松山英樹が「世界のマツヤマ」になった日 (文・小林一人/写真・宮本卓)
松山英樹がミュアフィールドでの全英オープン最終ラウンドに臨むその日、私は朝から4番ホールのギャラリースタンドにいた。2013年7月21日。おそらく日本からの記者のほとんどが、歴史的なラウンドに臨む松山の様子をリポートするために、クラブハウス周りやドライビングレンジに張り付いていたのだと思うが、私は敢えて、フロントナインのキーホールとなるであろうパー3ホールで、世界のトップ選手たちのプレーを観察していたのだった。
4番はグリーンの左が崖のようにストンと落ちていて、そこに落とすとパーセーブが難しくなる。一方、逆サイドはフェスキューの生い茂るラフが待ち受けていて、右に逃げることはできない。ストレートボールでグリーンをとらえるしか、パーをセーブする道はないのだ。とはいえ、右からの風が吹いている状況でコントロールされた200ヤードを打つことは簡単ではない。つまり、選手のその日の調子が如実に現れるホールだといえる。
だからこそ私は、世界レベルの選手のショットのクオリティを確認するためにそこにいたのだが、縦長のグリーンをとらえることに成功する選手は半分に満たなかった。グレーム・マクドウェルは左に落とし、背丈の2倍以上は裕にあるスロープをパターで駆け上がらせて2メートルに寄せた。絶妙なアプローチだったが、惜しくもパーパットは入らずボギー。セルジオ・ガルシアもこの奈落に落とし、パーセーブできなかった。右に左にと外す選手が続出するなか、片山晋呉はグリーン左のポットバンカーに入れてしまう。ピンが奥なので最悪の状況だったが、片山は見事なバンカーショットでピンそばにつけパーパットを沈めて見せた。ギャラリーから大喚声が起こる。私が見た中では、これが最大の盛り上がりだった。
そうこうしているうちに松山のスタート時刻が迫ってきた。私はギャラリースタンドを降りて1番ホールに向かう。「4番をパーで切り抜けられたら、優勝争いに残れるかもれないな」と思いながら…。
1番のグリーンに辿り着くと、松山がセカンドを放つところだった。ミュアフィールドの1番は難しいとされるホールだが、この週はフォローの風が吹いていたので、むしろやさしいホールになっていた。松山のボールはピン手前に落ちて止まった。距離にすると8メートルほどだろうか。これを入れたら面白いな、と思いながらこちらに歩いてくる松山を見ていると、視界の前を日本人の記者たちが大名行列のように通り過ぎる。メディアはロープの内側を歩くことを許されているのだが、直前に全英行きを決めた私はプレス申請が間に合わず、入場券をインターネットで買って観戦していた。だったら逆に、ロープの外を自由に歩き回って、試合全体の流れを把握しつつ、松山の奮闘ぶりを俯瞰しようと決めていたのだった。
松山はそのバーディパットを沈めることはできずパースタート。危なげのない出だしだった。続く2番も同じようにセカンドを手前につけ、タップインパー。内面ではどうだったかわからないが、落ち着いているように見えた。かつて日本人選手が全英オープンの最終日に、優勝に手が届く位置でスタートしていったことは何度かあるが、おそらく、最も安定した精神状態で出て行ったのではないかと思わせるほど、松山のプレーぶりは堂々たるものだった。一緒に回るのはウェールズのジェイミー・ドナルドソンだったが、ヨーロッパツアーで2勝を挙げているベテランのほうが、全英オープン初陣の大学生プロよりも、どこか浮わついているように見えたのである。
実際その安定感は日本のメディアにも伝わっていて、もしかすると勝ってしまうのではないか、そんな雰囲気があったのは事実だ。そこにいたカメラマンも記者も、松山が歴史的快挙を成し遂げる瞬間を少なからずイメージしていたのだ。私自身もこの日の朝、「もし本当に勝ったら忙しくなるよね」などと顔見知りのカメラマンと立ち話をしていたのだが、そう思うのは3日目の1ペナルティがあったからだった。前日に松山は、スロープレーで1罰打を課せられていたのだ。17番でティショットを曲げてギャラリーに当て、謝罪して手袋にサインをしてプレゼントをした行為が遅延プレーとされ、第2打を打った直後に1罰打を宣告された。本人もわれわれメディアも納得できる裁定ではなかったが、私はこの悔しさがモチベーションとなって、最終日はいい戦いができるのではないかと予想していた。
