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高校、プロ、WBC……。朝日、読売が手放さない限り野球界に発展はない(玉木 正之)

高校野球からWBCまで日本野球のナンセンス〜球児の涙は不合理の象徴?

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この原稿は、『新潮45』9月号に書いたものです。日本のスポーツとメディアの癒着——すなわちスポーツ・ジャーナリズムの不在——は、発表する機会が限られていますので(苦笑)、最近のWBC騒動も含めて大きく手を加えてNews-Logでもアップします。

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日本の夏は暑い。まるで熱帯だ。雲ひとつない青空に、灼熱の太陽が輝く。地上の気温は鰻登りに上昇する。そんな最もスポーツに相応しくない季節に、汗と泥にまみれて高校生が野球をする。

それだけでも異常事態。夏休みの高校生に思い切り野球をやらせたいなら、涼しくスポーツに相応しい北海道でやらせるべきだ。

が、高校野球は、わざわざ日本のなかでも最も蒸し暑い地域の関西地方で開催される。

しかも投手は連戦連投。百球以上投げるのは当たり前。時には二百球を超えての連投もある。

アメリカのメジャーリーグでは、投手は一試合百球がメド。日本のプロ野球はアメリカよりも投手を酷使する。とはいえ、先発投手の連投はありえない。そんなことをすれば、肩や肘を壊す。だから大人では禁じられている。

ところが、高校生なら許される。こんな理不尽が罷り通るのは、炎天下の狂気のせいとしか思えない。

夏の甲子園で行われる高校野球は、断じてスポーツとは呼べない。青少年に対する一種の虐待行為であり、異常な舞台での異常な行為と言うほかない。

その結果、試合を終えた「球児」と呼ばれる高校生もまた、異常な行動に走る。それは試合に敗れた高校生が、涙を流すこと。泣きじゃくることだ。

あれは異様な光景だ。試合に負けて、なぜ泣くのか?

勝って嬉し泣き、というのなら理解できる。一生懸命努力して掴んだ勝利に、解放感から思わず涙がこぼれる。それなら、わかる。が、負けて泣くのは、ただウジウジとめめしいだけだ。

高校野球だけでなくロンドン五輪でも、敗れて泣いた柔道の選手は、かなり見苦しかった、と思ったのは、私だけではないだろう。

負けて悔しいから泣くのか? 不甲斐ない自分に腹立たしいから泣くのか? そういう涙が流れる場合もあるだろう。が、それを人前で曝すのは恥ずかしい。

悔し涙は隠れて流すのが礼儀。悔しく思う自分、腹立たしく思う自分を、人前に曝すのは、恥ずかしいことである。隠れて泣くのが常識だ。

にもかかわらず人前で、あるいはテレビカメラの前で、隠すことなく堂々と泣いて見せるのは、悔しさとも腹立たしさとも関係のない、見苦しい言い訳に過ぎない。

本当は勝てたんですけどね……本当はもっと強いんですけどね……とでも言いたいのか?

自分のミス、痛恨のエラーによって敗戦……というケースでも、泣くことはあるまい。チームメイトに申し訳ないと思うなら、泣かずに毅然と謝るべきだ。泣くのは、無言のうちに許しを請う行為にほかならない。

ところが「高校球児」は、よく泣く。甲子園だけでなく、地方予選でも、負けたチームは、ほとんどの選手が泣く。

さほど強くないチームの選手でも泣く。絶対に勝てないと思える相手に負けたときでも泣く。試合に負けると、誰も彼もが(といえるほど)泣く。

高校野球では、試合に負けると泣くのが慣例、と思えるほど多くの選手が泣く。みんなが泣くから、我もなく、というわけか。

最近五年間ほどは、高校野球に足を運んでいないが、事情はさほど変わっていないだろう。その光景は、ちょっとした集団ヒステリーである。

ところが、この「泣く」という行為を称賛し、奨励した人物が過去にいた。飛田穂洲(明治一九年〜昭和四〇)という人物である。

早稲田大学の選手、監督として活躍し、朝日新聞記者としてアマチュア野球の評論を書き続けた彼は、《練習の目的は保健長生体位向上にあらず、魂の精錬のある。強い魂は難行苦行のうちよりのみ生ずる》といった文章を残した「精神主義」の権化のような人物で、《試合に負けても泣かないような選手は、精神的に十全と言い難い》という文章も残した。

この人物が書く評論の影響を受け、高校野球が「教育的」で「精神主義的」で、試合に負ければ泣くのが常識、泣かなければ真剣にやらなかった、と批判されかねないムードに覆われるなかで、夏の甲子園大会(高校野球)という一種の「狂気」は「発展」してきた。

そして飛田穂洲という名前がほとんど忘れ去られ、「魂の精錬」のための「難行苦行」といえるほどの「猛練習」が消えてしまった今日でも、試合に負けた選手は泣く。その行為だけは、「伝統」のように受け継がれ、残されてしまった。

いや、テレビ・カメラがベンチ裏までも入り込むようになった今日、負けて泣くことが「高校球児」のパフォーマンスとして定着したように思える。

本来は人前では見せないようにするのが礼儀であり矜恃である涙を、「高校球児」は恥ずかしげもなく堂々と曝す。それだけでなく、マスメディアも、それを見る大勢の人々も、それが「高校球児」の純粋な美しい行為であるかのように錯覚し、拍手を送り、テレビ画面でアップに映し出し、そのため「高校球児」はますます「涙のパフォーマンス」に走る、という悪循環に陥っているようだ。

