリアを早期に終わらせる結果となった。例えば1972年シーズンには、堀内は公式戦130試合中、48試合に登板し、312イニングを投げた。2年後には46試合で276イニングに登板した。他のシーズンも同様だった。これは、ジャイアンツの投手陣が強制された、ほぼ毎日行われる投球練習と合わせて行われた。時には、1回250球から300球にもなる投げ込みとかマラソン・ピッチングなどと呼ばれる投球練習を命じられた。それは肩の故障を引き起こすほどで、実際、堀内の肩は基本的に28歳までにボロボロになった。それはメジャーリーグの選手に比べて圧倒的に早く、アメリカ人から見れば非論理的な虐待にほかならなかった。が、川上にしてみれば、それはただジャイアンツという機械を動かし続けるために必要なことを実行しているだけのことだった。個人の目標やキャリアの寿命は二の次だった。当時、チームが望む限り選手をチームに縛り付けることができるよう設定された保留条項の契約ルールのもとでは、堀内はただ笑って耐えるしかなかったのだ。

 川上の投手起用法が特に珍しいわけではなかった。日本球界では他の監督も選手を酷使していたうえ、過剰な練習を命じ、しばしば選手生命を短くした。そんななかで、ジャイアンツの厳しい練習については、当時の人気漫画で、川上も登場していた『巨人の星』のなかで美化されていた。しかし、1973年3月、20歳の湯口敏彦投手の死亡事件によって広く国民の批判を浴びることになった。この年の前半、『ジャパン・タイムズ』に掲載された記事の中で議論されたように、湯口は、川上体制下の二軍の一選手として、許容範囲を超えた連日の体罰や言葉による虐待によって、精神的な衰弱を被り、精神病院に入院することを余儀なくされた。そして入院中に突然、心臓発作によって死亡した。ある雑誌の調査では、自殺だと結論づけていた。

 湯口の死についてコメントを求められたときの川上は、冷酷で思いやりを示す様子もなく、「被害者は湯口に大金を使って無駄にした巨人のほうだ」と言った。

 その後の周囲からの反発は無視できないほどのものだった。例えば、ジャイアンツがシーズンオフのドラフト会議で1位指名した選手を含む4人が入団契約を拒否した。それでもなお、ジャイアンツの体制は以前と変わることはなかった。

 金田正一は、人間としての川上についてコメントを求められたとき、「川上さんはただ、イケズやっただけ。彼は選手に同情するようなタイプやなかった。しかし、そやからこそ、彼は9連覇もできたんや」


 V9を達成したジャイアンツが日本球界史においてベストチームだったことは間違いない。スター選手の王や長嶋はメジャーリーグの監督たちから公然と望まれる選手だった。ピーク時の堀内もそうだった。川上はアメリカ最高のチームと対戦し、巨人が本当に優秀なチームだとあらゆる人々に示したいと願っていた。当時は日本製のカメラや自動車、テレビ受像機が世界市場を支配する過程にあったが、そろそろ日本野球も世界を制するときだった……。

 1966年の秋、ワールドシリーズでバルチモア・オリオールズに4連敗を喫し、優勝を逃したばかりのロサンゼルス・ドジャースが親善試合のため訪日した。川上率いるジャイアンツは7試合中4勝を挙げた。(ドジャースはセ・パ両リーグの混成チームとも対戦し、通算成績9勝8敗1分けだった)。ドジャースはそのとき、のちに野球殿堂入りを果たしたサンディ・コーファックスとドン・ドライスデールという2人のエース投手を欠いてはいたが、それでもやはり、メジャー相手のジャイアンツのプレイは素晴らしかった。過去のメジャーチーム相手の日本チームの試合と比較しても、特に際立っていた。過去の試合は満足できる内容ではなかった(10年間で82試合して15勝)。しかし巨人は、王が打率3割4分4里でホームラン5本を見舞うなど、ドジャースの15勝投手クラウド・オスティーンを5回でマウンドから下ろした。

