「日本の体罰に関する著作『体罰の言説』で、私は、何を、なぜ、どのように書いたのか」(アーロン・ミラー/星野恭子・訳)
私は最近、日本の教育現場やスポーツ界における「体罰」問題に関する様々な「言説」を、『体罰の言説“discourses of discipline An Anthropology of Corporal Punishment in Japan’s Schools and Sports”』という一冊の本にまとめ、出版しました。
体罰に関する「言説」には、体罰に関する議論、体罰はどうあるべきかといったレトリック、さらに体罰が意味すること……などなど、さまざまな内容が網羅されるものです。一般的に「言説」には、定義や歴史、背景や倫理、原因や理論といったいくつかのテーマにまとめられるもので、この本も、そうしたテーマに基づいて構成してあります。
日本の教育現場やスポーツ界においては、文化、体罰、教育学の間に、表に出せない深い関係があるとも言われてきました。私はこれまで、そういう縺(もつ)れた関係を解くために、体罰に関するあらゆる「言説」を詳しく調べてきました。私たちは長年、「暴力」と「体罰」の間の「文化的」とも言える関係が存在しているという「言説」に、慣らされてきました。日本ではとくに、そうでした。が、その「言説」に疑問を投げかけることが必要と思われました。
他国の人々との関わりがますます強まっている現代社会では、「文化」という言葉は因果関係を説明するときに、的確さには少し欠けるものの、おそらくかつてないほど便利な言葉として多用されています。日本には多様な人々が暮らしているにも関わらず、日本人は調和を求めることに馴らされた同質的な集団だと仮定されがちです。しかし、そんな事実に反する罠に陥らないためには、日本人が抱える数々な摩擦や緊張関係、逆境や懸案事項などを理解し、説明することが極めて重要になってきます(体罰に対する理解も、その一つです)。本書の中でも説明していますが、日本人の誰もが調和を好むと考えるのは全くの見当違いだからです。
このような理由から、私が本書の主旨として選んだのは、近代の日本における教育とスポーツの歴史上、「体罰」に関する賛否両論の「言説」を、まずどちらも有意義なものだと仮定し、考え、議論したうえで、体罰は意義があると見なしてきた日本の旧来の慣行について、改めて解釈しなおすことでした。
なぜ日本文化が体罰を生み出し、なぜ日本人が体罰を行うのか……それを説明しようと試みたのではありません。教育現場やスポーツ界、社会において、なぜ指導者たちが体罰を行うのか、そしてなぜ体罰を受けた人の多くが体罰に感謝するのか……。さらに、もっと(スポーツや体育以外の)一般的課題についても体罰が活用されてきたことを理解し、説明するためには、様々な体罰に関する「言説」が象徴的に意味しているところを解釈しなおすことが重要であり、「(日本の)文化」という言葉一つでかたづけてしまうような単純すぎる説明は、排除されなければなりません。
それに、説明的なアプローチよりも、このような解釈的なアプローチのほうが、教育現場やスポーツ界における社会的な変化を、根本から理解することにも役立ちます。一部の人間が自身の興味や目的を遂行するために体罰を使う。その使い方……象徴として体罰をどのように使っているのか……、そういう日本の現状を知ることにより、日本の社会やスポーツ界、教育現場における長年の変化についても、理解ができるようになるはずです。それは、なぜ体罰が存在するのか……ということを、結果論的に(日本の文化を引き合いに出したり、善悪で)説明しようと試みるよりも、はるかに正確で洞察的に説明できるはずです。
重要なのは、「体罰の存在を明らかにし、何がその原因なのか?」を考えることではありません。重要なのはむしろ、「人々(日本人)は、体罰をどのような象徴として用い続けてきたのか?」を、問うことのほうです。歴史的な視点や現場ベースの調査が必要なのは当然ですが、後者の質問を問うことで、日本が時間の経過とともにどのように変化し、今現在もどのように変化し続けているのかを私たちはよりよく理解することができるからです
私はこれまで、「どんな状況においても体罰は過った行為であり、法的に禁止すべきだ」という仮説を証明しようと試みてきました。が、本書を書くにあたっては、こうした結論的な仮説から論拠を組み立てるのではなく、たとえばすでに公開済みのデータや研究の被験者の発言などのように、実際の調査結果から得られた事実から考え始めようと心がけました。私は体罰という現象をできるだけ客観的に研究しようと思い、体罰が見られるあらゆる現場に目を向け、体罰を行う人にも行わない人にも同じように話しを聞き、また、体罰を受けたことのある人にも受けたことのない人にも同じように話しを聞きました。