ピンチは3番ホールでやって来た。ティショットを右のブッシュに打ち込んだのだ。幸いライはそれほど悪くなかったのだが、風はアゲンスト気味のフック風。グリーンもブッシュでガードされているので、次を曲げたら大トラブルになる。松山はけっこうな時間をかけてキャディと相談していたが、話がまとまるとミドルアイアンでさっと打ち、グリーン手前に運んだ。ぶ厚いインパクトのハーフショットだった。
そこからのアプローチを寄せてパーセーブしたとき、私は最後まで優勝争いすることを確信した。ゴルフでは3つ連続してパーをとることができれば、実力がある証拠といわれるが、世界最高峰の舞台の最終日、優勝争いをしている状況で、しかもスタートから3つのホールでパーを重ねることのできる松山の実力は本物だと思った。長いこと低迷を続けてきた日本の男子ゴルフに突如として指し込んだ一筋の光。突然変異的に現れた大型プレーヤーが、日本男子のメジャー制覇という「夢」を見させてくれるのではないかと、本気で思ったのだった。
注目の4番ホール、松山はグリーンのど真ん中にティショットを放ち、危なげないパーを奪った。「やはり彼は本物だ!」私は興奮した。それからそれを確かめるために、5番ホールのティグラウンドに向かわず、フェアウェイでプレーをしている前の組のダスティン・ジョンソンとジェイソン・デイを見に行った。ちょうどデイが第2打を打つところで、オーストラリアのイケメンは丁寧にフェアウェイにボールを運んだ。続くジョンソンは2オンを狙いにいったが、3ウッドで打ったそのショットは少々雑に見えた。ボールはグリーン右手前のブッシュへ。
二人は紛れもないトッププレーヤーだが、この日に限っては、松山のほうがオーラが出ていたと思う。スイングの重厚感も、繰り出す球筋も、何ら遜色はなかった。私はそれを確認すると再び松山のプレーを追った。松山は第2打を残り100ヤードに運ぶと、そこから50センチにつけてバーディを奪った。
6番、7番と安定したプレーでパーセーブした後、アイアンで打った8番のティショットがフェアウェイのポットバンカーにつかまった。打った瞬間「しまった!」という顔をした松山。しばらくボールの行方を追っていたが、まもなく目線を切ってキャディに「バンカー?」と訊ねた。キャディが頷き、ドナルドソンが打ち終わると、すたすたと歩き始める松山。すでに気持ちが切り替わっているようで、バンカーに到達すると、1ミリの躊躇もなくウェッジで左に出した。それから集中した様子で3打目を打ち、パーパットが打てる場所まで持っていく。入らなかったが、納得ずくのボギーだった。
その頃になると私は、目の前で躍動する青年に誇らしささえ感じるようになっていた。そして、松山は絶対に「馬鹿」のフリをしているとも思った。彼を知るメディアの人間は一様に「ボーっとしている」とか「何も考えていない」などと評するが、そう思わせておく方が楽だから冒頓なキャラクターを演じているのだと確信した。さもなければ、真の実力者だけが勝利できる歴史あるリンクスでこのようなプレーができるわけがない。
私の感情の昂りとリンクするように、現地のギャラリーも松山を認め始めていた。コースのあちこちにあるボードには「MATSUYAMA TODAY EVEN」という文字が躍り、全英初出場の学生ゴルファーが健闘していることを伝えていた。フロントナインを終えた時点で松山のトータルスコアは3オーバー。そのころ、首位を行くリー・ウエストウッドとアダム・スコットは1アンダーでプレーしていた。風が強くなってきたので上位陣のスコアが伸びるとは予想しにくく、ここから伸ばせば松山にもまだチャンスは残されていたのだ。人々は青いシャツを着た選手が日本から来た「ヒデキ・マツヤマ」であることを囁き合っていた。そしてティグラウンドの周りには、優勝するかもしれないアジア人を一目見ようというギャラリーが集まり始めていた。