 ウォルター・オルストン監督は王と長嶋はアメリカでもスターになれると言明した。また、ジョン・ローズボロ捕手は新人の堀内はコーファックスやドライスデールと同等レベルの投手だと話した。それらは日本のファンの心が沸き立つような称賛だった。翌春、ジャイアンツはフロリダ州ベロービーチにあるドジャータウンでの春季キャンプに招待された。称賛は続いた。ドジャースの打撃コーチ、デューク・シュナイダーは王を、「キャンプでのベストバッター」と呼んだ。ゼネラル・マネージャーのフレスコ・トンプソンは「もしドジャースのサードに長嶋がいれば、60年代前半にもう2回ペナントを制することができる」と語った。また、一塁手のベス・パーカーは、「ジャイアンツは同じ練習を1日8時間、もう何年も続けているように思える」と話したが、もちろん、それは的外れなことではなかった。ドジャータウンでのキャンプ最終日、オルストン監督は監督としての川上について評価を示した。「川上流のチーム運営は素晴らしい。選手はとてもよく訓練されていて、ほとんどミスをしない。彼の作戦も見事だった」

 こうした称賛に気を良くして、川上は大胆にも「アメリカ人が我々に教えられることは、もはや何もない」と宣言した。

 残念ながら、それは事実だとは言えなかった。2年後、ジャイアンツはボブ・ギブソン投手とルー・ブロック外野手を擁するセントルイス・カージナルスと10試合戦って2勝しかできなかった。カージナルスはデトロイト・タイガースにワールドシリーズで敗れたばかりだった。1971年には、ボルティモア・オリオールズと戦って、1勝もできなかった。オリオールズはスーパースターのフランク・ロビンソンとブルックス・ロビンソン、さらにブーグ・パウエルに加え、20勝投手を4人も抱えていた。サイヤング賞を獲得したマイク・キューラー投手、さらにジム・パーマーやパット・ドブソン、デーブ・マクナリーだ。71年のオリオールズは秋のクラシック大会(訳註・ワールドシリーズのこと)でピッツバーツ・パイレーツに僅差で敗れはしていた。が、多くのファンから球団史上最高のチームだと考えられていた。


 オリオールズと巨人の間にあるギャップははっきりしていた。オリオールズ選手の体格は巨人の選手に比べて平均身長で約10㎝、体重では約10kg重かった。例えば、長嶋や王は178cm、体重80kgだったが、フランク・ロビンソン外野手は186cm、84kgで、1塁手のスラッガー、ブーグ・パウエルは195cm、104kgだった。オリオールズのアール・ウィーバー監督は川上にウエイトトレーニングを練習メニューに加えることをアドバイスした。日本のスポーツ界では、ウエイトトレーニングを行うと体重が増えて俊敏さが損なわれるとして敬遠されていた。が、ウィーバー監督は180cm、72.5kgのドン・ビュフォードを紹介した。彼は120mを越える大ホームランを放ったことがあり、定期的にウエイトトレーニングを取り入れていた。

 ウィーバー監督はまた、川上に試合での犠牲バントを多用することを中止するように勧めた。試合序盤からの犠牲バント作戦は、王が打席に立った時、1塁が空いていることがしばしばで、結果的に王が敬遠されることになってしまい、それはまさにスタースラッガーの打撃の機会を奪うことになっていると。

 犠牲バントは日本では珍しい作戦ではないが、メジャーリーグでは一般的に、監督も選手も非生産的な作戦だと考えている。野球と禅の関わりに対する川上の信念に反して、川上の犠牲バントは王がもっと多くのホームランを打つことを邪魔していたかもしれない。実際、日本の一部の評論家も、そう思っていた

 巨人を無安打に抑えたパット・ドブソン投手は、川上のチームは「型どおり」の野球をしたと話した。例えば、「2ストライク・ノーボールの場面から、日本の投手は必ず3つ続けて外してきた」と指摘した。オリオールズのバッターがそのことに気づくのにそう時間はかからなかったので、彼らは次にストライクボールが来るまでただのんびり待っていればよかった。ストライクボールは必ず飛んできた。それこそ、「管理野球」の課題のひとつだった。

→次回へつづく