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追悼・川上哲治『野球は禅である』①川上哲治の禅(ロバート・ホワイティング/訳・星野恭子)

 日本野球が好きな外国人のほとんどは、川上哲治の名前を知らないかもしれない。彼は最近、93歳で亡くなったが、ひょっとしたら、その時に名前を知ったかもしれない。川上は多くの日本人、特に第2次世界大戦世代の人々にとって偉大な文化的象徴(アイコン)だった。だが、もっと重要なことは、日本の代表的スポーツ(野球)が、現在プレイされている方向へと発展することに多大な影響を与えた、その転換の象徴が彼だったという事実である。

 川上は戦争中3年間の中断はあるものの19年、読売ジャイアンツの1塁手として活躍した。そのキャリアの中で、日本のプロ野球界で2000本安打を放った第1号の選手となり、メディアから「打撃の神様」と名付けられた。同時に、所属するジャイアンツを国民的チームに引き上げる原動力にもなった。

 彼はその後、スーパースター長嶋茂雄と王貞治が活躍した時代にジャイアンツの監督を務め、チームを14年間で11回の日本一に導いた。その中には1965年から73年にわたる史上初にして唯一の9連覇が含まれている。

 監督として彼は、現在、広く手本とされている、いわゆる「管理野球」という監督哲学を完成させた。「管理野球」とはチームを統制し、操作する野球の方法であり、マキャベリの戦術を伴う「禅僧の原理」とも結び付けられている。後年、川上はテレビのコメンテーターや講演者を務めたが、陰で糸を引く黒幕となり、「日本野球界のドン」という異名でも広く知られるようになった。

 川上は、高校時代はスター投手だった。熊本の農家の生まれで、1938年に大日本東京倶楽部(ジャイアンツの前身)に入団した。日本プロ野球の黎明期のことである。彼の契約金の300円というのは、前代未聞の破格の金額だった。彼の故郷の熊本なら、家1軒が買えたほどの額である。しかも月給は110円だった。しかし、1試合で打者11人に四球を与えた川上投手は、1塁手にコンバートされる。翌39年、打率3割3分8厘で日本リーグ(編集部註・当時は1リーグ制だった)の首位打者を獲得した。

 当時、川上は19歳。史上最年少での首位打者獲得であり、その記録はまだ破られていない。その後、真珠湾攻撃が行われ、召集令状が届くまでに、彼は、本塁打王とMVPに加え、2回目の首位打者も獲得した。


 川上は第2次世界大戦中、立川の基地で日本陸軍の軍事教練の教官を務めた。部下の中には若き日の丹波哲郎もいた。丹波は終戦後、俳優となり、1966年のジェームス・ボンド映画『007は二度死ぬ』でタイガー田中という役を演じた。

 川上は誰に聞いても口うるさく厳しい教官で、多くの部下から嫌われていたという。部下たちは、川上が自分たちを戦場へと先導したら、敵の攻撃によってではなく、部下の誰かが後方から投げた手りゅう弾によって、最初に死ぬことになるに違いない、とぼやくほどだった。

 しかし、そうはならなかった。彼は日本が降伏した1945年まで立川に留まり、終戦後は実家の農場で働くために熊本に戻った。翌46年のシーズンになって、ジャイアンツは川上にチーム復帰を求めたとき、彼は契約金3万円を要求した。それは、終戦直後の経済的混乱とひどい困窮の時代を考えれば、法外な額(ちなみに、その年のオールスター戦のMVPの賞品は生きたガチョウだった)だった。そのため、ジャイアンツは最初、入団を断った。両者の交渉の膠着状態はシーズン中盤まで続いたが、結局ジャイアンツが折れ、契約が結ばれた。これは日本球界で初めて契約交渉で選手側が抗戦したケースとなった。

 球界に復帰した川上は、地元のバットメーカーから寄贈された特徴的な赤いバットを使い、しだいに調子を取戻し、シーズン後半だけで打率3割5厘、10本塁打を放った。シーズン半分としては十分な活躍ぶりだった。身長175cmで75kgの川上は、張りのある筋肉質で、レベルスイング(水平打法)の打者に成長。外野フェンスを直撃するような低く派手な打球の「弾丸ライナー」がトレードマークだった。彼は深夜、チームの寮で素振りを繰り返すほどの完全主義者でもあった。

 戦後の川上にとって、打撃タイトルのライバルは東京セネタースの外野手である大下弘だった。彼は青いバットを使い、二人の戦いはプロ野球への興味を再燃させることに貢献した。同時に、B29による焼夷弾で焼け野原となった東京が復興に向けて必死にもがいている時代に、民衆の気持ちを大いに奮い立たせた。特に47年のシーズン終盤まで続いた激しいタイトル争いは人々を熱狂させた。結局、3割1分5厘でシーズンを終えた大下に対し、川上は3割9厘だったが、翌48年には川上が本塁打25本でホームラン王に輝き、リベンジした。一方、大下は50年に打率3割3分9厘で首位打者に返り咲いている。


 身長170cmで72.5㎏の大下は、台湾人の母と日本陸軍の将校だった父との間に生まれた。川上とは境遇も選手としてのタイプもかなり異なっていた。第2次大戦中は航空部隊に所属し、神風特攻隊に指名されたが、広島と長崎への原子爆弾投下により終戦となり、出陣を逃れた。

