日米野球外交:そしてアジアは?(International Sports Research at Seoulでのスピーチ:R・ホワイティング/翻訳:星野恭子)
野球は日本の国民的スポーツであります。歴史的に見ても、日本人は柔道よりも長く野球を楽しんできています。それは、野球を発明したアメリカ人とほぼ同じくらいの年月にもなります。
実際、19世紀半ばにアメリカ人の教師によって日本に伝えられた野球は、その発祥の地であるアメリカよりも日本でのほうが人気があるといえます。アメリカではアメリカンフットボールの人気が最も高いですから。
日本とアメリカでは野球へのアプローチの仕方が全く異なります。両国の野球をじっくり観察することは、両国の文化におけるそれぞれの価値体系を理解することに、大きく役立つことでしょう。
アメリカ野球は個人主義と選手個々の自主性を重んじる文化を、一方、日本野球は集団の「WA 和」と最大限の「DORYOKU努力」を重んじるという文化をそれぞれ反映しています。
この違いが生まれたのは1896年にさかのぼります。横浜在住のアメリカ人チームとの対戦で、「一高(イチコー)」で名前を知られる旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)が思いがけない勝利をとげたときのことでした。
この試合は、日米間で行われた史上初の公式試合とも言えるものでした。この勝利は国民を活気づけ、野球が日本における国民的スポーツになることに大きく貢献しました。
一高の選手の大半は武家の出身で、武士道の精神を野球にも応用していました。たとえば、不断の努力や精神修養といったことを肝に銘じ、練習は始業前でも放課後でも、また、雨や雪、青天に関わらず、一年中、行われました。選手は寮生活を送り、夏季、または冬季休暇には合宿をして練習しました。その練習量はアメリカの大学やプロチームの何倍もの量にもなりました。
野球は男らしさと闘争心を試すものでした。練習中に「痛い」と口にするのはご法度で、それは、弱さの象徴とみなされました。
打球が鼻に当たれば、それは本当に痛いので、「痛い」と言ってしまうのは仕方ないのですが、チームの青井銊男主将はそのことに苛立ちました。なぜなら彼は寮で毎晩、1000回の素振りを行うことで有名な選手だったからです(アメリカでは考えられないことですが…)。それは、17世紀の著名な剣豪で『五輪書』を著した宮本武蔵を彷彿とさせました。チームのモットーは「血尿」で、その意味するところは「血尿が出ないような練習なら、それはまだ十分な練習とは言えない」ということでした。
当時、日本野球に対するアメリカ側の評価はとても低く、横浜倶楽部は最初、一高との対戦を断ったほどでした。が、外交的な圧力もあってようやく試合に応じ、結果的に4-29で大敗を喫したのでした。その後、2度再戦したものの、9-35、13-26といずれもアメリカ側が負けてしまいました。
その試合結果は日本国内に大きく報じられました。ちょうど日本が、黒船で来航したアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督によって締結させられた不平等条約の見直しを目指し、西欧諸国に追いつこうとしていた時代のことで、だから日本人は、「もし、アメリカ発祥のスポーツで彼らに勝つことができれば、きっと産業などにおいても勝つことができる」という思いも抱いていました。これは、今日の日本野球にも見られる規範を示したものと言えます。
こうして1896年の試合以来、一高流の野球が日本野球のあり方を決定づけました。そして、その後、野球というスポーツは日米間において、重要な役割を演じ続けることになります。
たとえば、1934年にベーブ・ルースなどメジャーリーグのオールスター・チームの日本遠征は大成功でした。それは一時的にせよ、当時の日米間の軍事的緊張の高まりを緩和することに貢献しました。
銀座通りでの選手パレードは大観衆を集めました。また、試合の人気も高く、のちに国民的人気を誇るようになる東京ジャイアンツを中心に、日本におけるプロ野球リーグ発足の一因ともなったのです。
南太平洋での戦争の間は、「ルースのバカヤロー!」「ベーブ・ルースを地獄へ落とせ!」といった言葉は、ジャングルの中で戦う日本帝国陸軍の兵士たちの間で常套句となりました。しかし、終戦後の1949年、米国占領軍当局が働きかけたマイナーリーグのサンフランシスコ・シールズの来日は、新たな大成功を収めました。日本が敗戦から立ち直り、アメリカとの友好関係を新たに築く大きなきっかけとなったのです。
