2020東京五輪招致決定か!? 直前特集②2002年W杯招致活動の場合はこうだった!!(広瀬一郎)
いよいよ2020年のオリンピックの開催地決定が大詰めを迎えている。
無論、東京に決まることを祈るが、五輪のような国際メガ・スポーツ・イベントを「招致する意味」について、一度キッチリと考えておくいい機会かもしれない。
今回の招致活動では、例えばスペインのマドリード市は、スペイン国の王子までが出てきて、招致のアピールをした。東京も麻生副大臣が参画していた。なぜ、スポーツの大会の開催は、国家が関与するのだろう?
「巨大化して、お金がかかるから」というのも確かに一つの回答ではある。が、それでは招致や開催の正統性(レジティマシー)の説明になっていない。筆者は2002年のWカップの招致活動に関与した。その時のことが、参考になると思い筆をとった。
筆者が「2002年のWカップ」の招致活動に公式に関わったのは、電通から招致委員会事務局に出向した1994年の11月からである。実は、90年のWカップイタリア大会で、電通/ISLスタッフとしてローマのFIFA本部と同じホテルに常駐していた際、開幕前のFIFA総会で「開催の意思」表明のパンフレットを各国の机の上に配ったのは、たまたま居合わせた私だった。
が、その時は招致活動に関わるなどとは思っていなかったし、そもそも日本にWカップなど来るはずがない、と思い込んでいた。「来るかも?」と考えを改めたのは、「日本にできるわけがない」サッカーのプロリーグができた、1993年の5月だった。
日本の招致活動はその後も続いていたが、筆者が出向する時点では、さしたる実をあげるには至っていなかった。というのは、大きな計算違いが2つ生じていた。
第1は、「ドーハの悲劇」である。ご存知のように、94年開催のアメリカ大会のアジア予選の最終ゲームで、このまま行けば史上初の本戦出場が決まる。しかし、ロスタイムにコーナーキックのヘディングでイラクに同点弾を喰らい、出場権を逃したあの試合である。
この失点で、開催権を争っていた相手の韓国に出場権が渡った。こっちにとっては「悲劇」だが、あちらにとっては将に「神の恩寵」である。試合終了後のテレビでは予定されていなかった大統領が画面に登場し、この勢いでWカップ開催権の争奪も日本に勝つぞ、と宣言した。
Jリーグ発足後、初のアジア予選である。国民が注目して負けた。ここで出場しておかないと、本戦に一度も出場していない国で開催して良いのか? という問題が浮上する。開催国は無条件で出場できるからだ。更に、韓国サッカー協会の鄭会長は、韓国の財閥である現代グループ総帥の跡取りである。ここで日本に勝つことで、政界への進出が実現性を帯びるという話もあった。
第2の失敗は、その鄭会長をFIFAの理事にさせてしまったことだった。94年の連休明けに、アジア枠の理事3名のうちの1人の改選が行われ、日本の村田専務理事が立候補し、鄭会長に負けた。事前に日本が勝てないことが分かっていたので、韓国に勝たせない、という次善の選択をすべきだった。
日本の票を西アジアに回せば西アジアから理事が誕生するはずだった。その情報を知らせたのは筆者である。情報源は明かせないが、かなり確実な情報であった。裏もとれていた。なのに、なぜ? という思いだった。日本の招致活動の失策が続いたために、7月に委員会の全面改組となった。新しい組織委員長は筆者の大学のサッカー部の大先輩、岡野俊一郎さんだった。
筆者は電通からサッカー協会内の招致事務局に出向し、企画部と広報部の副部長の兼任だった。企画部というのは「政治的な事項」を扱う。国内と国外の「ロビー活動」及び、国際サッカー連盟(FIFA)に対する「開催計画書」と「プレゼンテーション」の作成も企画部の仕事であった。
出向後、緊急の課題は、「政府の了解」を得ることだった。翌95年の3月までに正式な立候補をするためには、どうしても政府の了解が必要となる。正式な立候補をするためには、FIFAの提示する「開催要求基準書(List of Requirements)」を満たさなければならない。13個の要求項には、政府の了解を必要とするものが多くを占めている。例えば、「FIFA加盟国のどの国が本大会に出場を決めても、当該国の通貨と日本円との交換を保障せよ」に答えるためには財務省の承諾が必要になる。
実は、日本サッカー協会(JFA)が招致を決めた時点の政府は、日本新党の細川氏が首相となっており、自民党は下野していた。そこでJFAと電通は与党の実力者であった小沢一郎氏に「招致議員連盟」の組織を依頼し、「閣議決定」に向けたロビー活動を任せることにした。
ところが、その後社会党の村山富一委員長を首班とした「自社連立政権」という誰も予想しなかった政権が誕生し、日本新党は自民党に変って下野してしまった。「招致議連の改組」をし、時の政権に「大会招致の閣議決定」をしてもらわなければ立候補に間に合わない。焦った。
この時の小沢氏の態度は実に潔かった。おかげで、宮澤喜一元首相を会長とする超党派の「招致議連」に改組がスムーズに行き、ギリギリの3月初旬の「閣議了解」が得られ、正式な立候補ができたのだった。
中央政府との交渉も然る事ながら、国内で最もエネルギーを使ったのは、実は地方自治体関連の作業だった。
