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追悼・川上哲治『野球は禅である』② 型どおりを好んだ川上(ロバート・ホワイティング/訳・星野恭子)

 1961年、川上はジャイアンツの監督に就任した。そして彼が最初に行ったことは、日系アメリカ人の与那嶺を中日ドラゴンズにトレードに出し、チームから追い出したことだった。川上は純血(おそらく日本人的な純真さを持つの意)のチームにしたいためだと発表した。川上の辞書の中だけだが、「純血」の意味には王貞治をチームの選手として含めることに十分な柔軟さがあった。王の父は中国人で、台湾のパスポートを持っていたが、日本人の母をもったことの穏やかな恩恵を享受していた。日本で生まれ育ち、高校2年の年に彼の力で母校を春の選抜野球大会での優勝へと導き、その活躍がNHK放送を通して2500万人のファンに観戦されたことで国民的ヒーローになっていた。

 川上は「管理野球」として知られる、野球のやり方を編み出した。これは、選手をコントロールし、操る野球であり、選手のオンもオフもあらゆる側面を管理した。春季キャンプでは日の出から日の入りまで続く厳しい練習方法を確立させた。その練習にはノック1000本、フライの捕球100本、マラソンなどが含まれていた。そして、310勝を挙げ、ジャイアンツの前スター投手であり、武骨な別所毅彦がコーチとして鬼軍曹役を務めた。彼は反抗的な選手に対して、必要に応じて侮蔑的な言葉を投げたり、尻を蹴り飛ばしたりした。

 これは、「体で覚える」という日本的なアプローチだった。同じことを何度も繰り返すことで筋肉に記憶を憶えこませることを目的にした方法であり、同時に体の限界を越えることを教えることで選手にファイティング・スピリットを植え付けることも目的にしていた。川上はよく、「練習では打球に飛び込め。捕球をミスしたら、飛び込み続けろ。早かれ遅かれ、いずれキャッチできるようになる」と言っていた。

 日中の練習が終わると、夕方には屋内での筋肉トレーニング、さらには野球講義や座禅の瞑想会が続いた。日本ではジャイアンツだけでなく、他のチームも、メジャーリーグの典型的な練習とは比べ物にならないくらい厳しかった。19世紀末以来、日本における野球は本質的に、絶え間ない猛訓練と精神の鍛錬発達を目的とする。とはいえ川上は、春季キャンプをさらに上のレベルにまで引き上げた。

 監督として最初のキャンプで、川上は巨人(日本語でジャイアンツを意味する)をフロリダ州のベロビーチで行われたロサンゼルス・ドジャースのキャンプに参加させた。そこで川上はドジャース式の野球を彼のアプローチにも取り入れた。例えば、ドジャース流のサインの方法や守備のフォーメーション、外野からの中継の方法などだ。川上はそうした方法を日本で初めて取り入れた監督になった。

 川上はまた、ダウンスイングの信奉者になった。それは、その年ドジャースが取り入れた打法で、より多くのゴロを生み出すことで、モーリー・ウイルスやウィリー・デービス、その他、チームのラインナップに名を連ねる俊足選手の速さをフルに生かすために、ドジャースが多用した戦術だった。


 レギュラーシーズンが始まった時、川上式野球はドジャースや他のメジャーチームが想像する以上の厳しい要求を課した。例えば、どの試合の前にも必ず汗だくになるほどのエクササイズを求めたし、オフの日にも移動日にも厳しい練習を課した。また、ミーティングも日課で、試合前に相手チームを分析する作戦会議や、試合中にも選手を集めて円陣を組み、最新の風向きや相手投手の変化球の情報、その他重要な事項について選手にアドバイスした。さらに試合後の反省会では選手への批評や罰金などを言い渡したり、その日の試合で特にひどいプレイをした選手には翌朝の特別練習を指示したりした。

 シーズンが終わると、骨までしびれるように厳しい秋季キャンプが行われ、年末年始の休暇の直後にも、2月1日のキャンプインの準備として、「自主トレーニング」が行われた。それは非公式ながら全員参加が要望されていた。川上は選手に、厳格な外出禁止令を課し、適切な服装と振る舞いを指導し、彼らのイメージが損なわれることを恐れ、公の場では漫画を読むことを禁じた。さらに、選手の妻たちにも体重や健康の管理について指示したり、選手の睡眠不足や視力低下を防ぐためテレビの視聴時間まで制限するよう注意を与えたりもした。川上は妻たちに、こう言った。「あなたたちも、ジャイアンツの一部です」

 川上は厳しい罰金システムも設定した。若手の選手を指導するためには、理由ある場合は暴力の使用も許容し、単身選手用の寮の門限を破った選手は、寮監の「鉄拳」で罰せられた。素行不良の選手は脚や尻を竹の棒で叩かれ、喫煙しているところを見つかった10代の選手は、「私は20歳まで煙草は吸いません」と毎日100回書かされた。こうした逸話は、他にも山ほどある。

 最後に、川上の支配下に組み入れられたのはメディアだった。彼は練習中の球場からレポーターを締め出し、3塁側のダッグアウト脇に待機させ、あらかじめ球団の承諾を得ることなしには選手と話すことを禁じた。さもなければ、取材を制限した。川上はメディアの窓口として広報という役職を導入し、もし取材陣が特定の選手と話をしたければ、広報を通さなければならないようにした。長い時間を要する取材の場合は、球団からインタビュー料を要求された。これは日本のプロ野球界全体の不幸な制度として、今もそのまま残っている。取材陣はこうした条件に対し、「テツのカーテン」とあだ名をつけた。川上のニックネーム、「テツ」にちなんだもので、「テツ」は日本語で「鉄」を意味する。