以後、メジャーリーグのチームは2年に一度、親善試合のため定期的に来日するようになりました。当初は、日本のプロ球団が惨敗していましたが、日本が敗戦から復興し、国民の食生活も改善するにつれて、アスリートの体も大きく強くなり、戦績も向上するようになります。
868本の公式戦通算本塁打という世界記録を打ち立てた王貞治のような偉大な選手たちも出現するようになりました。王の世界記録は、毎晩行っていたという天井からつりさげた薄い紙を長い日本刀で切る練習によって鍛えられた手首の強さの賜でした。
メジャーリーグのスカウトもアメリカからやってくるようになりましたが、王のアメリカへの移籍は実現しませんでした。その時代、日本の他の有力選手同様、王はリーグの保留条項や島国根性的な保護主義感情に縛られていました。そして彼は、彼が今いる場所に留まるという忠誠を求められました。アメリカへ野球をやりに行くという考えは、月に行くことと同じくらい、思いもよらぬことだったのだったのです。
王は、当時を振り返ってこう言いました。「僕はアメリカで自分を試したいと思っていた。でも、行けなかった。たとえ、規則的に許されたとしても、もし僕が行ったら、ファンが許さなかったでしょう。彼らの願いは僕がメジャーリーグに加入することではなく、真のワールドシリーズでアメリカ人を負かすこと。それが目標だったのです」
しかしその後、野茂英雄という名の若者が現れ、旧い体制を打ち破りました。1990年に近鉄バッファローズに入団した野茂は、当時、日本球界一のピッチャーでした。
無骨で、漁師を父にもつ野茂は、身長188cm、体重90㎏を超す。これは、メジャーリーガーの体格の平均値よりも、わずかですが上回るものでした。
彼は、多くのアメリカ人投手に匹敵する時速95マイル以上の球速をもつだけでなく、打者の目の前で12インチも落ちる、誰も打つことのできない「フォークボール」を武器にしていました。
アメリカでプレイすることは野茂の長年の目標でした。日本代表としてソウル・オリンピックでも、メジャーリーグ選抜チームとの親善試合でも好投し、衛星放送開始のおかげで、アメリカでの試合が頻繁に中継されるようになったこともあり、日米の球界間には大きな違いがあることを、野茂は先人たちよりも強く意識していました。
たとえば、日本の球団は所属企業の広告媒体としては支援が乏しく、選手は狭い球場でプレイし、電車で移動し、安いビジネスホテルに宿泊し、荷物は各自で運ばなければならないという状態でした。
アメリカでは、野球は利益に基づくビジネスであり、選手は豪華な新設のスタジアムでプレイし、チャーター機で移動し、5つ星ホテルに宿泊し、荷物はスタッフが運びます。過去に何度もストライキを成功させた実績ある組合の傘下にあるおかげで、メジャーリーガーの平均給与は、日本の数倍の額にもなっていました。日本のライバルたちとは違い、彼らは年間を通して練習させられることはなく、各自が自由に練習計画を立てます。彼らの辞書には、「血尿」などという練習のモットーは、もちろん過去にも現在にも存在しません。
野茂は労働者の家庭で育った影響かもしれませんが、同僚たちに比べるとより強い独立心を持っていたように思えます。しかし野茂は、要求が多く厳しい監督のもとで、その思いをずっと抑えていました。この監督は「死ぬまで投げろ」をモットーとし、野茂がしばしば訴えた腕の痛みの治療には、アメリカ人のコーチがアドバイスする「休養」ではなく、さらに「もっと一生懸命投げろ」というような人物だったのです。
また、選手が代理人を立てることは当時、封建的な球団オーナーによって禁止されていた。が、野茂はロサンゼルスを拠点とする団野村という代理人と提携しました。野村は日本プロ球界を任意引退した選手は海外移籍が自由にできるという、当時はまだほとんど知られていなかった日本の野球協約の抜け穴を見つけていました。
こうして1994年シーズンの終わり、26歳だった野茂は突然、日本の球界引退とメジャーリーグへの挑戦の意向を表明したのでした。
当初、野茂の背信行為は球界を激怒させました。マスコミからは恩知らずの売国奴というレッテルを貼られ、彼の実の父親でさえ、しばらくの間、野茂と話をしなかったほどでした。
しかしその後、野茂がロサンゼルス・ドジャースと契約し、勝ち星を上げ始め、スタジアムに大勢の観衆が集まり出すと、突然、周囲の人々の態度は変わりました。
彼らは野茂を「よくやった」と称え、アメリカに反して、野茂を評価しなかった日本人たちも急に、野茂の業績を自慢しはじめるようになったのです。
