オリンピックはPR競争の舞台(坂井保之)
スポーツ界、問題、難問、課題、テンコ盛リ。その中、とまれ2020五輪東京開催が決定。まずはメデタシ。
私事ながら、先の、と云っても古い話ですが1964年のオリンピックの時、私は組織委員会の海外広報の仕事に関わっていた。
当時、組織委員会は赤坂の、今やなき赤坂離宮という世にも美しい由緒ある殿堂を事務所としており、私は毎日そこへ詰め、海外向けの広報の文書、写真、イラストの制作、編集やら、英語仏語への翻訳依頼やら、結構目新しくかつスリリングな仕事を楽しんでいた。
ただし、身分は組織委の職員ではない、パブリック・リレーションズ・ジャパン(PRJ)というPRエージェントからの出向で、いってみれば気楽な身分。広報部門のボスは共同通信からきているたしか秋山さんという方だった。
お昼休みになると、職員たちと本館の裏手にある芝生でキャッチボールをしたり、草野球をやったりした。
時に年齢は30代前半。社の契約先はゼネラルフーズ、モービル石油、ジョンソンなどアメリカ系の外資が主体、日本の社会にどう溶け込むか、愛してもらえるか、そのためのプログラムの立案や実施が、わがPRJに課せられた業務だった。
当時、PRといえば宣伝と同意語で、広告屋さんの親戚ぐらいにしか思われてない時代。日本の名だたる大企業でも広告宣伝費にはたっぷり予算を当てていても、広報といえば、社のPR誌を作ってばらまくという程度の認識が相場だった。
「そうじゃない、PRとは文字通りパブリック、つまり社会の各層と、いかに良きリレーションを築くか、という経営手法なんですよ」
と私よりはるかに先輩の経営者の方々に、ご進講申し上げるのだが、日本企業はなかなか分かろうとしない。そのくせ少なからぬ金を使ってアクセクしている。そんな具合だった。
そんな時、64年東京オリンピックの招致に成功したのだから、その一部を手伝った私たちとしても鼻が高かった。
PRJはこれに味を占めて、8年後の冬のオリンピックの誘致合戦、開催時の外国プレスとの対応も担当した。
今から思うと、結構いい線をいっているエージェントだったが、やがて同業他社がわんさか出来てくると、先発のスリルもアドバンテージもうすくなり、社員が一人抜け二人抜け、私もひょんなことから、プロ野球の世界に身を転じることになり、其の後間もなくして、この“歴史的”なPRエージェントは消えて行った。
ただし、当時の仲間たちとは、今でもたまに会って一杯やる。その時間、私は無性に若返っている。
(写真提供:フォート・キシモト)