スポーツ絵画論・スポーツする身体《前半》(玉木正之)
この原稿は、日本経済新聞の文化欄(2013年10月7日~24日)に10回連載で掲載され、筆者(玉木)のホームページで少々書き加えられたものです。まずは最初の5回を、ノーボーダー・スポーツにも発表します。
スポーツの原義は、日常生活を離れた非日常的行為。労働を離れた遊びの時空間。
ならば絵画や彫刻もスポーツの一種で、広義のスポーツ(芸術)に描かれた狭義のスポーツ(身体活動)を見直してみたいと思う。
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石器時代はマチスやピカソの時代だった。
洞窟の壁に描かれた狩猟民は、誰もが美しく踊り、舞い、躍動していた。
弓を片手に狩に赴く青年は四肢を見事に四方に延ばし、現代のダンサーさながらに力強くジャンプしている。発達した太腿、引き締まった足首と胴、しなやかに伸びた両腕。弓は武器でなく、ダンスの小道具に見える。
《肉体! それは今世紀の最も重要な発見である。二十世紀は自分の肉体を自ら示すことを決意した世紀である》
……とは、モーリス・ベジャール(振付師)の言葉だが、「発見」とは忘れ去ってしまったことに気づき、思い出し、再発見する行為のようだ。
日常の労働が疎外されることなく、非日常的な喜びと融合していた幸福な太古の狩猟民たちの時代。ポスト・モダンのパンセ・ソバージュ(野生の思考)を、紀元前数千年紀に生きていたピカソやマチスが見事な洞窟画として描き残したのだ。
二度目の五輪招致に成功した都知事は、「スポーツを暮らしの中に」と言った。
が、太古の時代はオリンピックなどなくても、スポーツする肉体の喜びは日常に満ちていたのだ。
すべてのスポーツは肉体表現の一種と言える。
そしてダンス(舞踏)は、肉体表現(スポーツ)の基本であり根源である。
100メートルを人類最速の速さで駆け抜けるウサイン・ボルトも、空中で1回転する間に4回身体を捻る白井健三も、ゴール前でバイシクル・シュートを放つメッシも、相手の脚に飛び込んでタックルする吉田沙保理も、トリプル・アクセルを決める浅田真央も……。
スポーツマンやスポーツウーマンは、誰もが美しいダンスを舞い、踊っている。
そのスポーツの基本・根源をマチスは描いた。
緑の大地と青空、すなわち全世界を背景に、全裸の女性が五人、一つの輪になって踊る。まるでオリンピックの五輪の輪が一つになったように。
一見子供が無邪気に描き殴ったような下手な筆遣いと色遣い。それだけに躍動感に満ちた五人の裸婦は上下前後左右に動き続ける。停止しているはずの二次元の時空間の中で、生命観に溢れる彼女たちのダンスは、四次元の時空で永遠に続く。
いつまで見続けても見飽きない舞踏。
《ダンスの本質とは人間を、心の中の風景を表現すること》とはモダンダンスの開拓者マーサ・グレアムの言葉だが、ならば人間とは、なんと素晴らしい「心の中の風景」を持った生き物か。
踊る(スポーツする)喜び、人間の生の喜びは、マチスがこの一作に描き尽くした。
スポーツする身体③『ディスコボロス』古代オリンピック円盤投像
古代ギリシャのオリンポスの祭典では、演説や竪琴が正式競技として競われ、身体競技を描写した彫刻や壺絵なども、競って製作されたという。
人間は精神と身体が合体した存在。ならば「身体競技」だけでなく「精神競技」も必要と考えたクーベルタン男爵は、古代オリンピックにならって近代五輪でも、絵画、彫刻、音楽、詩歌、文学などの芸術競技を実施。金銀銅のメダルも与えられた(1912年第5回ストックホルム大会から48年第14回ロンドン大会まで)。
今日では芸術は競うものではないとの考えから、正式競技からは外されたが、五輪開催都市には芸術祭(文化プログラム)の実施が義務づけられている。
ロンドン五輪では各種コンサートの他、手話を含む33種類の言語によるシェイクスピアの連続上演などが行われた。
古代オリンポスの神々のような美しい身体に近づこうとする試みが身体競技(スポーツ)なら、芸術は歌や絵画や彫刻で神々を讃える行為。さらに神々の意向を問いかけて知る(想像する)行為がギャンブルとも言え、この3種は同じ根を持つ兄弟文化とも言える。
2020年の東京五輪では、はたしてどんな芸術祭が催されるのか?
ディスコボロス(円盤を投げる人)は、力強くしなやかな身体と思索的な面立ちが見事な均整を生む古代ギリシャの大傑作。現代の五輪もこの美しさに比肩する価値を!
「レッスル」とは元々「動物がじゃれ合う」という意味。だからレスリングでは相手の着衣を掴むのは反則とされる(動物は衣服を着ていないから)。
ヘッドロック、フルネルソン、ベアハグ、コブラツイスト、ブレーンバスター……も、四つ足の動物相手の技から生まれた。
最近レスリングが五輪競技から外されそうになる騒ぎがあったが、この格闘技は、紀元前3千年にはメソポタミア地方で既に競技として成立していた。古代オリンピックより古い歴史を誇るだけに、レスラーたちはさぞかし大きな苛立ちを感じたに違いない。
クールベは、この格闘技の古く長い歴史を描き出した。
相手と組み合い、投げよう、ねじ伏せようとするレスラーと、それを懸命に堪えようとするレスラー。彼らは5千年の時空を越えて過去に戻る。周囲の観客の目も近代的な建築も、彼らのレッスルする世界とはまったく無縁。時代は変わっても人間の肉体は変わらないと写実主義の画家は言いたいのだろう。
しかも彼らレスラーたちは、互いに闘ってはいるのだが、ルールを遵守している。相手の頭抱えて捻ろうとする両腕は首を絞めることなく、相手の頭を押さえて堪えるレスラーの左手は髪を掴もうとしていない。それに右手も、拳を握らない。
競技化(ルール化・スポーツ化)された格闘技とは、「殺すな!」というメッセージを含む人間の文化的営みなのだ。
「どうしてボクサーになったのか?」という問いに対して、女流作家のジョイス・キャロル・オーツは、一人のボクサーの答えを紹介している。
「詩人にはなれない。物語を語るやり方を、知らないんだ」(『オン・ボクシング』中央公論社・刊より)
これはたぶん、カッコ良すぎる回答と言うべきだろう。しかしボクサーの誰もが、自らの身体を用いて物語を紡いでいることは事実である。
印象派と呼ぶには少々病的で現代的と言えるボナールは、60歳を過ぎて描いた自画像に「ボクサー」と名付けた。その理由を、私は知らない。が、わかるような気がする。
ボクサーは常に鏡を見る。それは自分のフォームが正しいか否かをチェックするためだが、鏡の中の自分を見て何も思わないボクサーはいない。
俺は誰だ? 何をしてる? 闘いたいか? なぜ闘う? 誰と、何と闘う? なぜ強くなりたい? 勝ちたいか? なぜ勝ちたい? 何に勝ちたい? なぜボクサーになった?……
ボクサーは相手と闘う前に、まず鏡の中の自分と相対し、自分に向かって問いかけ、鏡の中の自分を相手に格闘する。
老境に差し掛かったボナールも、拳を握り、痩せ衰え始めて肋骨の浮き出た鏡の中の自分と格闘した。
ボクサーとは、すべての「格闘する人間」の代名詞。ボナールもボクサーとして、格闘する人間の物語を語ったのだ。