野茂の登板試合は日本中にライブ中継され、早朝の通勤客は屋外に設置された巨大なテレビ画面にくぎ付けになりました。
野茂が1995年のオールスターゲームの先発投手に指名されたとき、日本の首相は野茂を「日本の宝」と呼びました。あるテレビ局は11時間もの野茂特集を放送し、野茂はアメリカでも、常に注目を集める象徴的な人物(アイコン)の一人になりまし。それは、日本にとっても大きな出来事でした。
野茂が登板する試合のスタジアム観戦者数は急増し、野茂のキャップとユニフォームは飛ぶように売れました。『コーラス・ライン』の作曲家、マーヴィン・ハムリッシュは、野茂とノモマニア現象テーマにした歌を作りました。ほとんどのアメリカ人は日本の首相や有名歌手、著名人などは知りませんが、野茂のことを知らないアメリカ人はいなくなりました。
アメリカにおける野茂の人気はまた、日米の貿易摩擦の緩和にも貢献しました。当時、日米関係は第二次世界大戦以来、最悪の状態にありました。日本は国内だけでなく、世界各地を日本製のカメラや車、テレビなどで溢れさせるほどの貿易不均衡を作り出していました。また、日本企業はロックフェラーセンターやペブルビーチ、コロンビア・ピクチャーズといたアメリカを代表する不動産を買収していました。
アメリカの政府首脳は日本を重商主義国家という刻印を押し、「日本株式会社」と呼び、不平等貿易について不満を表していました。アメリカの議員団はワシントンDCの国会議事堂の前で日本車を叩き壊して抗議の意思を表し、関税障壁の不当性を訴えました。
日本人はアメリカのこうした反応に対し、アメリカ人は横柄な自慢屋で怠惰で貧しい敗者だと反論した。1990年には、日本の国会議員が、アメリカ人のことを「教養がなく、読み書きもできない人」と公言までしました。
保守的な政治家の筆頭である石原慎太郎は、「アメリカ人は役に立つものをつくれない」と言明。それに対して、あるアメリカ人議員は、「原爆は、かなり役に立った」と反論。こうした状況の中に、野茂が現れたのでした。ニューヨークタイムズは、「野茂は、アメリカで誰も批判しない唯一の日本の輸出品」と書きました。一方、朝日新聞は、野茂の活躍は、不均衡貿易だと口やかましく言い続けるアメリカ政府に対してうんざりしている日本人の「カタルシス」だと書きました。
野茂はひょっとしたら、政治家たちよりも日米関係を改善させたかもしれません。いや、おそらく改善したはずです。著名なライターの増島みどりは、こう言いました。「さまざまな点で世界に対して日本人が抱いているコンプレックスを和らげてくれた」
ソニーのウォークマンからトヨタの自動車、さらにアニメのキャラクターなど、日本は世界的に有名な製品をたくさんつくってきました。しかし、世界の多くの人々の間に名をはせた日本人は、野茂の登場までは存在しなかったのです。
アメリカ育ちで、人気サイト「Yakyubaka(野球バカ)」を運営する、ゲン・スエシマは次のように話しています。
「僕にはこれまで、お手本とする人物はいなかった。テレビのスイッチを入れても、ドラマや映画やスポーツで成功を手にした日本人はもちろん、アジア人さえ見ることがなかったし、アメリカのメディアでは、アジア人はたいてい分厚いメガネをかけ、どこにでもカメラを向ける愚かな旅行者として描かれがちだったからだ。公的に力のあるアジア人が誰一人いない中で、僕はいつも、アメリカではアジア人が成功する余地などないのだと劣等感を覚えていた。その思いは年齢を重ねるに従い、どんどん大きくなっていった。そして、僕は大学に入学したとき、できるだけ他のアジア人と関わらないように努力している自分に気づいた。彼らと一緒にいるところを見られることさえ、恥ずかしいと思っていたのだと思う。日米間の貿易摩擦も悪化していた。しかし、そんな時、野茂やノモマニアが現れて全てが変わった。野茂に対するファンの反応はすごかった。野球に興味のない友人さえ、野茂を知っていたし、それまで新聞のスポーツ面をほとんど開かない、あるいはテレビニュースのハイライトシーンも見なかったような友人でさえ、野茂を追いかけた」
野茂は結局、メジャーで12シーズンプレイし、数百万ドルのカネを手にし、多くの日本人選手が彼に続きました。今日まで、サッカー選手の多くが海外移籍するのと同じように、41人もの日本人野球選手が海を渡ってアメリカでプレイしました。