 こうした川上流はよく機能し、選手たちは野球の基礎を教えこまれることになった。彼らは守備の上手い野手であり、打者としてはバントやヒットエンドランに長け、鋭くコツコツ当てるのが得意な短距離バッターだった。そして、長嶋や王が打席に立ったときはいつでも、得点圏にいるランナーとなった。投手陣も、さまざまな変化球を使いこなし、コントロールも素晴らしかった。ジャイアンツは61年と63年にセ・リーグのペナントレースと日本シリーズも制した。


 ただ一つのトラブルは、オールスター選手にも選ばれたベテランの遊撃手、広岡達郎だった。彼は1球ごとにサインが出され、打者や投手、時には野手までもがその指示に従わなければならないという新しいシステムに不満をもっていた。従来の日本野球はもっとシンプルで自由だった。広岡は64年、雑誌『週刊ベースボール』で日記の連載を始め、その中で新しいシステムについて反対意見を書いた。が、川上は2回目の掲載後、連載を中止するよう指示した。8月のある試合で、広岡が打席に入ると、三塁走者だった長嶋が彼自身の判断でホームスチールを試みた。すると広岡は、川上がスチールを指示したと勘違いし、彼のバッティングに対する川上の不安感のメッセージだと解釈してしまった。当時、彼の平均打率が2割を切っていたことを考えれば、確固たる信頼を抱かせるものでなかったことは確かだった。

 恥をかかされたと思った広岡は、三振を喫し、怒りに満ちてバットを地面に投げつけた。そして、めったにないことだったが、反抗的な態度でロッカールームに向かい、私服に着替えて帰宅してしまった。ジャイアンツの正力松太郎オーナーは、「ジャイアンツ選手は常に紳士であれ」と球団創設時から命じていたが、広岡の退場は球団の長い歴史上もっともスキャンダラスなエピソードのひとつになった。そして、当然のごとく翌朝のスポーツ紙の一面を飾った。ほとんどの新聞の編集者は川上が取材陣に課した条件について快く思っていなかったので、広岡を支持し、川上を非難した。その結果、広岡は、川上がすぐにトレードに出そうとした思惑からは逃れることができた。が、彼のジャイアンツでの日々は長くは続かなかった。翌年の春、彼は引退し、コメンテーターになった。だが、ドジャースが67年に再びベロビーチでキャンプを張り、広岡が取材陣の一人として球場を訪れたときには、川上は広岡の再三の取材要請を断り、選手にも広岡と話さないように指示した。

 川上は監督になっても禅の修行を続けた。それは、新たな意義を持つようになり、新たな環境に対して自分の認識を高めてくれる、と川上は言った。彼は後年、『禅と日本野球』という本を著し、その中で、「私にとって禅はすべてだ。禅を通して自分自身と世界を別の視点から見つめることができる。禅は個人としての私がどれほどちっぽけで、どれだけ他者の恩恵を受けているか、ということに気づかせてくれる」と書いている。

 川上は、物ごとはすべてつながっていると信じていて、その信念を選手にも説いた。「ホームランを打つ長嶋や王のようなスター選手も、彼ら自身の力でホームランを打っているのではない。彼らの前に出塁するチームメートや、ランナーを得点圏に進めるために犠打を打ち、相手投手にプレッシャーを与える他の打者たちに助けられているのだ。そういうチームメートの働きやプレッシャーなくして、スターは生まれないのだ。ただの一人さえも……」

 川上はまた、剣道や柔道における禅と同じように、野球における禅の作用を信じていた。それは、「野球道」ともいうものであり、その哲学の主要な支持者は王貞治だった。王は川上と同じく、高校野球のスター投手だったが、プロになった当初は苦労し、すぐに一塁手にコンバートされた。現在、よく知られているように、王はチームで一番の献身的な選手になるべく、深刻なアルコール依存症を自ら克服。武術の専門家で打撃コーチだった荒川博と一緒に、毎朝の練習を行った。荒川は、少々風変わりなフラミンゴ風の一本足打法を教えることで王のバッティングフォームの欠点の修正に一役買った。王はまた、重くて長い真剣を振り、天井から吊り下げた紙を半分に切るというかなり難しい課題にも取り組んだ。この練習で、彼は強靭な手首と打撃の絶妙なタイミングを磨いた。プロ入り4年目の62年のシーズン、王は急成長し、38本塁打でセリーグのホームラン王になった。それ以降、13年連続でタイトルを獲得し続けた彼は年平均45本塁打を打ち、川上監督時代に(9回優勝のうち)MVPに7回輝いた。

 一方、王と並ぶスター選手でゴールデンボーイの長嶋は、選手時代にMVPを5回、通算444本塁打を放ち、その間、日本アルプスにある山荘や富士山での孤独な逗留などで精神的な支えを得ながら、彼独自の禅にも似たアプローチで野球と取り組んでいた。長嶋は、完璧な素振りは「ビュッ」という特徴的な音を奏でると信じていた。音を聴くだけでいいスイングかそうでないかが分かる、というのが彼の持論だった。

→次回へつづく