 大下はアメリカ流のアッパーカット打法で、下から上に舞い上がるように飛び、スタンドに吸い込まれる打球が特徴だった。ある日、北海道の円山球場で放ったホームランは、170mもの大飛球だったと言われている。また、川上が深夜、一人孤独に素振りを繰り返していたとき、大下は酒場に繰り出し、女性を追いかけ、泥酔して自宅に戻るのは朝の4時を回ることもしばしばだった。そんな彼には、次のような伝説もある。49年のある晩、朝まで酒を飲み、二日酔いのまま出場した試合で、1試合7安打の記録をつくった。大下によれば、その日のデーゲームは雨で順延になると予想していたのだという。また、あるときチームメートが「練習はしないのか?」と尋ねると、無頓着な大下は「本当のプロなら、自分がどれだけ一生懸命努力しているかを他人に知られてはならない」と答えたという。

 川上は50年のオフから、「禅」に取り組み始めた。それは、東京ジャイアンツのオーナーで、大量発行部数を誇る読売新聞の社主、正力松太郎氏の言葉に従ったことがきっかけだった。川上は、内なる自分に打ち克ち、集中力を磨きあげることを目的に、暖房設備のない仏教寺院に何日もこもり、瞑想し、経を唱え、経典を読み、希望者には自ら指導も行った。

 翌51年は彼にとって最高のシーズンになった。打率3割7分7厘で、その年に新設されたセントラルリーグの首位打者になり、15本塁打、81打点を放って同リーグの初代MVPにも選ばれた。シーズン中、川上が喫した三振は6回だけ。これは日本はもちろん、アメリカでもほんの一握りのバッターだけしかいない偉業である。彼はシーズン中の9月、集中力がとても高まっていて、ボールがホームベース上を横切るとき、ボールが「止まって」見えるほどだと語っている。

 だが、皮肉なことに大下の最高シーズンもまた、51年だった。彼は当時、やはり新設されたパシフィックリーグの東急フライヤースに所属していたが、打率3割8分3厘で、またもや川上を上回る打率で日本新記録を打ち立てた。その記録はその後20年も破られなかった。


 川上の禅はその後10年間、よい結果をもたらした。彼は49年からの8年間、平均打率は3割3分4厘だったが、53年には3割4分7厘、55年にも3割3分8厘で首位打者のタイトルを獲得している。また、50年代にジャイアンツを8回のセリーグ優勝と4回の日本シリーズ制覇に導き、MVPにも2回輝いた。56年には1646試合目で2000本安打に達したが、これは日本球界で史上最速の記録として残っている。テレビ放送の黎明期と重なり、読売新聞傘下のNTVテレビが試合の全国中継を始めたことも、川上とジャイアンツの人気を押上げた。のちには、ホームゲームの観客は1年間で200万人にも達した。57年には、『背番号16』という映画で川上は彼自身を演じた。

 一方、ライバルの大下は、54年にMVPに選ばれ、57年と58年に西鉄ライオンズがジャイアンツを下して日本シリーズを制するのに貢献したものの、打撃タイトルはそれ以上獲得することはなかった。しかし、新たな宿敵が川上の前に現れた。それは、ハワイ出身の日系二世、ウォーリー・与那嶺で、戦後、日本で初めてプレイしたアメリカ人である。最初、戦争中に米軍に所属していた与那嶺を売国奴と見なしたり、派手で果敢にスライディングするアメリカ仕込みの積極性を評価しない人々も多かった。が、与那嶺は50年代、打撃タイトルを3回、MVPを1回獲得する活躍をし、そうした敵意を克服した。

 与那嶺に対して、「ダーティー・プレイヤー」「目立ちたがり屋」などの悪評が飛び交い、「ヤンキー・ゴー・ホーム」といったヤジがスタンドから飛んだこともあったが、ファンやチームメートはそのうちに、この「闖入者」に対して友好的になっていった。しかし川上は、依然として距離を置き続けた。それは、かなり冷淡な距離だった。

 ジャイアンツの外野手、内藤博文によると、「川上は昔かたぎの男で、タイトルは日本人選手が獲るべきだという考えを持っていた」という。実際、もしも与那嶺がいなければ、川上は打率3割2分7厘をあげた57年に、首位打者をもう一度獲れたはずだった。だが、与那嶺の記録は3割3分8厘だった。この2選手は、チームメートだった時代、一度も腹を割って話をしたことがなかった。与那嶺の長男はいう。「これはまさに敬意と憎悪の話です。でも、私の父はいつもこう話していました。川上のおかげで自分は成長できたと」

 58年になると、川上はついに寄る年波に勝てなくなった。平均打率が2割5分を下回るようになり、シーズン中盤でクリーンナップの一角を人気者のルーキー、長嶋茂雄に明け渡すことになった。長嶋は映画スターのような外見をもつ、最高に陽気なスーパートップの野球エリートで、ヘルメットが飛んでしまうほどダイナミックなスイングで人々を驚嘆させた。「打撃の神様」はそのシーズンが終わると引退した。通算で2351打点、平均打率3割1分3厘は、どちらも当時の日本記録だった。そして、ジャイアンツは彼の背番号16を永久欠番に指定した。

 つづく……(英文はJapan Timesに掲載されました)