そして日本人選手の多くはスターになりました。中でも最高のスターはイチローでした。シアトル・マリナーズでプレイし、多くのバッティング新記録を樹立し、さらに日本からの旅行者によってシアトルに年間2千万ドルもの経済効果をもたらしました。イチローは、サングラスをかけ、あご鬚をたくわえ、にじみ出るオーラをまとっていました。彼は全国的な雑誌の表紙を飾り、『ESPN』誌の編集者であるルーク・サイファー氏は、「こんなにかっこいい日本人は見たことがない」と言いました。
2003年、イチローがメジャーリーグの年間最多安打記録を82年ぶりに更新したとき、朝日新聞は、現代のアメリカで日本人のイメージが新しく、そして改善したと伝えました。「アメリカ国内で日本人はかつて、自動車と家電製品の輸出に取りつかれただけの、何の特徴もない人々としてとらえられていた。だが、日本人選手たちの優秀な実績と、素晴らしい人柄が、アメリカ人が日本人に対してもつイメージを変えた」とその一流紙は社説に書いたのです。
ほぼ同時期に、ワシントン大学で英語を教えるアジア系アメリカ人のショーン・ウォン教授は、この変化についてシアトル・タイムズにコラムを書きました。アメリカ北西部で育った子ども時代に人種差別を受けた経験をもつウォン教授は、シアトルのセーフコ・フィールド球場で4万5千人の観衆がイチローの名を叫ぶ姿に感動しました。特に、アメリカ人の10歳の男児が、「大きくなったら、イチローのようになりたい」と書いたボードを抱えていた姿は格別だったと言います。教授は、シアトル市民は町の外に出ることなく、国際市民になったと言明したのです。
増嶋みどり氏もまた、こうした出来事に特別な意味を見出しました。「日本人は江戸時代でも、明治時代でも、そして現代でさえも、まだ国際社会の真の会員ではない。ゲスト、あるいは条件付きか見習いの会員かもしれない。が、けして正会員ではない。でも、(野茂やイチローといった)アスリートたちは日本社会に生まれた新たな思考方法や価値観を象徴する存在であり、この新たな価値観は将来、大きな影響力を発揮する、と私は信じている」
日本からのスポーツ移民のインパクトは大きものがありました。21世紀初頭までに、数百万人の日本人が平日朝、メジャーリーグの試合をテレビ観戦したり、週末はヨーロッパサッカーの衛星中継を見たり、あるいは直接スタジアムで観戦しようと何万人もの日本人が海外に出かけるようになりました。こうしたプロセスを経て、日本人は他国の文化について知識を得ていったのです。
同時に、あるいはそうでなくても、スポーツ以外の他の分野でも変化がみられたと言えるかもしれません。ヘッドハンティングや転職、訴訟といった西洋式の個人主義では定番の文化は、野茂の出現以前には全てタブーでした。が、今は(金色に脱色した髪の毛のように)文化の一部として受け入れられるようになりました。
これは単にグローバリゼーションへと向かう新たな潮流が生んだ当然の結果だと言われるかもしれません。が、これもまた、「野茂効果」(あるいは「イチロー効果」)と言える側面もあるはずです。野茂の例は、成功するためには大企業に入ったり、何もかもを集団で行う必要などないということを日本人に教えたのです。それらは、自立や根性に基づく、新たなモデルの真価を示したと言えるでしょう。才能を制限し、意欲をそぐような疑似封建制度や島国根性に抵抗することを彼らは恐れなかったのです。
野茂の成功と、メジャーリーグの日本国内でのテレビ中継がほぼ毎日行われるようになって以降、外国人に対する日本人の態度も変化し始めました。日本で実施された調査では、21世紀の日本人は先人たちに比べて、自分の子どもを外国人と結婚させたがっていて、職場でも外国人の採用に前向きであることを示しているようです。
日本のプロ野球チームのオーナーたちでさえ、時勢の国際感覚を身に付けるようになりました。2000年代初頭には全部で4人のアメリカ人を監督として採用するという前例のないことも行うほどになりました。そしてアメリカ人のボビー・バレンタインとトレイ・ヒルマンは二人とも、チームを日本一に導き、ヒーローになりました。
この話の教訓は、変化は徐々に、そして時々思い出したように起こるが、必ず、そしてしばしば思いがけない方法で起こるものだ、ということかもしれません。20年前、私が、『和をもって日本となす(“You Gotta Have Wa”)』を著した当時、日本中に流行していた「ニッポン株式会社」とか「ジャパン・バッシング」という言葉は、今はもう辞書から消えました。アメリカ人はますます、日本映画やビデオゲーム、アニメや漫画、ファッションやデザイン、そして「ハロー・キティ」の魅力を話すようにもなっています……。