普通ならば、ここからズルズルと後退していくところだが、松山は違った。ティショットをロングアイアンもしくはハイブリッドで打ってフェアウェイをキープし、確実にグリーンをキャッチしてパーをセーブしていく。ハーフターンして3つパーを連ねた後、13番のパー3ではピン手前6メートルにつけバーディ。トータル2オーバーとなり、首位と3打差まで辿り着いた。「MATSUYAMA TODAY -1」の文字がコース中を駆け巡る。
後に本人は「最後まで本気で優勝を狙っていた」と語ったが、観ているこちらも可能性は残っていると感じていた。思わず「上手い!」と唸ったのは15番だ。先回りしてグリーン周りのギャラリースタンドにいたのだが、グリーンの左サイドには細かなマウンドがあり、左に落ちたボールを容赦なくバンカーに流し込むような傾斜がついていた。当然それを知っていたのだろう、松山はフェアウェイの左サイドから右を狙って打った。絶対にひっかけないぞ、という強い意志を感じるフォロースルーだった。それでも松山はフィニッシュの体勢のまま心配そうにボールの行方を追っていたが、ボールがグリーンの右サイドに止まると、安心したようにグリーンに歩き出す。
そこからのロングパットがまた見事だった。15番のグリーンは左から3分の1の場所に縦に尾根があり、松山のボールからだとカップは尾根を越えてすぐのところにある。TVではわからないような微妙な傾斜だが、距離を合わせるのが非常に難しいパットだった。しかし松山のボールは尾根を越えると減速してカップの周りに止まったのだ。第2打でピンを狙わないマネジメントと、絶妙なファーストパットの距離感、プロになりたてのルーキーがここまで冷静に、そして正確にプレーできるものなのか。やはり彼には「怪物」の名がふさわしいのかもしれない。
しかしおそらく、本人にこの興奮を伝えてもキョトンとした顔をするだけだろう。5月に外国人記者クラブで行われた会見で、彼は「オーガスタは難しいと思いません」と言い切ったからだ。この発言をビッグマウスと見る向きもあるが、ティショットさえグリーンを狙える場所に置ければ、そこから少なくともパー以下のスコアをほぼマークできるのが彼のポテンシャルだ。そういう意味ではラフがなく、ティショットの許容範囲が比較的広いオーガスタは難しく見えないのだろうし、ティショットをアイアンで打っていけるミュアフィールドも同じなのだと思う。
「17番、18番のチャンスを入れていればプレーオフもあると思っていた」と本人が語ったように、イーブンに戻せばチャンスはあったはずだ。17番のパー5は左手前の完璧なポジションにレイアップし、計算通りに寄せたが惜しくもバーディパットは決まらなかった。そのパットが外れた瞬間、松山はその日初めて感情を外に出した。18番が取れたとしても1オーバーでは届かない、彼は本能的にそれがわかったはずだ。悔しい表情を見せた後に、すっと肩から力が抜けるのを感じた。
風が強くなっていた。18番ホールのティグラウンドで松山は、空を見上げながらキャディと話し合っていた。それを見守るのは私を入れて数人。18番ティは17番グリーンからかなり距離があるため、そこまで追いかけるギャラリーは少なかった。松山はアイアンを抜いてアドレスしかけたが、もう1度空を見て、ハイブリッドに持ち替えた。
低い体勢でアドレスする。この日はずっと、風に負けないよう重心を低くして構えていた。風は左からのアゲンスト。松山はそれまでと同じリズムでスイングする。打ち出されたボールはきれいな放物線を描いで飛んでいき、フェアウェイをとらえた。
わずかに笑みを浮かべながら歩き出す松山。私はしばらくその姿を眺めていた。これでパー以下のスコアは確定だ。それは同時にトップテンに入ったことを意味する。状況によってはプレーオフに残る可能性もゼロではない。ついに最後までメジャーの優勝争いに踏みとどまったのだ。これは日本のゴルフ界にとって快挙だし、いまごろ日本では大騒ぎになっているだろうと思った。
その間にも松山はどんどん離れていく。大きな背中の遥か向こうには巨大なギャラリースタンドが見える。ぎっしりと詰まったギャラリーが待ち受ける最後の舞台へ松山は歩いていった。
最終ホールのスコアはパーだったがその日、彼は「世界のマツヤマ」になった。