Wカップの招致は、まず24の自治体が手を挙げて始まった。最終的には16の自治体が招致活動のコアメンバーになった。招致活動費を捻出できた自治体の数が16だったのだ。税金を投入するわけだから、地方の議会を通さなければできない相談だ。「サッカーという一競技の世界大会を招致するのに税金を使う!?」などというとんでもない話を議会に通さなければならない。金額は2億5千万円!。しかも、この活動費は、招致に失敗しても返金不可である。
どうしたら議会を通すのか? 各自治体のスタッフと我々企画部との共同作業が始まった。「Wカップの開催がどのように地域振興に結びつくのか」という論理を考えださなければならなかった。そのためには、まず「21世紀の日本という国の形」と「地方自治体の姿」を提示しなければならない。
何のことはない、既に筆者は自治体の首長がすべき「地方の未来構想」を描かなければならなかったのである。ある意味で、県知事と同じ目線での思考の訓練をしていたとも言えよう(これらは後に「グリーンブック」という小冊子にまとめ配布された)。
運命の日は、1996年6月1日だった。この日に日韓双方がFIFAの理事会でプレゼンテーションを行い、直後に投票が行われ、多数決で開催地が決まる……はずだった。が、周知のように、プレゼンテーションもさせてもらえず、投票も行われずに、2002年のWカップは、「日韓の共同開催」に決まった。
それ自体にどうこう言うつもりは無いが、後出しジャンケンのようなコトには肚が立った。「共同開催」という選択肢は、ルールには無かったのだ。どういう判断だったのか、実は今もって判然としていない。とにかく、事実として我々が用意したプレゼンテーションは、させてもらえなかった。
今更ではあるが、我々が用意したプレゼンについて、少々触れておきたい。
なぜ、日本で開催するのか?「2002年は、日本が1952年にサンフランシスコ条約によって、国際社会に復帰してちょうど半世紀にあたる。この半世紀の間、世界規模の戦争は起きていない。国際的な平和のメリットを最も享受したのは我が国、日本である。国際社会に対して、その半世紀の恩返しをさせて頂きたい。その機会が、Wカップの初のアジア開催となる日本大会である」……
……それなりの説得力はある、と今でも思う。プレゼンテーションとは、「言いたいコトを言えばいい」のではない。目的は「説得」だ。相手が理解し、納得するロジックが必要だ(今となっては、「死んだ子の歳を数えても仕方がない」が)。
日韓共同開催に決した後、ミッションが終了した筆者は電通に帰った。2002年の大会運営に携わりたいとは全く思わなかった。「FIFAに裏切られた」という思いが強かった。2度とサッカー界とは関わりたくない、と思っていた。それほど、日本開催に賭けていたとも言えよう。
Wカップの開催を勝ち取ることで、実は、サッカーにとどまらない、スポーツにとどまらない、「国家の形を変える」という野望を持っていたことを告白しよう。大言壮語という誹りは覚悟の上だ。
「地方の自立と振興」「自立した地方が中央を経由せずに並列でネットワークを組む」「地方と直接国際社会とのネットワーク構築」「ICTの活用による行政の効率化」「環境問題に考慮したインフラ整備」などの21世紀的なテーマが、Wカップ開催によってできるはずだった。少なくともきっかけにはなるだろう。こういった確信があった。
お手本は1964年の「東京五輪」と、1994年の「アメリカWカップ」だった。
昭和39年の東京五輪の開催は、いろいろな意味でその後の日本という国の形に影響を与えた。例えば、「首都高速」「東海道新幹線」「東名高速道路」などが「東京五輪」の開催が契機となって整備されたのは有名な話。
それだけではない。「メイド・イン・ジャパン」というブランドは、「東京五輪」開催までは「安かろう、悪かろう」だったのだ。それがこの大会開催をきかっけに欧米での日本の評価が変った。それに伴って、工業製品も一流の仲間入りとなったのである。国家のブランディング戦略に、国際メガイベントの開催は大きく寄与したのである。
1994年のWカップ開催は、開催地米国にとって2つの大きな意味があった。
第一に、「グローバル化」の問題だ。アメリカはモンロー主義の伝統の国であり、旧大陸である「欧州」を否定して建国した新大陸の人工国家だ。自然にできた国ではなく、歴史が浅いために、常に「アメリカ的なもの」に拘(こだわ)っている国である。
スポーツは、アメリカでは「国家宗教」とでも呼べるものだ。多民族国家が一つの価値観を共有するのに、スポーツほど便利で有効なものはない。スポーツはまさに「アメリカ的」なモノの象徴としてあった。
従って、逆にアメリカン・スポーツしか受け付けないところがあった。野球は「National Pastime」と言われ、アメリカン・スポーツの代表として君臨してきたし、アメリカ国内選手権の名前は「ワールド・シリーズ」なのである。フットボールと言えば「アメリカン・フットボール」のことであった。その国で、旧大陸で最も人気のあるサッカーの世界選手権が開催されたのだ。
組織委員の一人であるスタインブレッヒャー氏は、「Wカップは窓だ。世界がその窓からアメリカを見、そしてアメリカもその窓から世界を見た」と言ったのにはそういう背景がある。コレは深読みすぎるかもしれないが、90年代のアメリカの「グローバリズム」と、Wカップの開催には何かの因果関係が見いだせるのではないだろうか? アメリカが旧大陸のサッカーを受け入れるのには、グローバリズムの1990年代まで待たなければならなかった、と考えるのは穿ち過ぎだろうか?