このあたりで、話しをまとめることにしましょう。野球は日本とアメリカを近づける役目を果たしました。私は、そのことを強調したいと思います。さらに野球はまた、日米関係を眺めるための便利なプリズムであり、今でも互いに学び合えることがあることを我々に教えてくれているのです。
韓国と台湾からメジャーリーグに移籍した選手が、それぞれの国内社会に与えたインパクトも、日本人選手によるインパクトととても似ていると思います。
アメリカに対して抱くコンプレックスはおそらく、日本をはじめ、韓国や台湾を含むアジア全体に蔓延する共通の思いでしょう。私は、そう確信しています。日本は第二次世界大戦での敗北を味わったことで、より強いコンプレックスがあるかもしれませんが、一般的にアメリカは日本をアジア全土の中でも最も優れた国家であるとみなしています。だからアメリカにおける韓国人と台湾人選手の成功は、さらなるコンプレックスの軽減に貢献したと言って間違いないはずです。2006年のWBCで韓国がアメリカを7-3で破りました。それは韓国という国家の勝利であると見なされ、歴史上最も重要な勝利の一つとも言えました。
メジャーリーグで最も成功したアジア人選手は2人います。韓国の朴贊浩(パク・チャンホ)と、台湾の王 建民(ワン・チェンミン)です。朴は韓国人で初めてメジャーリーガーとなり、1994年にデビューし、アジア人投手の中で最高となる124勝をあげました。彼は韓国では国民的ヒーローとされています。朴が1994年にデビューした時には、アメリカでは韓国がどこにあるかを知る人はあまりいませんでした。が、朴のおかげで状況は変わりました。
今や、サムソンやLG、ヒュンダイやキアといった韓国の多国籍企業はアメリカ市場において優良企業として認知されています。彼らの企業ロゴは、ヤンキースタジアムの広告に年間100万ドルも支払っている読売新聞のような日本企業の広告と並んで、メジャーの球場の外野フェンスに出ています。
また、王は台湾出身選手としては最も優秀な投手と言えます。彼は2006年と07年シーズンにはヤンキースのエース投手となりました。両シーズンとも19勝をあげ、最多勝の一人に名を連ねもしました。活躍のピーク時には、彼は台湾の大統領以上に人気があり、台湾人の誰よりも強い影響力をもつと考えられていました。人々は彼を「台湾の誇りと栄光」と呼んだほどです。王はまた、台湾人として野球やスポーツだけに限らずあらゆる分野で世界的なスーパースターとなった初めての人物でした。
メジャーリーグの各チームはアジア各国との外交関係を強化するツールとして野球を活用してきました。ロサンゼルス・ドジャースは1980年から中国で野球クリニックをスタートさせ、2つの球場を建設し、2008年にはサンディエゴ・パドレスとドジャースのオープン戦を中国で行いました。
ドジャースはまた、韓国球界の発展に寄与してきた長い歴史を持っています。それは、ドジャースのトミー・ラソーダ監督が日本の元スター投手、星野仙一選手とともに韓国でクリニックと講演を主催した1981年にさかのぼります。1990年には、ドジャースは韓国のプロ野球リーグからチームオーナーたちをアメリカに招き、野球セミナーとワークショップを行いました。また、同じ年の9月にはメジャー球団では初めて試合を韓国語でテレビ中継しました。また、韓国の球団をフロリダ・ベロビーチにあるドジャータウンで行うスプリングキャンプにも何度か招いています。
2008年にはジェリー・ロイスターがアメリカ人として初めて韓国のプロ球団の監督となり、2010年にはドジャースは台湾に遠征しました。彼らの訪問は、野球賭博スキャンダルで7チームが球団解散に追い込まれた後の台湾において、野球人気の復活に貢献しました。ドジャースはまた、台湾政府と野球関係者の熱心な誘いに応じ、親善訪問に同意し、2011年にメジャーのオールスター・チームが台湾で1週間を過ごし、エキシビション試合を数試合行いました。
もちろん、全てのスポーツイベントが国同士の絆を強めるように働くわけではありません。たとえば2012年8月12日、ロンドンオリンピックで行われた日本対韓国のサッカーの試合では、韓国選手の一人が竹島問題に関する政治的メッセージを書いたボードを掲げたことで、政治的発言を禁止したIOCとFIFAのルールを犯したとして罰せられたりもしました。
とはいえ、私の経験からいって、スポーツは往々にして、よりよい外交関係を育むことに重要な役割を果たすものなのと言えるでしょう。
写真提供:フォート・キシモト