炎天下に身体を酷使し、サバイバル・ゲームに生き残った選手はプロ野球に進む。そのなかでも優れた成績をあげる選手は、アメリカのメジャーリーグに進む。そんな構図のなかで、小生の知っている限り、プロやメジャーに進むような実力のある選手は、甲子園(高校野球)では泣かなかったように思う。

それは当然だろう。負けて泣くようなヤワな精神では、プロの荒波は泳げない。ましてメジャーでは生きられない。周囲がみんな「涙のパフォーマンス」に走っても、俺はそんな馬鹿なことはしないぞ、と思う強い精神の持ち主こそがプロに進み、メジャーに進み、成功への切符を手に入れる。

精神的に弱い「球児」が涙を流し、そこに「純粋な高校野球」という共同幻想が生まれ、夏の炎天下という異常な環境での異常な行為が美しく正当化される。そんな高校野球に多くの人が注目する。

本来、勉学を第一義に考えるべき高等学校で、第一学期の期末試験と重なる学校もあるというのにそれを無視して予選を行い、越境入学、選手スカウト、優秀選手の特別待遇……等々の問題が常に囁かれるなかで、今年もまた夏の甲子園大会が、多くの「涙」とともに、メディアによってドラマ化される。

いや、それどころか、この「異常なイベント」を主催しているのは、言わずと知れたマスメディアなのである。プロ野球を牛耳っているのもマスメディアなら、高校野球を支配しているのもマスメディア。

そこにジャーナリズムは存在せず、高校生の単なる部活動に過ぎない高校野球は、その本来の姿に戻るべきだと主張するジャーナリズムもなければ、プロ野球球団(クラブ)の下部組織としてサッカーのジュニア・チームのようにするべきだ、と主張するジャーナリズムも存在しない。

高校生が高校野球で流す涙の不自然さは、何もかもが「異常」な日本の野球界の象徴と言えるかもしれない。

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以上の流れのなかで書き加えられなかったことを少々記す。

日本の女子野球やソフトボールは世界一の実力を誇るが、女子プロ野球とプロ野球が合体すべしとか、協力関係を結ぶべきといった意見も出なければ、高野連(日本高校野球連盟)も女子高校野球の発展に力を入れるべき……という声も出ない。

おまけに『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーを読んだら』(もしドラ)などという本がベストセラーにもなり、高校野球は、<男子=選手、女子=マネージャー>という非常に差別的な構図まで無意識のうちに喧伝している。

しかも、ドラッカーの指摘する「マネージャー」とは「管理職」のことであり、野球チームでは、フィールドマネージャー(監督)やビジネスマネージャー(営業部長)、あるいはゼネラルマネージャー(プロ野球では球団代表、高校野球では野球部長)を指している。けっして高校野球の女子マネージャー(や芸能人のマネージャー=付き人)のような「庶務担当の世話役」を指す言葉ではないのだ。

あるスポーツ雑誌が、この本(もしドラ)を高校野球の女子マネージャーに読ませて座談会を開いたところ、「監督さんか、部長さんが読むべきですね」という非常にまっとうな意見が出たという。

また、ある地方で行われたスポーツに関するシンポジウムで、小生が司会をつとめたとき、朝日新聞のスポーツ担当記者で「名文記者」と名を馳せている人物がパネラーとして参加したのだが、シンポの始まる前に挨拶した小生に向かって冗談とも本気ともつかない愛想笑いを浮かべ、「高校野球の話題だけはふらないでくださいね」と言った。

まったくジャーナリストとして情けない話だが(会社=メディアの立場は立場として、自分=ジャーナリストの意見は自由に述べるべきだろう)、これが「社員ジャーナリスト」の限界なのだろう。

以前、今は亡き筑紫哲也さんがキャスターをやっていた番組に出演したとき、本番直前にディレクターから「日本シリーズの放映権の問題がありますので、西武ライオンズの清原がバットを投げた一見だけは触れないでください」と言われ、アタマに血をのぼらせた小生は、その後『話の特集』誌で、約1年にわたって筑紫氏と「論争」したことがあった。

小生の主張は「スポーツ一つ自由に喋れなくて、政治や経済や社会問題を自由に喋れるのか!?」というものだった。それに対して筑紫氏の主張は、小生の記憶に強く残ってる印象としては、「スポーツのことで、そんなに騒ぐな」というものだった。

その後、筑紫氏とは、スポーツの諸問題をいろいろ話し合う「仲」になったが、「読売=プロ野球、箱根駅伝」「朝日=高校野球」に代表される日本のメディアによるスポーツ支配を解消へ向かわせるのは「至難の業だね」と言われた言葉が、今も耳に残っている。

以上、高校野球を初めとする日本のスポーツ界のナンセンスとして書き加えておいた。

さらに一言付け加えるなら、最近勃発したWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)をめぐってNPB(日本プロ野球)選手会が、不参加から一転して参加の意向を示したことも、朝日新聞が記事にしたとおり、NPBは「大リーグ側から読売が買った権利の一部を、無償で手に入れた」だけなのだ。

とはいえ、先に書いたように、高校野球で高校球児を「無料」で使って「興行」をしている朝日も胸は張れない。

朝日が高校野球を手放し、読売が巨人(プロ野球)を手放し、さらに毎日が社会人野球を手放し、日本の野球がマスコミの手を離れて独立する……そのときまで、日本の野球界(スポーツ)の独立と健全な発展は期待できないだろう。

【NLオリジナル】