第二に、20世紀の交通インフラに変る「情報交通インフラ」の整備である。
当時のクリントン政権のゴア副大統領は、「情報ハイウェー構想」を唱えていた。「不都合な真実」という映画の公開以来、環境問題の先駆者としてスッカリおなじみになったゴア氏だ。実はゴア氏の父親は上院議員でアメリカのハイウェーの整備に携わった人物だ。息子が「情報ハイウェー」を唱えた背景には、そういう事情もあった。
「情報ハイウェー」とは、全米をインターネットで結び、情報の「分散並列処理」を進めるという国家戦略だった。80年代になって、工業製品の分野で日本に負け続け、「世界の工場」であることに見切りをつけたアメリカは、次に自分たちが優位になる有望な分野を模索していた。資本主義のリーダーとして、資本の投資効率の良い「新たなフロンティア」が求められていた。
89年にベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造も終焉した。それとともに、地球上の物理的な空間から経済のフロンティアが消滅してしまったのだ。新たなフロンティアは、物理的ではない未開拓地だった。第一に、「インターネット」というバーチャルな世界を開発して、開拓したのである。バーチャルな世界であれば、「未開拓地」は無限にある。いや、創れる。
第三は、金融である。
90年代になって、「金融工学」が異常とも言える発達を遂げる。それは、冷戦構造が終焉したことと無関係ではない。ソ連という仮想敵国が消滅したために、軍事予算が削減された。当然である。それに伴って、軍事的な研究開発費も削減された。これも当然である。
かつて原子爆弾の開発においては、フォン・ノイマンやオッペンハイマーに代表される数学者や理論物理学者が、核融合の計算のために多く起用された。計算のための機械を開発すべきだとして、フォン・ノイマンは「電子計算機」を考案する。これは原爆の開発には間に合わなかったが、その後作られたエニックスというコンピュータは、水素爆弾の開発では実際に大活躍をした。それがIBMという会社の誕生にも結びついている。
インターネットは、もともとテロ攻撃に対応するための情報のセキュリティーとして軍によって開発された「アーパ・ネット」がスタートである。このようにアメリカでは軍事的な研究から多くのテクノロジーが開発されている。
90年代になり、軍事研究予算が削られたために食えなくなった数学者が職を求めたのが、同じくマンハッタンにある「ウオール街」であった(原爆の開発が「マンハッタン計画」と呼ばれたのは、ニューヨークのマンハッタン島にあるコロンビア大学の構内で、数学的な研究が進められたからだ)。90年代にウオール街で発達した「デリバティブ」などの新しい金融商品は、「リスク」を数学的に計算した「金融工学」の発達なしには起こらなかった(これが21世紀になって「サブ・プライム・ローン」問題を引き起こし、「リーマン・ショック」につながっていったのである)。
ゴア副大統領(当時)の情報ハイウェー構想は、1994年のWカップと、1996年のアトランタ五輪の開催で大いに進んだのである。
国際的なメガ・スポーツ・イベントの招致と開催には、国の支援が不可欠だ。逆に、国はその支援を通じて、国家戦略を具体的に進める事が可能だ。いずれにせよ、スポーツの国際的なメガイベントの開催には国家戦略が不可欠だ。
そもそも、我々がスポーツと呼んでいるモノは、19世紀の後半に、イングランドの国家戦略である「植民地経営」を担う人材育成のために、時のパブリックスクールで完成された教育ソフトとして完成されたモノだ。成立当初から、「国民国家/近代国家」の国家戦略とは切っても切れない関係だったのだ。
スポーツは政治から独立すべし、として国家との接触を嫌う頑な「スポーツ原理主義者」は、確かに今も存在する。が、「政治力」を持たないと政治的な独立は保てない、とお節介な一言でこの一文を締めくくろう。
写真提供:フォートキシモト