歴史的にみて、人類学者はたいてい、少人数の被験者グループの様子を一定期間観察するフィールドワークから研究を始めます。が、多くの場合、予想外の問題が発生して、元々の課題が脇に追いやられてしまったりします。もちろん私の場合にも、そういうことがあてはまったことがあります。ある研究中に、被験者のコーチたちに、まったく体罰が見られなかったので、その後、私は体罰とは別の社会文化的な事象に興味を持つようになりました。のちに博士論文のテーマとなったスポーツコーチングの教育方法が、それです。
しかし、1年間の観察的フィールドワークでは、体罰を直接的に観察することがなかったのに、2002年から04年まで2年にわたる愛媛県での英語教師時代には、小・中学校やスポーツ現場で私は何度も体罰を目のあたりにしたのです。つまり、被験者を観察することは文化人類学者にとってデータを収集する有効な方法の一つではあるのですが、「体罰」のような慎重に扱うべき問題の研究では、観察的フィールドワークは、別のデータ収集法(資料調査や談話分析など)を補完するものに留めたほうがいいようにも思われます。なぜなら、研究者が体罰を予測しているようだと被験者に知れてしまった場合、研究者が体罰を直に観察できるチャンスを狭めてしまうリスクがあるからです。外国人に対して態度を変える人が多い日本では特にそのリスクが大きいと言えます。
私はアメリカ人であり、体罰のない自由な家庭で育ちました。その経験が、本書に影響しないよう精一杯努力しましたが、やはり、日本の体罰に対する私個人の意見は、アメリカ式のしつけ方に明らかに影響されていると思います。私が育ったカリフォルニア州では、私が6才だった1986年に教育現場での体罰という慣行を法律で禁止したので、私が体罰を経験することは一切なかったのです。たくさんのスポーツチームにも所属していましたが、そこでも経験しませんでした(高校時代、フットボールとバスケットボールの選手だった私は、日本では「猛練習」と言われるような長く辛い練習を耐えたこともあります。コーチのなかには「かなり厳格」と言われるような人もいたのですが…)。
だからといって、本書を子育て論の「最善策」だというつもりはありません。どのように教育すべきかを日本人に教えたり、それが外国人としての私の役目だと思ったり……、そんなことは端から考えてはいません。私が最終的に目指したのは、研究結果そのものが語ることであり、体罰に対する私個人の考え方が本書に与える影響をできるだけ小さくすることでした。
そうはいっても、なぜ私が独自の方法で体罰という日本の社会習慣を解釈しようとしたかを十分に理解するには、私自身の家庭的、教育的、社会的、文化的な背景から育まれた批判的な考え方も欠かすことはできません。そこで私は、アメリカにおける体罰の現状に関する詳細な調査研究についても、著書の最後に盛り込みました。生まれ故郷における体罰がどのようなものであるかと考えるだけでは十分ではなく、日本に向けたのと同じくらい厳しい視点で研究したつもりです。
要するに私が日本の体罰についての本を書いたのは、日本に約10年も住む私にとって、日本の人々が、公私にわたる大切な一部となっているからです。私は日本社会の未来について真剣に考えています。未来の日本では、大人たちが子どもたちをどのように教育するか……体罰は、どうなっているのか……その選択に、現在の体罰問題が大きく依存していることを知っているからです。
日本の教育を取り巻く課題は、多々存在します。が、体罰問題は、それらの多くの課題と同じように絶対に無視することのできない大きな課題であり、日本人は今、体罰に対して、どのような未来の道を選択するのか、象徴的な岐路に立たされていると言えます。もちろん、日本人が「どっちの進路」を選ぶのかは、私にはわかりません。しかし、私にもわかっていることが、ひとつだけあります。それは、その選択が、日本という国家の未来の運命を定める重要な役割を果たす……ということです。
・編集部・註
『体罰の言説“discourses of discipline An Anthropology of Corporal Punishment in Japan’s Schools and Sports”』の出版社は Institute Of East Asian Studies
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イメージ写真・提供:フォート・キシモト